46番 常照皇寺
京都市右京区京北井戸町丸山
山号
宗派 臨済宗天龍寺派
開山 光厳天皇
本尊 釈迦如来
京都の奥の奥
足を伸ばして右京区の果てまで行く。三尾からでも車でさらに小一時間かけてたどり着く。京都市内の喧騒からかけ離れ北山杉の山道を丹波地方に向けてドライブする事になる。常照皇寺という意味深い寺院は京都の奥座敷の更にその果てにある。北朝初代の光厳天皇が南北朝騒乱の果てに、失意の後に出家し開創した寺である。境内奥には、その御陵である山國陵と、後花園天皇の後山國陵もある。
見所は、国指定の天然記念物の枝垂れ桜だ。見事な九重さくらだが近年の気候変動と寿命とで存亡の危機と聞いている。方丈や開山堂から眺める庭園も絶品でゆっくり座って鑑賞したい。
悲運の天皇を語る
常照皇寺は、光厳天皇を語らねば理解できない。そもそも筆者は、この天皇が歴代天皇に数えられていないのは理不尽と考える。明治維新後、神国日本の国づくりを推し進めるあまり、極端な皇国史観から逆賊足利尊氏、英雄楠木正成の構図を作り上げる過程で光厳天皇の存在が薄められた。光厳天皇は、後醍醐天皇から正式に三種の神器を譲り受け即位している。後に「あれは偽物であった。」と、後醍醐天皇に言われたが、そんなことは関係ない。時の天皇が保持している物が「神器」なのである。1331年鎌倉倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が隠岐に流される前に、幕府の推挙により即位した。しかし、1333年隠岐を脱出した後醍醐の詔により廃された。その時後醍醐天皇は、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」とし、何と即位そのものを否定した。これをもって光厳上皇という。依然として、光厳天皇の時代とも言える。後醍醐天皇の重祚と考えるか、隠岐の間も天皇であったと考えるか。いずれにしても後醍醐天皇に続き、97代天皇とすべきであろうと筆者は考える。光厳天皇は長い上皇時代に、「観応の擾乱」による一時的な南朝方の権力回復により、吉野に幽閉されている。その様に誠に理不尽な人生であった光厳上皇は、晩年夢想疎石を師とし禅僧として、京都の奥深いここに眠った。常照皇寺に残る「光厳法皇像(絵画)」は禅僧そのもののお顔である。
市内から遠く離れて訪ねる価値はある。