番外 長講堂
京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町
正式名 法華長講弥陀三昧堂
宗派 西山浄土宗
開基 後白河法皇
本尊 阿弥陀如来三尊像
法皇忌
昨日4月13日は、希代の策士家である後白河天皇(法皇)の命日である。その日を「法皇忌」という。長講堂を訪ねて来たので番外とし後日番号をつける。
後白河法皇はアチャコの京都日誌には度々登場する大物である。皇室の歴史上稀有の存在感があった。何しろ父の鳥羽天皇との確執から始まり、源義朝や平清盛などの源平の武将を手玉に取った。信念など微塵もなく皇室と自らの権力の継承だけを唯一の判断基準とした。その一方、「梁塵秘抄」という今様(現代の流行歌のようなもの)の集大成を書き残してもいる。加えて神社・寺社も多く創建し神教・仏教への帰依も深かった。三十三間堂(蓮華王院)は清盛からの寄進により出来たものだが、法皇の文化・宗教活動の発信基地でもあった。
今回の長講堂は、仙洞御所(上皇の御所)内の持仏堂であったものを、秀吉の時代に現在地の六条富小路に移されたが、創建当時は相当広大な敷地にあったと思われる。本日窺った長講堂は周囲20m四方の一般的な檀家寺の趣である。門を入ると正面に本堂、左に書院。質素な庭園の右には後白河法皇像の安置されている御影殿となっている。普段は拝観は行われず、観光寺院とは一線を画している。書院から本堂に通ると、御本尊の阿弥陀三尊像の前に50人ほどの信者さんがいて法要読経中であった。ちょっと親戚の多いご家庭の法事と言った感じで、とても後白河法皇の法要とは思えない。むしろそれが厳かな感じがして良い。筆者は片隅から丈六の阿弥陀如来を拝む。しっかりと黄金の輝きが残っていて輝いて見えた。創建当時のものであるが、光背は江戸時代に作り直したと言う事で残念ながら重要文化財指定のようで、筆者は国宝で良いのではないかと思う。書院の奥一段高い貴人席の背後には、後白河法皇御真影(模写)が掛けてあった。よく本で見る馴染みのお姿である。その他掛け軸や拓本された石碑の文字を表装した襖など寺宝の多さがうかがえる。
希代の傑物でも晩年は・・・・。
中庭は狭いが整った枯山水庭園である。因みに茶室は「亭雲」筆者は、寺の方に「停電」と読んで顰蹙をかった。一度出て、御影殿の方へまわり手を合わせる。桃の花が一木に赤とピンクの花を同時に咲かせていた。しばし受付の妙齢なご婦人と談笑し短い時間だが、落ち着いた時間と空間を堪能した。最後に、寺宝に「過去現在牒」というものがあるとお聞きした。法皇が歴代天皇を始め、義朝・清盛始め数々の法皇が関わった人物の名が直筆にて羅列されているものである。その中には歴史に名もない庶民の名もあり権力の闘争に生きた法皇が死に臨み本来の優しい人格を取り戻したのだと思いたい。周辺の佇まいも特別なものはなく一般的な住宅地にある。法皇の御陵のある大和大路七条の法住寺もそうだが巨大寺院でないところが良い。
京都地下鉄五条駅から10分だが、普段は門の前から拝むしかないので念の為。