「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」(Ⅰサムエル9:16新改訳)
この章はイスラエル初代の王サウルが、サムエルによって選ばれた経緯(けいい)を記している。そしてそのあと間もなく、二代目の王ダビデが選ばれてサウルは神に捨てられていくという出来事がⅠサムエル記の大部分、つまり三一章まで続くのである。▼両者の生涯は対照的で、サウルは悲劇の最後を迎え、ダビデは幸せに満ちた生涯を全うし、救い主は「わたしはダビデの子イエス」とまで名乗るほどの祝福をダビデに与えた。じつはこれこそサムエル記のテーマであり、福音の中心を成す真理の開示といえる。私たちは、神の前におけるサウルとダビデのどこが違うのか、綿密(めんみつ)に味わわなければならない。▼神はもちろん、サムエルも「王が欲しい」という民の要求を喜ばなかった。はたして、外面的にすぐれたサウルは選ばれるとまもなく馬脚(ばきゃく)をあらわし、その不敬虔な歩みのためサムエルを失望させ、二代目の王としてダビデが選ばれた。ところがサウルはダビデをねたみ、残忍にして執拗(しつよう)な追及を続け、ダビデはさんざん苦しめられる。▼しかしその苦難を通してダビデは資質をきよめられ、人格を陶冶(とうや)され、イスラエルの理想的な王として成長していったのだ。こうして詩篇が生まれ、イスラエル王国の繁栄が築かれ、メシア誕生の系図が続く。人の罪ある要求も神の摂理の御手により、栄光ある歴史の土台と変えられる、そこにキリストの福音の偉大さが織りなされていくといってよい。サムエル記を通し、神の御知恵の深遠さと人の愚かさをも恵みに変えてしまう愛の大きさを人類は学ぶことになる。