アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

548 アチャコの京都日誌 新シリーズ 京の100寺巡行 4番 誓願寺 

2019-02-18 08:53:03 | 日記

4番 誓願寺

京都市中京区新京極三条下る桜之町453

正式名 山号はない

創設  天智天皇 勅願

宗派  浄土宗西山深草派

本尊  阿弥陀如来

 Seiganji in Shinkyogoku, Kyoto.jpg

仏光寺からは、四条通に出て新京極を北へ10分ほどで門前につく。

上京区の西陣地区に元誓願寺通と言う東西の通りがある。今出川通の南、笹屋町通の北。東は新町通、西は七本松通間の短い通りだ。平安時代以前、天智天皇の勅願で奈良に創設されその後この地にあった。時代は過ぎ秀吉の寺町・寺の内政策で現在の新京極に移転されたが、通り名にその歴史が残る。

門前には、月下氷人石(迷子道しるべ)と言う石碑が見える。携帯もメールもない時代、訪ねる人(迷子)を探す為に繁華街に設けられた掲示板(伝言板)だ。よく出来た仕組みで、側面に探している人「たつぬるかた」別の側面に知っている人「おしふるかた」、を貼りマッチングして行く。同様のものが、北野天満宮には奇人氷人石、八坂神社には奇縁氷人石がある。

その誓願寺の本尊の阿弥陀如来坐像は、新京極通からお顔が拝める。通りがかりに手を合わせて行く人も多い。

55世の住職、安楽庵策伝は、「醒睡笑」で笑い話を集め落語の祖と言われている。

浄土宗も、知恩院を総本山に、西山三派、禅林寺永観堂の西山禅林寺派、粟生光明寺の西山浄土宗、そしてこちら西山深草派など派閥争いの歴史でもある。現在はない。

 

自由に本堂内にお参り出来る。立派な阿弥陀座像の前にゆっくり座りひと時を過ごす。やはり浄土宗・浄土真宗系は自由だ。

次が町堂、革堂の行願寺へ。

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547  アチャコの京都日誌 新シリーズ 祝新元号 京都100寺巡礼 ③ 仏光寺

2019-02-17 08:25:34 | 日記

3番 仏光寺

 

下京区高倉通仏光寺下ル新開町397番地

正式名 渋谷山佛光寺

創設  親鸞  中興 了源

宗派  浄土真宗仏光寺派

本尊  阿弥陀如来

 「仏光寺」の画像検索結果

平等寺から、烏丸通りに出て北に数分歩くと、仏光寺通りの交差点を東に曲がると左前方に見えて来る。山門は東向きで阿弥陀堂・御影堂は本願寺と同じく東向きである。伽藍配置も本願寺と同様北に阿弥陀堂、南に御影堂(大師堂)となっている。

京都一番の繁華街の四条通からすぐ南、綾小路通と仏光寺通の間に以下のような大変重要な寺がある。創建の歴史は、特に浄土真宗の苦難の歴史を物語る。承元の法難により追放された宗祖親鸞が、1212年京都に帰り山科に一宇を始めた興隆正法寺が仏光寺の始まりである。時代は、後鳥羽・順徳の承久の変前夜の事である。1320年に中興の祖である了源が、布教活動の為東山渋谷に移転する(現在の国立博物館辺り)。寺格としての仏光寺はここを始まりとする。寺名は、後醍醐天皇により「阿弥陀仏光寺」と定めたことによる。一方その同時期、親鸞の曾孫の覚如により親鸞の廟堂が本願寺として一派を形成する。そして本願寺は応仁の乱の時代には、8世蓮如が隆盛を誇る。その流れに、仏光寺一派の経豪(後の蓮教)が、離反し蓮如に従い、山科に興正寺(興隆正法寺の流れ)を創設する。仏光寺は経豪の弟を門首にし秀吉から現在の場所に仏光寺の再建を許した。その後現在まで代々渋谷氏と名乗る住職が法脈を繋いでいる。勿論、現在は本願寺との争いはない。

以上、浄土真宗の内部争いと戦乱に巻き込まれ転々とした歴史である。寺宝には、「了源上人絵系図」などを持つ。境内は東西本願寺より狭いが、拝観料は要らずゆっくりお参りが出来る。浄土真宗のお寺はどちらもオープンである。

次は、誓願寺を目指す。

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番外 年を重ねると「気にいらない事」が多い ⑤

2019-02-15 08:55:22 | 日記

沖縄の県民投票は何を目的にするのだろうか。もとより沖縄の不幸な歴史は理解している。我々日本の繁栄と平和は、多分に沖縄のある種の犠牲のお陰をもって成り立っている。そこを前提に、県民投票の意味を問いたい。

嘉手納基地の固定化は許せない、辺野古移転も許せない。そのような県民の感情は理解できる。しかし国家は全体最適を判断し、行政において施行する。各住人の全部を理解し賛成してもらえる施策ばかりではない。現在、行政組織の施設建設の反対運動がよく報道されるが、「住民エゴ」でしかない。ごみ焼却場や刑務所などはまだ理解できても、少年更生施設や果ては、保育園までも反対運動の嵐だと聞いている。一方、待機児童問題に先頭きって抗議する連中かも知れない。

筆者もエゴの塊なので、近所になにがしかの施設が建設される事には反対するかも知れない。しかしそれに強権的に実行できるのが行政であり、選挙で選ばれた政治家の政治である。沖縄の基地を他のどの都道府県に移転しようとも猛烈な反対運動に合う。全体適正によって沖縄に基地があるのである。従って、沖縄には担当大臣を置くなど、特別に支援している。基地の周辺にはその関連業者として生計を立てている方達もいる。現実はその様に回っているのだ。

筆者は、国家行政施行法(仮称)など、法整備によって国会で十分に議論した上で、実行する場合には地元自治体の投票結果には左右されない法律が必要だと思う。何?今でもそうだ?じゃあ、なぜ県民投票などするの???

因みに、同性婚を認めろとの訴訟が出された。???

今や自由な世の中だ。何でも自由だ。いずれ、複数婚(妾を認める)など、なんでもありの世の中になる・・・。同性婚も含めて多くの人間にとって不快に思うという素朴な感情はどうしてくれるのだろう。インテリは、多様性を認めよと言うが、倫理観や家族像という内面には立ち入れないし、道徳観の崩壊の懸念はないのか?

「私は裸で表を歩きたい。」従って公衆わいせつ罪を廃止しろ!とかの訴訟が出て来ないか?

しかし、セクシャルマイノリティーの方々にはどうすれば良いのか、筆者には博識がない。

前半と後半は、論点が違う。後半は一部の方には許しがたい暴言かも知れない。お許しを・・・・。

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546  アチャコの京都日誌 新シリーズ 祝新元号 京都100寺巡礼 ② 平等寺

2019-02-15 08:38:44 | 日記

2番 平等寺(因幡堂)

上京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町728

正式名 福聚山平等寺

創設  橘 行平

宗派  真言宗智山派

本尊  薬師如来

 「平等寺」の画像検索結果

 

六角堂から烏丸通を南に15分ほど歩くと左手(東)に見えて来る。

創建は、平安初期の官吏橘行平。吉川弘文館発行の「京都古社寺辞典」によると、行平が因幡の国に赴任中、夢告を得て加留津(鳥取)の沖に光るものがあり、引き上げるとインド伝来の薬師如来で、直ちにお堂を建てる。京都に戻って後、薬師如来が虚空を飛んで行平の自宅に来た為、自宅にお堂を創り祀ったと言う。また、広く伝わる話では、行平が因幡赴任中に重篤な病気にかかり夢でお告げがあり加留津の沖に薬師如来を見つけた。それに祈るとたちまち病気が治った。いずれ京都に戻る時にはお連れすると約束するが、自分だけ帰京すると、ある晩京の自宅に尋ねるものがいて出て見ると薬師如来が、空中を飛んで来たのだと言う。驚き丁寧に祀ったと言う話だ。

平等寺の名前は、その後平安後期、高倉天皇が命名した。現在は、がん封じの御利益で有名だ。善光寺の阿弥陀如来、清凉寺の釈迦如来と共に、日本3如来として有名だ。創建当時から変わらずこの場所にある。多くが移転を繰り返すが、どの古地図を見ても、六角堂と薬師堂は今の場所に大きく表示されている。

因みに、烏丸通から一本東の車屋町通はここ松原以南は、「不明門通」と言う。ちょうど薬師堂の正門に当たるが、そこが常に閉ざされていた為である。例えば、五条西洞院通の五条天神宮における「天使突抜通り」に似た通り名である。こちらは通りが神社の中を突き抜けていた為だ。

次は、行願寺を目指す前に、仏光寺を訪ねる。

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545  アチャコの京都日誌 新シリーズ 祝新元号 京都100寺巡礼

2019-02-14 09:46:56 | 日記

アチャコの京都100寺巡礼

 

1番 頂法寺(六角堂)

京都府京都市中京区六角通東洞院西入

正式名 紫雲山頂法寺

創設  聖徳太子

宗派  単立(天台宗系)

本尊  如意輪観音(秘仏)

「頂法寺」の画像検索結果

 

京都の不動産物件を言う場合、「田の字」の内とか外とかという表現をする。碁盤目の京都市内で、北は丸太町通、中心の四条通、南の五条通、そして、東は東山通、中心は河原町通か烏丸通、西は堀川通をトータルで「田の字」と呼ぶ。その内側を京都の中の京都という意味だ。その中心地が六角堂だ。まさに境内には「京都のへそ」と呼ばれる石がある。

京都一の繁華街である「寺町・新京極」にも歩いて行けるし祇園界隈にも足を伸ばせば15分~20分で行ける。

頂法寺はその本堂が、六角形なので通称六角堂と言うが、江戸時代の一時期六角ではなかったらしい。創建は聖徳太子だが、親鸞聖人が比叡山から降りてここで「夢告」を得た事が有名だ。また、代々の住職が池坊を名乗り、御本尊に花を供えた事から、立花し華道の家元としての方が有名になっている。一昨年の映画、「花戦(はないくさ)」で詳しく描かれた。

御本尊は、如意輪観音(座像)だが、秘仏で普段はお前立を拝む。そのお前立は6臂の観音様だが秘仏は2臂らしい。

平安遷都以前から、平等寺(因幡堂)行願寺(革堂)と並んで「町堂」と言って庶民に親しまれていた。六角堂は、平安京造営の時に、条里制の通りが寺のど真ん中に位置する事となり、取り壊しの危機があったが、お堂自らが北方に移動したと言う。現在は、聖徳太子に因み、「学業成就」の御利益を期待する人で賑わう。昨年秋には、狭い境内で高級ブランドのグッチが大々的に販売キャンペーンを行うなど現代の「町堂」の存在感を発揮している。

筆者は、京都に宿泊した時は、早朝の六角堂にお参りするのが習慣だ。まず、5時の鐘楼の音で起こされる。アラーム時計ではない目覚めは至福の瞬間だ。そして、早朝の空気が澄んだ中、山門をくぐって線香をあげて手を合わせる。朝から丁寧に読経の声が奥から聞こえる。前立の御本尊如意輪観音に手を合わせる。空を見上げれば大空が広がるはずだ。しかし実際はどれも違う、六角堂を見下ろすようなマンション街がそびえ立ち、特に気になるのが池坊の本部ビルが本堂の数倍の存在感を誇っている。なお、読経は録音、鐘はオートマチックである。残念!

次は、京都3大町堂(六角堂・革堂・因幡堂)の内、平等寺因幡堂へ。

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