白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
罪は何であるか、それから大罪と小罪との違いは何であるかをいままでご紹介しました。それから、七つの罪源を簡単に紹介しました。罪に関して、最後に説明する課題はもう一つ残っています。罪に先立つ「誘惑」のことを紹介する必要があります。
誘惑というのは非常にデリケートなときです。罪へ導くときにもなれば、うまく抵抗したら、逆に罪を退けて勝利へ導くときにもなります。罪を犯す前段階は誘惑なのです。罪を犯さないために、誘惑に負けないことです。そして、誘惑に負けないためにどうすればよいかについてが、今回の講話の課題なのです。
誘惑の意義は二つあります。第一に、誘惑とは天主から送られた試練でもあります。つまり、天主が許可した試練という意味です。周知のとおり、このような試練を許したことがよくあります。天使たちに対しても、アダムとエバに対しても試練を許したように、私たちにも天主が試練を許すことがあります。
もちろん、「罪に陥れる」ために送られる誘惑ではありません。天主はそうするわけがありません。むしろ、我々の天主への愛を試すために、試練を送るのです。よく考えてみたら当たり前でしょう。親も子供に対して優しく子供を試すことと似ています。つまり、子どもの能力を試して、刺激して、子供の改善と上達のための試練です。
また、「試験」のようなものですね。試験とは知識を試すために、この意味で試練です。そもそも「試し」といった時、どういう意味でしょうか?「証明するため」と意味が強いです。試験の場合、「知っていること」を証明して、明かすためにあるのです。誘惑という試練は「天主への愛の証」となります。
そして、天主への私たちの愛を天主がご覧になって喜んでおられます。私たちも愛されてほしいと同じように、天主も愛されてほしがっておられるのです。そして、私たちも愛の証を貰う時、喜ぶのです。そして、われわれは愛している人々を時々試すこともあります。同じように、天主は私たちへ試練を送るのは私たちの愛を試すためです。私たちの愛の強さを試すのです。
そういえば、私たちへ天主は試練を送ると同時に、その試練を乗り越えるための恩寵をも与えてくださいます。大事なことですが、誘惑に勝つために必要である恩寵を必ず天主が私たちに与えてくださいます。ですから、天主は本当の意味で善なのです。まさに善き天主なのです。
つまり、天主は試練を送るだけではなく、試練を乗り越えて、誘惑に勝つための力・手段・武器をも与えてくださいます。その上、実際、誘惑に凱旋した時、天主は私たちのためにさらに恩寵と栄光の増加をあたえてくださいます。つまり、誘惑が与えられて勝利する時、私たちにとって善いことばかりです。ですから、本当に善き天主です。試練を与えたもう時、誘惑に勝つための武器をも与え賜って、勝利した時、その勲章である恩寵と栄光の増加をも与え給う善き天主です。
~
誘惑の切っ掛けはなんでしょうか?罪へ導く刺激である誘惑とは三つに分けられます。
第一、現世欲があります。「現世欲」とは厳密にいうと、原罪によって我々の霊魂に残る傷跡なのです。前に観た通り、原罪のせいで、人間の霊魂は傷つけられました。そして、このせいで、塞がっていない傷口が霊魂に残っているのです。この傷口は「現世欲」と呼ばれています。で、時々、これらの傷口がまた開いてしまう時、現世欲による誘惑が出ています。
現世欲は三つあります。色欲をはじめ、感覚の欲望を満たすような貪食などがあります。それから、金をはじめこの世の物事に対する強欲などもあります。また、傲慢による現世欲もあります。要するに、「優秀になりたい、出世したい、人々に認めてもらいたい、目立ちたい」といったような現世欲もあります。これらは現世欲であって、現世欲において誘惑の一つの源があります。この源は日常にだれでも感じられて、残念ながらも現実に経験していますね。
第二、「世俗」なのです。これについても前にちょっと紹介しましたが、「この世」あるいは「世俗社会」は誘惑の源です。現代こそはそうです。例えば、街を歩いて広告やCMなどをご覧になってください。あるいは、世論調査をはじめ、いわゆる無用の商品を買わせるためにどうすればよいかという類の「マーケティング調査」などをご覧になってください。これらは、人々の現世欲を刺激するようなものです。こうした「世俗」あるいは「この世」こそは人々の霊魂の傷口を改めて開けてしまう時の誘惑です。人為的ですね。罪へ堕とすための人為的な誘惑ということです。
そして、誘惑の第三の源は悪魔自身です。悪魔が動き出す時です。ただ、悪魔は直接にかかわる前、人間の心にある現世欲と「この世」を利用するのです。そして、現世欲とこの世の誘惑を示しても霊魂に影響がない時だけ、悪魔は直接に手を出すことがあります。
諸聖人の人生を見ると、以上のような流れは明らかです。ある意味で、残念ながらも、罪をよく犯す人々、頑固に罪人になっている人々に対して、悪魔は手を出さなくてもよいわけです。現世欲だけで、このような罪人は罪に堕ちるからです。あるいは、「この世」の圧力だけで罪へ転んで充分であることがほとんどです。
残念ながら。しかしながら、「禁欲」と苦行を繰り返す修道士のような人々に対して、あるいはあえて俗の世から引いた人々に対して現世欲は効かなくなります。そういえば、私たちの主、イエズス・キリストも「この世」から出て砂漠に行った場面は有名ですね。断食と祈祷をするためでした。砂漠ですからもはや、砂漠では現世欲を刺激するようなこともなければ、この世の圧力もないのです。この場合、悪魔自身が動き出して、誘惑しにくることがあります。福音には、砂漠に行ったイエズス・キリストに対して、三回ほど悪魔が誘うのです。
そして、聖人の人生を調べても同じようなこともよくあります。聖人に対して、悪魔はよく誘うことがあります。悪魔自身も誘惑の源であり、人間を誘うのです。
さて、具体的に誘惑される時、どうなっているでしょうか?誘惑において、三段階に分けられています。
第一の段階は「客体」次元に起きて、それから、第二と第三の段階は「主体」において起きるといってもよいです。
第一の段階とは「示唆」なのです。
第二の段階とは「歓喜」なのです。
第三の段階とは「同意」それから「罪」なのです。あるいはもちろん「罪に対する勝利」ですね。
第一の段階とは「示唆」なのです。これは理解しやすいと思います。以上に紹介した誘惑の源に近いです。つまり、「罪の可能性」は私たちの目の前に現れる時です。あるいは、霊魂の前に「魅力」が提供されている時です。つまり、誘惑というのは、「磁化」のようなものです。つまり「示唆」として誘惑が働きかけて、霊魂を「磁化」させてみます。磁場のようなもので、誘惑は霊魂を魅力して引き寄せるような段階です。
つまり、現世欲の魅力が現れて、「この世」は魅力的な物事を提供して(身分、憧れ、快楽等々)、霊魂の傷口を開けるように働きかけます。この時、誘惑の対象によって霊魂は引き寄せられている状態なのです。なんでもいいですが、肉体的な快楽でもあり得るし、世俗の快楽でも精神的な快楽(悪い意味での好奇心、過剰に知識好き等々)でも何でもいいですが、霊魂はその何かにたいして磁化されていて、引き寄せされるような、つい巻き込まれるような段階です。
かなり強い示唆であるということです。そういえば、この意味で、残念ながらも、悪魔も世俗もかなりずる賢いです。ある意味でまさに奇術のようなものです。本来ならば偽りのものを「善いもの」として何かを私たちの目に見せかける奇術です。
実際、罪人も偽りのものであることはよく知っています。というのも、誘惑に負ける時、事後、必ず偽りのものだったことは気づくからです(改悛しない人々は一切認めませんが)。誘惑と罪のその虚しさ、その儚さ、その無意味性に必ず気づくのです。「まさか、このためにもう一度騙されたか」という気持ち。これは誘惑の第一の段階です。「示唆」です。
第二の段階は「歓喜」です。世俗も悪魔もずる賢くやるということはいうまでもありませんね。誘惑が現れる時、私たちは「歓喜」するように招かれています。例えば、具体的にいうと、営業者はこのような「商売術」をよく使っていますね。商売のために、何かを売ろうとするとき、商品は非常に立派でこの上ない良い商品であるといって売りつけようとするような。
「あらあら、この商品を持たないで君がいままでどうやって生活できただろうか?」というような感じですね。このような「心理的な働きかけ」ですね。そして、私たちの心において「歓喜」が生じるように働きかけるというものです。「この「罪」は善いよ、歓喜すべきだよ、快楽すればよいよ、いいものだからさ」といったような働きかけです。
創世記では、エバが誘われる際、「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」 と書いてある通りです。「歓喜」の段階です。悪魔はエバに「さあ、木の実をたべな」と示唆します。そして、エバは木の実を見て、「なんて美味しそうな実だ」と思っています。それは当たり前ですね。良き天主は綺麗な物事ばっかりを創りだされたから、綺麗に決まっています。
「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」この段階では、歓喜してすでにある種の快楽があります。この第二段階では、「どうしても快楽したい、手に入れたい、享受したい」という欲望に囚われています。肉体的な快楽でも、世俗的な快楽でも、精神的な快楽でもなんでもいいです。自己満足にせよ、傲慢を満たすような快楽にせよなんでも。
以上は第二の段階なのです。「歓喜」です。私たちの心にそれぞれの感情などが動かされている段階です。激情によって動揺させられて、魅力に感じさせられたりするせいで、知性が暗くさせられる危険の段階であり、あるいは誘惑の対象のみに執着するあまりに、知性の光が弱くなると、意志すら激情に流されて「行こうよ、行こうよ」というこの偽りの善に引き寄せられる危険の潜んでいる段階です。
それから、第三段階こそ罪に落ちるかどうかは決まります。意志が関わっている段階です。つまり「同意」です。つまり、誘惑が示唆されても、歓喜させられても、意志が「やるかやらないか」を最終的に決定するのです。「やる」と決定してしまったら歓喜の誘いに同意することになります。罪へ飛び出すことになります。誘惑に負けました。罪によって引き寄せられてしまい、罪の奴隷となります。現世欲の奴隷となります。
あるいは、意志は「やらないぞ」と決定します。誘惑に勝ちます。凱旋します。その上、本当に自由となります。誘惑から解放されるだけではなく、自分の現世欲からも解放されます。自由となりました。ですから、罪は「奴隷」にさせるものです。一方、意志的に誘惑を拒絶する人は奴隷ではなくて、本当の意味で自由となります。
以上、誘惑をご紹介しました。
誘惑から逃れられる人は誰もいません。誘惑に必ず遭うのです。もちろん、人間なら皆、原罪によって傷つけられているからですが、また、「試練」としての誘惑でもありますので、誘惑自体は悪いことではありません。むしろ、善いことです。誘惑のお陰で「勝利」することができて、また善において「鍛える」こともできて、より自由になれます。
そして、必ず思い出しましょう。善き天主は誘惑を乗り越えるための恩寵を必ず与えてくださいます。また、勝利した時、恩寵と栄光の増加で報いを与え給います。
このようにして、誘惑に対する抵抗力を鍛えた時、誘惑が来てもあまり努力しなくても勝利するようになります。このようになったら、誘惑が出ても何のインパクトはないような境地となっていきます。つまり、最初にかなり強い印象を与えていた誘惑、歓喜を引き起こすような誘惑は、鍛えていくにつれて、霊魂はなんとも動揺しなくなります。
ただし、このような状態に達するためには誘惑に抵抗するように鍛えるべきです。さて、誘惑に抵抗するために、具体的にどうすればよいでしょうか。
定番の手段は祈祷と犠牲なのです。それ以外にもほかの手段もありますが、まず祈祷と犠牲はメインとなります。というのも、祈りによって、自分を天主に捧げることにしていますので、祈る者は天主の内に生きているのです。そして、天主の内に生きている者は誘惑が現れる時、反射的にでもすぐ、天主の方へ向かいます。誘惑に対する大きな武器となります。
祈りだけではなく、苦行も大事です。苦行によって、私たちの現世欲を抑制します。また、現世欲を意志に仕えるようにさせる苦行です。断食によって、清貧によって、貞潔によって現世欲を抑制します。そして、鍛えたら、身体は自然に霊魂に従うことになります。そして、そのおかげで、霊魂はより自由となり、天主によりよく従順になっていけます。
祈りと苦行の他に、誘惑に抵抗するための有力な手段は「無為を避けること」にあります。「無為は悪のもと」という諺があるのですが、まさにそうなのです。暇たっぷりのある人は悪魔による示唆の機会が増えるわけです。無為で暇なので、多くの誘惑が出てくることは簡単です。逆にいうと、無為にならない人には誘惑の機会も減っていきます。
そういえば、歴史に照らしても、教会が命じた修道会用の戒律は良くできています。修道会に入る男あるいは女はその修道会の戒律に従うことを誓います。そして、多くの修道会では違う戒律の一つの共通点は「いつも何かやることをあたえられている原則」という点です。修道士は忙しいです。いつも忙しいです。なぜでしょうか。忙しければ忙しいほど、誘惑される機会が少なくなるからです。そして、修道の生活がなぜ一番、人を聖化する生活様式であるかはそれでわかるのです。
ちなみに、現代では本物の「忙しさ」は見失われています。残念ながらも、いわゆる「IT技術」のせいで生じる弊害は大変です。画面を見て「暇つぶし」だと思っても、これは無為を避けることとは違います。かつてまで、いわゆる休む時にこそ、「意義的に休む」嗜みがありました。何か芸術をやっても、庭の仕事をやっても、嗜んで読書するのも、何かについて徹底的に調べることも、みんな自然にできていたのです。
最近になってなんか何事にも感激しなくなっているような空気になっています。そのせいで、無為になることが多くなります。そして、無為になる時、何もかも示唆されることは容易になって、罪を犯しやすくなります。ですから、誘惑を防ぐために無為を避けることは重要です。
最後に、誘惑を恐れてはいけないことを繰り返しましょう。カトリック信徒は必ず誘惑を受けます。私たちの主、イエズス・キリストは誘惑を受けることになさったのです。なぜでしょうか?私たちに模範を残すためです。イエズス・キリストは砂漠で四十日間、ずっと誘われた結果、勝利して凱旋しました。これを黙想するのがよいです。誘惑に対する武器をイエズス・キリストは私たちのためによく示していただきました。断食と祈祷という武器です。
そして、イエズス・キリストは誘惑に勝ちました。これはつまり、「あなた達も勝つために私は勝ちましたよ」ということです。ですから、誘惑を恐れてはいけません。常に、祈る習慣を身につけて、できるだけ犠牲を捧げて、苦行をやって、無為を常に避けたら、誘惑を恐れることはありません。誘惑が来てもその影響はほとんどでないからです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第九十四講 誘惑について
罪は何であるか、それから大罪と小罪との違いは何であるかをいままでご紹介しました。それから、七つの罪源を簡単に紹介しました。罪に関して、最後に説明する課題はもう一つ残っています。罪に先立つ「誘惑」のことを紹介する必要があります。
誘惑というのは非常にデリケートなときです。罪へ導くときにもなれば、うまく抵抗したら、逆に罪を退けて勝利へ導くときにもなります。罪を犯す前段階は誘惑なのです。罪を犯さないために、誘惑に負けないことです。そして、誘惑に負けないためにどうすればよいかについてが、今回の講話の課題なのです。
誘惑の意義は二つあります。第一に、誘惑とは天主から送られた試練でもあります。つまり、天主が許可した試練という意味です。周知のとおり、このような試練を許したことがよくあります。天使たちに対しても、アダムとエバに対しても試練を許したように、私たちにも天主が試練を許すことがあります。
もちろん、「罪に陥れる」ために送られる誘惑ではありません。天主はそうするわけがありません。むしろ、我々の天主への愛を試すために、試練を送るのです。よく考えてみたら当たり前でしょう。親も子供に対して優しく子供を試すことと似ています。つまり、子どもの能力を試して、刺激して、子供の改善と上達のための試練です。
また、「試験」のようなものですね。試験とは知識を試すために、この意味で試練です。そもそも「試し」といった時、どういう意味でしょうか?「証明するため」と意味が強いです。試験の場合、「知っていること」を証明して、明かすためにあるのです。誘惑という試練は「天主への愛の証」となります。
そして、天主への私たちの愛を天主がご覧になって喜んでおられます。私たちも愛されてほしいと同じように、天主も愛されてほしがっておられるのです。そして、私たちも愛の証を貰う時、喜ぶのです。そして、われわれは愛している人々を時々試すこともあります。同じように、天主は私たちへ試練を送るのは私たちの愛を試すためです。私たちの愛の強さを試すのです。
そういえば、私たちへ天主は試練を送ると同時に、その試練を乗り越えるための恩寵をも与えてくださいます。大事なことですが、誘惑に勝つために必要である恩寵を必ず天主が私たちに与えてくださいます。ですから、天主は本当の意味で善なのです。まさに善き天主なのです。
つまり、天主は試練を送るだけではなく、試練を乗り越えて、誘惑に勝つための力・手段・武器をも与えてくださいます。その上、実際、誘惑に凱旋した時、天主は私たちのためにさらに恩寵と栄光の増加をあたえてくださいます。つまり、誘惑が与えられて勝利する時、私たちにとって善いことばかりです。ですから、本当に善き天主です。試練を与えたもう時、誘惑に勝つための武器をも与え賜って、勝利した時、その勲章である恩寵と栄光の増加をも与え給う善き天主です。
~
誘惑の切っ掛けはなんでしょうか?罪へ導く刺激である誘惑とは三つに分けられます。
第一、現世欲があります。「現世欲」とは厳密にいうと、原罪によって我々の霊魂に残る傷跡なのです。前に観た通り、原罪のせいで、人間の霊魂は傷つけられました。そして、このせいで、塞がっていない傷口が霊魂に残っているのです。この傷口は「現世欲」と呼ばれています。で、時々、これらの傷口がまた開いてしまう時、現世欲による誘惑が出ています。
現世欲は三つあります。色欲をはじめ、感覚の欲望を満たすような貪食などがあります。それから、金をはじめこの世の物事に対する強欲などもあります。また、傲慢による現世欲もあります。要するに、「優秀になりたい、出世したい、人々に認めてもらいたい、目立ちたい」といったような現世欲もあります。これらは現世欲であって、現世欲において誘惑の一つの源があります。この源は日常にだれでも感じられて、残念ながらも現実に経験していますね。
第二、「世俗」なのです。これについても前にちょっと紹介しましたが、「この世」あるいは「世俗社会」は誘惑の源です。現代こそはそうです。例えば、街を歩いて広告やCMなどをご覧になってください。あるいは、世論調査をはじめ、いわゆる無用の商品を買わせるためにどうすればよいかという類の「マーケティング調査」などをご覧になってください。これらは、人々の現世欲を刺激するようなものです。こうした「世俗」あるいは「この世」こそは人々の霊魂の傷口を改めて開けてしまう時の誘惑です。人為的ですね。罪へ堕とすための人為的な誘惑ということです。
そして、誘惑の第三の源は悪魔自身です。悪魔が動き出す時です。ただ、悪魔は直接にかかわる前、人間の心にある現世欲と「この世」を利用するのです。そして、現世欲とこの世の誘惑を示しても霊魂に影響がない時だけ、悪魔は直接に手を出すことがあります。
諸聖人の人生を見ると、以上のような流れは明らかです。ある意味で、残念ながらも、罪をよく犯す人々、頑固に罪人になっている人々に対して、悪魔は手を出さなくてもよいわけです。現世欲だけで、このような罪人は罪に堕ちるからです。あるいは、「この世」の圧力だけで罪へ転んで充分であることがほとんどです。
残念ながら。しかしながら、「禁欲」と苦行を繰り返す修道士のような人々に対して、あるいはあえて俗の世から引いた人々に対して現世欲は効かなくなります。そういえば、私たちの主、イエズス・キリストも「この世」から出て砂漠に行った場面は有名ですね。断食と祈祷をするためでした。砂漠ですからもはや、砂漠では現世欲を刺激するようなこともなければ、この世の圧力もないのです。この場合、悪魔自身が動き出して、誘惑しにくることがあります。福音には、砂漠に行ったイエズス・キリストに対して、三回ほど悪魔が誘うのです。
そして、聖人の人生を調べても同じようなこともよくあります。聖人に対して、悪魔はよく誘うことがあります。悪魔自身も誘惑の源であり、人間を誘うのです。
さて、具体的に誘惑される時、どうなっているでしょうか?誘惑において、三段階に分けられています。
第一の段階は「客体」次元に起きて、それから、第二と第三の段階は「主体」において起きるといってもよいです。
第一の段階とは「示唆」なのです。
第二の段階とは「歓喜」なのです。
第三の段階とは「同意」それから「罪」なのです。あるいはもちろん「罪に対する勝利」ですね。
第一の段階とは「示唆」なのです。これは理解しやすいと思います。以上に紹介した誘惑の源に近いです。つまり、「罪の可能性」は私たちの目の前に現れる時です。あるいは、霊魂の前に「魅力」が提供されている時です。つまり、誘惑というのは、「磁化」のようなものです。つまり「示唆」として誘惑が働きかけて、霊魂を「磁化」させてみます。磁場のようなもので、誘惑は霊魂を魅力して引き寄せるような段階です。
つまり、現世欲の魅力が現れて、「この世」は魅力的な物事を提供して(身分、憧れ、快楽等々)、霊魂の傷口を開けるように働きかけます。この時、誘惑の対象によって霊魂は引き寄せられている状態なのです。なんでもいいですが、肉体的な快楽でもあり得るし、世俗の快楽でも精神的な快楽(悪い意味での好奇心、過剰に知識好き等々)でも何でもいいですが、霊魂はその何かにたいして磁化されていて、引き寄せされるような、つい巻き込まれるような段階です。
かなり強い示唆であるということです。そういえば、この意味で、残念ながらも、悪魔も世俗もかなりずる賢いです。ある意味でまさに奇術のようなものです。本来ならば偽りのものを「善いもの」として何かを私たちの目に見せかける奇術です。
実際、罪人も偽りのものであることはよく知っています。というのも、誘惑に負ける時、事後、必ず偽りのものだったことは気づくからです(改悛しない人々は一切認めませんが)。誘惑と罪のその虚しさ、その儚さ、その無意味性に必ず気づくのです。「まさか、このためにもう一度騙されたか」という気持ち。これは誘惑の第一の段階です。「示唆」です。
第二の段階は「歓喜」です。世俗も悪魔もずる賢くやるということはいうまでもありませんね。誘惑が現れる時、私たちは「歓喜」するように招かれています。例えば、具体的にいうと、営業者はこのような「商売術」をよく使っていますね。商売のために、何かを売ろうとするとき、商品は非常に立派でこの上ない良い商品であるといって売りつけようとするような。
「あらあら、この商品を持たないで君がいままでどうやって生活できただろうか?」というような感じですね。このような「心理的な働きかけ」ですね。そして、私たちの心において「歓喜」が生じるように働きかけるというものです。「この「罪」は善いよ、歓喜すべきだよ、快楽すればよいよ、いいものだからさ」といったような働きかけです。
創世記では、エバが誘われる際、「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」 と書いてある通りです。「歓喜」の段階です。悪魔はエバに「さあ、木の実をたべな」と示唆します。そして、エバは木の実を見て、「なんて美味しそうな実だ」と思っています。それは当たり前ですね。良き天主は綺麗な物事ばっかりを創りだされたから、綺麗に決まっています。
「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」この段階では、歓喜してすでにある種の快楽があります。この第二段階では、「どうしても快楽したい、手に入れたい、享受したい」という欲望に囚われています。肉体的な快楽でも、世俗的な快楽でも、精神的な快楽でもなんでもいいです。自己満足にせよ、傲慢を満たすような快楽にせよなんでも。
以上は第二の段階なのです。「歓喜」です。私たちの心にそれぞれの感情などが動かされている段階です。激情によって動揺させられて、魅力に感じさせられたりするせいで、知性が暗くさせられる危険の段階であり、あるいは誘惑の対象のみに執着するあまりに、知性の光が弱くなると、意志すら激情に流されて「行こうよ、行こうよ」というこの偽りの善に引き寄せられる危険の潜んでいる段階です。
それから、第三段階こそ罪に落ちるかどうかは決まります。意志が関わっている段階です。つまり「同意」です。つまり、誘惑が示唆されても、歓喜させられても、意志が「やるかやらないか」を最終的に決定するのです。「やる」と決定してしまったら歓喜の誘いに同意することになります。罪へ飛び出すことになります。誘惑に負けました。罪によって引き寄せられてしまい、罪の奴隷となります。現世欲の奴隷となります。
あるいは、意志は「やらないぞ」と決定します。誘惑に勝ちます。凱旋します。その上、本当に自由となります。誘惑から解放されるだけではなく、自分の現世欲からも解放されます。自由となりました。ですから、罪は「奴隷」にさせるものです。一方、意志的に誘惑を拒絶する人は奴隷ではなくて、本当の意味で自由となります。
以上、誘惑をご紹介しました。
誘惑から逃れられる人は誰もいません。誘惑に必ず遭うのです。もちろん、人間なら皆、原罪によって傷つけられているからですが、また、「試練」としての誘惑でもありますので、誘惑自体は悪いことではありません。むしろ、善いことです。誘惑のお陰で「勝利」することができて、また善において「鍛える」こともできて、より自由になれます。
そして、必ず思い出しましょう。善き天主は誘惑を乗り越えるための恩寵を必ず与えてくださいます。また、勝利した時、恩寵と栄光の増加で報いを与え給います。
このようにして、誘惑に対する抵抗力を鍛えた時、誘惑が来てもあまり努力しなくても勝利するようになります。このようになったら、誘惑が出ても何のインパクトはないような境地となっていきます。つまり、最初にかなり強い印象を与えていた誘惑、歓喜を引き起こすような誘惑は、鍛えていくにつれて、霊魂はなんとも動揺しなくなります。
ただし、このような状態に達するためには誘惑に抵抗するように鍛えるべきです。さて、誘惑に抵抗するために、具体的にどうすればよいでしょうか。
定番の手段は祈祷と犠牲なのです。それ以外にもほかの手段もありますが、まず祈祷と犠牲はメインとなります。というのも、祈りによって、自分を天主に捧げることにしていますので、祈る者は天主の内に生きているのです。そして、天主の内に生きている者は誘惑が現れる時、反射的にでもすぐ、天主の方へ向かいます。誘惑に対する大きな武器となります。
祈りだけではなく、苦行も大事です。苦行によって、私たちの現世欲を抑制します。また、現世欲を意志に仕えるようにさせる苦行です。断食によって、清貧によって、貞潔によって現世欲を抑制します。そして、鍛えたら、身体は自然に霊魂に従うことになります。そして、そのおかげで、霊魂はより自由となり、天主によりよく従順になっていけます。
祈りと苦行の他に、誘惑に抵抗するための有力な手段は「無為を避けること」にあります。「無為は悪のもと」という諺があるのですが、まさにそうなのです。暇たっぷりのある人は悪魔による示唆の機会が増えるわけです。無為で暇なので、多くの誘惑が出てくることは簡単です。逆にいうと、無為にならない人には誘惑の機会も減っていきます。
そういえば、歴史に照らしても、教会が命じた修道会用の戒律は良くできています。修道会に入る男あるいは女はその修道会の戒律に従うことを誓います。そして、多くの修道会では違う戒律の一つの共通点は「いつも何かやることをあたえられている原則」という点です。修道士は忙しいです。いつも忙しいです。なぜでしょうか。忙しければ忙しいほど、誘惑される機会が少なくなるからです。そして、修道の生活がなぜ一番、人を聖化する生活様式であるかはそれでわかるのです。
ちなみに、現代では本物の「忙しさ」は見失われています。残念ながらも、いわゆる「IT技術」のせいで生じる弊害は大変です。画面を見て「暇つぶし」だと思っても、これは無為を避けることとは違います。かつてまで、いわゆる休む時にこそ、「意義的に休む」嗜みがありました。何か芸術をやっても、庭の仕事をやっても、嗜んで読書するのも、何かについて徹底的に調べることも、みんな自然にできていたのです。
最近になってなんか何事にも感激しなくなっているような空気になっています。そのせいで、無為になることが多くなります。そして、無為になる時、何もかも示唆されることは容易になって、罪を犯しやすくなります。ですから、誘惑を防ぐために無為を避けることは重要です。
最後に、誘惑を恐れてはいけないことを繰り返しましょう。カトリック信徒は必ず誘惑を受けます。私たちの主、イエズス・キリストは誘惑を受けることになさったのです。なぜでしょうか?私たちに模範を残すためです。イエズス・キリストは砂漠で四十日間、ずっと誘われた結果、勝利して凱旋しました。これを黙想するのがよいです。誘惑に対する武器をイエズス・キリストは私たちのためによく示していただきました。断食と祈祷という武器です。
そして、イエズス・キリストは誘惑に勝ちました。これはつまり、「あなた達も勝つために私は勝ちましたよ」ということです。ですから、誘惑を恐れてはいけません。常に、祈る習慣を身につけて、できるだけ犠牲を捧げて、苦行をやって、無為を常に避けたら、誘惑を恐れることはありません。誘惑が来てもその影響はほとんどでないからです。