アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

537 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第67代 桃園天皇

2019-02-06 13:21:02 | 日記

67 平安京 67代 通算 116 代 桃園天皇

 「桃園天皇」の画像検索結果

在位 1747年~1762年

業績(事件) 幕府との蜜月時代に陰り、宝暦事件

父   桜町天皇

別称  八穂宮

死因  脚気衝心

御陵 月輪陵

宝算 22歳

先代の桜町天皇もこの天皇も、先代の第一皇子であった事から考えると、皇位継承が安定的に平和に行われた時代であった。だたしいずれも30歳前後で薨去していて、新天皇は幼少で践祚している。桃園天皇も、6歳で皇位についていて父桜町の院政のもとであった。

年表を確認するが大きな事件の記載はなく、山脇東洋の死体解剖の初見を見つける程度だ。世は田沼意次の時代で、世の中は百姓一揆が頻繁に起こっている。幕末に向けて混乱の時代を予感する。

重要な事件は、何より桃園天皇自らに関わる「宝暦事件」である。まず、当時の朝廷の政治を仕切る藤原摂関家は、関白一条道香である。摂政・関白は、一条・近衛・鷹司・九条家の四家の内で回していたが、いずれも若輩で権勢の危機にあった。一方、天皇周辺にも、徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院などの若手公家たちが控えていた。ここに、竹内式部なる国学者が登場。この尊王論者の学者の学説が流行し、遂には、天皇に向けて直接進講するに至った。これに危機感を持った摂関家が幕府に注進(告げ口)し、竹内式部及び若手公卿が追放された。幕府の後ろ盾を頼りにする摂関家、尊王の思想に燃える若手公卿と天皇、政争を避けたい京都所司代の複雑な事情が背景にある事件だ。結局、まだ幕府の権力が歴然と存在した時代だったのだ。

自分の近習である若手公卿を失った桃園天皇は、摂関家と決定的に対立することになる。因みに、宝暦事件は多くの部分で冤罪であったとされる。天皇親政を目指す尊王思想が、初めて弾圧された事件は、その後幕末の尊王攘夷思想につながると言う意味では大変重要な事件だ。 

自らの片腕である摂関家と対決したまま、桃園天皇は22歳の若さで急逝し、自らの皇子が幼いため姉の後桜町天皇になる。泉涌寺の月輪御陵に葬られた。自身の功績を残すまでもなく無念の若さだった。

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536 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第66代 桜町天皇

2019-02-06 13:11:20 | 日記

66 平安京 66代 通算 115 代 桜町天皇

 「桜町天皇」の画像検索結果

在位 1735年~1747年

業績(事件) 幕府との蜜月時代

父   中御門天皇

別称  若宮

死因  脚気衝心

御陵 月輪陵

宝算 31歳

 

桜町天皇は、父中御門天皇の譲位により即位。時代は、徳川吉宗の時代で江戸幕府300年のちょうど半ばを過ぎた幕府安定期だった。その幕府の援助もあり、朝儀の復活に熱心な天皇だった。自らの政治力(朝廷内の)を強化するために、皇子桃園天皇に譲位し院政を始める。しかし、31歳の若さで3年後に崩御する。脚気によるとされるが、この頃流行した白米摂取によりビタミンB1不足で発病したと思われる。脚気は最終的に心不全に陥る。玄米食ならもっと長生きできただろうに、深窓の育ちにはよくある病気だった。現在は、栄養学の進展で例は少ないが、いまだに健康診断で膝を小さなハンマーで叩かれるのは、脚気の診断だ。

聖徳太子の再来と言われるくらいで、学問的業績は高く評価されている。歴史家で公家の柳原紀光は、「延喜・天暦の治以来の聖代」と評した。平安中期、醍醐天皇・村上天皇の親政の時代に匹敵すると評価したのだ。徳川幕府盤石の時代で、しかも31歳で亡くなった天皇には過分の言い方であり違和感を覚える。ただ、歌道は古今伝授を受けるほか、多くの著作(御製)や書(宸筆)を残しているのは事実だ。

誕生日が正月元旦であることなど外形的に聖徳太子に似た点が多く、太子の再来とすることで、朝廷の権威を高めたいという尊王への期待が高まりつつあった証拠だと思う。徳川政権盤石とは言え、長く天皇親政から遠ざかり朝廷への権力復帰を期待する機運が存在したのだと思わざるを得ない。京都と江戸に温度差が生じ始めた証拠だ。

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535 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第65代 中御門天皇

2019-02-06 10:03:44 | 日記

  65 平安京 65代 通算 114 代 中御門天皇

 「中御門天皇」の画像検索結果

在位 1709年~1735年

業績(事件) 幕府との蜜月時代

父   東山天皇

別称  長宮

死因  病死(インフルエンザ)

御陵 月輪陵

宝算 37歳

中御門天皇の生まれは、元禄14年である。そう、浅野内匠頭切腹の年だ。幼少期ながら忠臣蔵の話は、この天皇にも伝わったはずだ。内匠頭が接待役となった勅使・院使の天皇とは、父東山天皇・祖父霊元上皇の事である。将軍は、吉宣・家継・吉宗の時代で、朝幕間の関係は良好の時代だ。父の東山の院政と、祖父霊元の院政の間が長く、ご自身の功績は少ないが、重要な施策が実現している。

また世は、「正徳の治」の時代である。新井白石の登場だ。忠臣蔵では、助命論を退け切腹を進言したが、皇位継承の危機をあらかじめ感じた白石は、新たに宮家の創設を提言した。世襲親王家の閑院宮家の誕生だ。東山天皇の皇子の一人が初代閑院宮となる。後年、光格天皇即位時に皇統断絶の危機を救う事になる。強調したいのは、現在に新井白石はいない。皇統の危機なのにだ。眞子妃殿下の結婚問題にかまってられる状況ではない。勿論、眞子様にはお幸せになって欲しい。週刊誌ネタに振り回される場合ではないと言いたい。側室を許さない時代であれば新宮家の創設も選択肢の一つだ。

因みに、在位中、霊元上皇の皇女が、将軍家継に降嫁する話が出来ていた。公武合体の実現だ。天皇の皇女が江戸城に入るのは初めての事であった。結局、家継が早世した為、実現せず幕末の皇女和宮の降嫁を待たなければならない。公武合体が切実な課題となっていたのだ。

中御門天皇も文化的に優秀な方で、御製を多く残しながらも若くして崩御した。長生きすれば多くの文化的・皇室行事的な功績を残すはずであった。また、「象」を見た初めての天皇で、ベトナムからの使者のお土産で、天皇に拝謁する為には、無位無官では実現できないと象に「従四位」の位を与えている。面白い逸話だ。当然直答は許されない簾内での対面であった。その時の御製、「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」

「中御門天皇」の画像検索結果

天皇の感動が伝わる和歌だ。その薨去はとても惜しまれての事と記録されている。

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534 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第64代 東山天皇

2019-02-06 09:50:19 | 日記

64 平安京 64代 通算 113 代 東山天皇

 「東山天皇」の画像検索結果

在位 1687年~1709年

業績(事件) 赤穂浪士の時代

父   霊元天皇

別称  五宮

死因  病死(疱瘡)

御陵 月輪陵

宝算 35歳

 

東山天皇は元禄時代の全期間を天皇でおられた。幕府の将軍は、犬公方徳川綱吉だ。忠臣蔵との関係をまず書きたい。『時は元禄14年、赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、勅使・院使の御接待係を拝命し、その作法を吉良上野介に教わった。田舎侍扱いを受けた内匠頭は、遂に江戸城松の廊下にて「刃傷」に及び切腹、しかし吉良は無罪となった。』その勅使とは、東山天皇のお使い(名代)の事だ。 さぞかし天皇はお怒りの事と思うが、京で知らせを受けた天皇、「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と、言った。喜ばしいと言ったのだ。御所の整備などに尽力した浅野家に対しては好意を持っていた。一方、朝廷にも様々な裏工作を仕掛ける上野介を嫌っていた。

この事で、筆者は一気にこの天皇を好きになる。さらに、勅使が京都御所に戻った時、内匠頭切腹に対し何も幕府に取りなさなかった事(浅野家を見殺しにした)で、この勅使を宮中参内禁止にしている。筆者は、これで一層好きになる。討ち入り後の感想は伝わっていないが、さぞかしお悦びの事と推察する。

ただ、天皇の在任中すべてにわたり父霊元上皇の院政の時代であるので、自らの手腕はなかなか発揮出来なかった。それでも子の中御門天皇に譲位し院政を始めるが、半年で崩御した。無念であったろうと思う。

また、綱吉も家宣も朝廷への敬愛は篤く「朝幕関係」は概ね良好であった。それでも、当時幕府の人事権であった武家伝奏(朝廷内の幕府連絡係)の人事を自ら行うなど朝廷の復権に努めた。江戸幕府全盛期にも気骨ある天皇がいたのだ。

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533 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第63代 霊元天皇

2019-02-06 09:09:49 | 日記

63 平安京 63代 通算 112 代 霊元天皇

「霊元天皇」の画像検索結果

在位 1663年~1687年

業績(事件) 有職故実に精通、儀式復興に努める

父   後水尾天皇

別称  高貴宮(あての宮)

死因  病死

御陵 月輪陵

宝算 79歳

 

さて、この時代京都は、いよいよ観光都市として確立している。応仁の乱以来、江戸幕府が安定するまで長く戦乱の中にあった京都にやっと平和が到来した。3代将軍家光や5代綱吉の生母桂昌院、また後水尾天皇の皇后徳川和子(東福門院)たちが、それぞれの財力と信仰心から、京都の重要寺院の復活を指揮した。

家光は、東寺の五重塔・石清水八幡の本殿・地主神社(今は恋占いで有名)・二条城・延暦寺(信長の焼き討ち以来)・知恩院の御影堂・清水寺など。桂昌院(因みに玉の輿の由来と言われる京都の八百屋の娘お玉)は、南禅院・善峯寺・西明寺(槙野尾)・乙訓寺・智積院などを改修した。東福門院和子は、実家の徳川家の援助もあり、清水寺の成就院・今熊野神社・修学院離宮などを再建した。このように世の中が安定したお陰で歴史的建造物が、次々に再建され多くが今に至るまで残っている。

さらに平和の恩恵が庶民にも行きわたる。弥次喜多道中に代表されるように、京都・伊勢・高野山などが訪ねたい人気観光地になって行った。さらに京都観光案内書も多く出回る。それは天皇においても文化的活動に専念できる環境になったと言う事だ。因みに、元禄時代、江戸が70万人くらいに対して、京都も40万人くらいの人口になっていた。

さて、霊元天皇までしばらく後水尾上皇の内親王・親王の時代が続いた。この天皇はとにかくすごい。

まず長寿である事だ。78歳まで生きた。生存中の天皇は、父108代後水尾天皇、姉109代明正天皇、兄110代後光明天皇、兄111代後西天皇、112代後本人、子113代東山天皇、孫114代中御門天皇と、7代の天皇と時代を共有し、自らは皇子として皇太子としてさらに上皇(院)として生きたのである。また、生存中の徳川将軍は、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗と、5人の将軍と関わった。そして、皇女・皇子が半端ではない。父の後水尾に匹敵する生殖力だ。今の皇族と違ってお相手がいっぱいいる時代ではあるがすさまじい。

次に、一宮(長男)を飛ばして四宮(4男)の東山天皇を後嗣にするため反対派の公家を処分し飛ばしている。一宮である長男相続が一番安定した後嗣であるが、なぜかそうしなかった。一方、側近の公家とは花見で泥酔するような豪放磊落な性格だったようだ。要は好き嫌いのはっきりした大酒のみの天皇だった。

更に、長く中断していた新天皇の重要行事である大嘗祭を復活した。東山天皇即位の時に実現したが、これは幕府から相当な資金援助を受けないと出来ない事で、政治力も半端ではない。毅然と幕府に対応したのだろう。

最後に、「霊元」って名前がすごい。神代太古の昔の大ミカド孝元天皇・孝霊天皇の一字ずつ頂いている。珍しい諡号だ。

京都西山の柳谷観音の奥院の御本尊である中御門天皇勅刻の観音様は、祖父霊元天皇の眼病完治のお礼に奉納されたものだ。その後代々の天皇に、眼病に効果があると言われる独鈷水が献上されている。今でもこんこんと湧き出る飲料可能な名水だ。

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