アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

番外 仮名手本忠臣蔵

2019-04-12 08:17:39 | 日記

文楽鑑賞

「仮名手本忠臣蔵...」の画像検索結果

仮名手本忠臣蔵を11段通しで上演するという「快挙」が現在大阪国立文楽劇場で行われている。歌舞伎で同じ演目を見たことがある。人形浄瑠璃である「文楽」が発祥の演目である事は聞いていた。その証拠に、歌舞伎では序幕においては黒子に扮した人形が各配役を紹介する。大看板から中堅まで名のある俳優が舞台上に揃う。紹介されるまでは、首を垂れて人形になっている。口上にて紹介されるとやおら人形から生身の人間になって行く演技をするのだ。忠臣蔵発祥の文楽への敬意が表されている。

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たかが人形劇と言うなかれ。「塩谷判官切腹の場」は、義太夫もほぼなく人形の使い手の絶妙な至芸が見れる。歌舞伎の様に屋号を叫ぶ大向うもなく、しんとした中、歌舞伎同様涙無しにはいられない。「通さん場」と言って場内は如何なる事情があっても移動は禁じられる。太平記や歴史的登場人物が時代を越えて出て来るので予備知識が必要だが、平成から令和に変わろうが伝統芸の物凄さは伝えなければならない。

今回は、4段目まで。夏と冬で11段目まで続く。行かねばならない。

十二段家 - すき焼き定食 2600円十二段家 - 名物定食です♪

因みに、京都祇園の「十二段屋」(日本で最初にしゃぶしゃぶを提供した)は、11段まで芝居を楽しんだ後は、12段目としてこちらで食事でも・・・。という意味だそうだ。よほどの芝居好きな主人だったのだろう。

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592 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 47番 源光菴

2019-04-12 08:13:54 | 日記

47番 源光庵

京都市北区鷹峯北鷹峯町47

山号  鷹峯山

開基  徹翁義亨 (復古堂)

宗派  曹洞宗

本尊  釈迦如来

別称  復古禅林

 

二つの窓

再び市内に戻り、北区鷹峯方面の名刹をいくつか訪ねる。まず源光庵は、数年前に「そうだ京都に行こう。」キャンペーンで紹介され一躍人気寺院になった。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」を通じて眺める四季の移ろいが楽しい。〇は、拘りのない宇宙であり純粋な悟りを現わし、□は、「生老病死」という人の根本的苦悩を現わす。本堂右横の庭園に向かってこの窓があり、そこに座ったり寝転んだり日がな一日過ごすのは贅沢な時間だ。秋の紅葉が一番人気だが、寒いが雪景色も一層趣深い。

寺の創建は室町時代で当初、臨済宗大徳寺派だったが、江戸時代に曹洞宗に改宗した。京都には数少ない曹洞宗寺院である。北山を借景とした枯山水庭園の苔むした趣が良い。稚児の井という古井戸からは今でも名水が汲める。

徳川幕府成立の立役者 忠臣鳥居元忠

 Torii Mototada.jpg元忠

しかし本当に注目してもらいたいのは、「血天井」だ。関ケ原の戦いに至る前段階で、家康は京都伏見城を出て奥州の上杉征伐に出かける(実は反石田勢力を徳川に味方する戦力にするため)。従って、その留守中に石田三成一派が伏見城を攻める事が予想された。留守居役の鳥居元忠の役目はただ一つ、時間を稼ぐ事だった。主力の兵を残そうとした家康に対して、「天下をお取りになる殿の為に・・・。」と、残兵は最小にするように進言した。彼は家康からの感状(戦場で手柄を後日保証する為その場で部下に渡す書状)を、私と殿との関係でそんな形式は不要と拒んだくらいの忠臣である。その元忠はすでに死を覚悟していた。事実数十倍の三成勢に対して十二分に時間を稼ぎ、関ケ原での家康勝利を実現した。後日、伏見城に戻った家康は、元忠始め自害した部下を丁寧に葬るが、床板にしみ込んだ血の跡は取れず、その為床を天井板にして長く弔う事とした。その寺院が京都には数か所ある。七条東大路の養源院、西賀茂の正伝寺、宇治の興聖寺、三千院近くの宝泉院、そしてここ源光庵だ。生々しいその血痕を見上げて欲しい。ぞっとする(怖)

次は、隣の常照寺へ

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