エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

春に時雨るる

2012年02月07日 | 日記
またまた立春に関連して俳論的にコメントしたいのである。
昨日は、天気予報に反して午前からシトシトと時雨た。

今日は驟雨といった降り方である。

時雨は情緒溢れる自然現象である。
多くの俳人は、どう詠むのだろうと思う。



家庭菜園・・・に降る雨の滴である。

雨の冷たさや、量感、肌感覚の重たさなどなど詠みこむのは難しい。
空はどんよりとして鉛色にくすむ。

ぼくは雨に降りこめられるのが嫌で、表にいる。
とんでもない情報が飛び込んできて、その真偽の裏を取る必要に迫られているのである。
真贋を見極めるのは極めて難しいのである。
人は思い入れで物事を語り、先入観念で判断をする動物であるからだ。



水仙も雨に濡れそぼっている。

他者は知らず、語らないのであって活字で理解する。
文字の好きな民族性が、時として誤謬を招きかねず、おどろおどろした情念の世界で意識が浮遊する。
詩歌が飛躍的に世間に導入されたのは推して知るべしである。

とりわけ俳句は575の中で、宇宙を表現した。
人の情念までも表現したのである。




      浮寝鳥水たおやかに抱きすくむ      野 人




ぼくは昨日「浮寝鳥」を観察した。
ワタリの鳥たちが、水面に浮きつつ休息する姿である。

従って、冬の季語である。
美しい語感の言葉である。



      開花まだ遠き気配の春立ちぬ       野 人



いま季節は冬と春とが限りなくシンクロして、その狭間でぼくたちは季節を捉え、自らを表現しようとしてもがいているのである。
のたうちまわって、しんぎんする。

クりエィター(表現者という意味で)の必然である。

季節の混沌。
季節の響きに、もっと耳を傾けなければならないのである。



さて、昨夜はタコヤキの夕食であった。
関西出身でもないのに、我が家にはタコ焼き機がある。



具沢山のタコヤキである。
大ぶりのタコ、天かす、紅ショウガ、キャベツ、チーズなどなどパンパンに入れ込む。

タコヤキは、そのキャパスティが無尽大である。
最後には結局丸々と丸まってくれるのである。

今日は、タコヤキで大団円である。





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 荒野人


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