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T.S.エリオットのChristianity &Culture を読んでみた

2024-10-19 00:49:20 | 政治

以前の日記でご紹介した、伊藤貫先生一押しご推薦の書籍「Christianity &Culture(キリスト教と文化)」を購入しました

その事は以前申し上げましたが、やっと前半部分を読み終える事ができました。

いや、英語が観念的なものが多く、とても難解でした

ただ、この時点で私が関心を持った部分について書いておくとすると、まず、リベラリズムについての記述があげられます

 

リベラリズムとは、「自由主義」と訳すことができますが、いま現在の日本では保守派の人に嫌われることが多いと思います

その理由は、「新自由主義」と呼ばれているものが、特にグローバリストたちによって思想的に悪用されているからですが

著者のT.S.エリオットは、この書籍を書いた1930年代において既に、リベラリズムが別の安直な意味に

誤解されて解釈される可能性を予見していました

リベラリズムとは、本来は違う意味なのですが、安直な解釈により、「伝統や文化の破壊」がリベラリズムだ、と

そう解釈される可能性がある点について指摘しています。。。つまり、伝統的なキリスト教文化の破壊ですね

伝統文化にがんじがらめに縛られた不自由な現実から解放されること、これがリベラリズムだと言うわけです

なるほどそう考えると、そのリベラリズムとはまさにジョージ・ソロスの主張する

「開かれた社会(オープンソサイエティ―)」そのものですね

 

ただ、その場合のリベラリズムは、伝統・文化を破壊しつくした後には何も残らないため

最後には勢いが消えうせ消滅する運命にあると、エリオットは指摘しています

つまり、伝統文化を破壊するのはいいが、その後には何も残らず、善も悪も何もなくなってしまうわけです

また、安直な破壊衝動に裏付けられたリベラリズムが台頭する過程においては、逆のもの。。。。

つまり、そのリベラリズムを圧力をもって制限しようとする体制が現れる、それが全体主義であったりするわけです

 

全体主義(トータリタリアニズム)は、エリオットも指摘していますが

全体主義それ自体が、自由主義と民主主義の二つを内包していると、全体主義国家では考えられています

つまり、全体主義国家には自由主義も民主主義もあるのだ、というのが全体主義者の主張です

どういう意味かというと、全体主義とは、つまり国民の総意の結果として、決定されたことに従うのが全体主義だからです

そこには国民の「総意」という錦の御旗があります

分かりやすく言えば、「コロナ過においては、日本全国の飲食店を閉店させるべき」という雰囲気が

日本全国に蔓延していましたね?これが分かりやすく言うと「全体主義」なのです

「コロナ過でお店を開けている経営者は犯罪者だ、人殺しだ」とか

「コロナワクチンを接種しない人間は他人のことを考えない利己主義者だ」、とヒステリックに叫んでいる人がいましたが

これが高じて、社会全体がそういう雰囲気を醸し出してくると、これが全体主義になるわけです

このことは、ハンナ・アーレントの著書に詳しく書かれています

 

それで、問題はですね、キリスト教諸国が、ヒトラー政権下のドイツをどう考えるべきかについて悩んだわけです

この「全体主義」の政治体制が、キリスト教国家において起きたのかどうかが大問題だったわけです

異教徒(キリスト教国以外の)の国家であれば、「あの国は異教徒だから。。。」で片づけられたものが

ドイツの場合は、やはりキリスト教国家でした。。。だから都合が悪かったがために

ドイツのキリスト教を「ドイツの国教」と呼ぶなどして、キリスト教から切り分けるような努力もされた、と言われています

つまり、どこかを間違えばキリスト教国も全体主義になるのか?それとも異教徒だから全体主義なのか?

これが、多くの国家の国民には理解できなかったわけです

だから単純に「異教徒だから」と片付けようとした

戦前の日本が全体主義国家と呼ばれたのも、おそらくは「異教徒だから」で片づけられたに違いありません

その方がキリスト教国家にとって安心できるからです

 

この書物、こうした自由主義や民主主義、全体主義、キリスト教国の政治体制などについて、非常に鋭い考察がなされています

国家の指導者が敬虔なキリスト教徒であるかどうかは、キリスト教国家としての形にはさほど影響がなく

問題は、国民の意識、総意的な感情のようなものによって、指導者の統治も変わることを指摘しています

ですから、国家として、国民がどのような宗教を持ち、どのような倫理観を持つか

それは非常に大事なことなのです

ここで、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」についての考察も入りますが

国民が何を善とし、何を悪と考えているか?それが重要なのです

生まれてから素朴に信じてきたキリスト教プロテスタントの信仰が、自然にその社会の倫理観を形成する

そういう共通の価値観が育まれてきたからこそ、実は、自分の国がキリスト教国家だと意識しなくても

キリスト教の教えに基づく善悪の価値観に基づく政治が行われてきた。。。これがキリスト教国家だった

これが結論になります

 

日本には素晴らしい文化がありますが

これが形成されてきた背景には、実は家族による素朴な信仰教育がありました

主に日本の倫理観を育ててきたのは、仏教と二宮尊徳精神でした

これが最近の核家族化の流れによって失われつつあります

今の福祉社会の弊害を一つ申し上げておきましょう

それはね。。。様々な介護サービスが普及することで、そこに国がお金を出すことで

「年寄りの生活の面倒は、国が見てくれる」という方向に行きつつあります

そしてそのことが、家族間で継承されてきた素朴な信仰観、倫理観を破壊しているように、私には思えるのです

だからこそね、これが今日最後の私の言いたいことですが、私はMMT(現代貨幣理論)にかぶれている人に言いたいのです

「税金は国家予算の原資じゃない」。。。これはMMTの一番の核になる考え方ですが

この「家族の面倒を国に見させる。。。国にお金を出させる」という考え方が、すでに左翼的で共産主義的なんですよ

これ、絶対日本を駄目にする破壊思想です。。。国民の倫理観を破壊し、無責任な国民を多数輩出してしまいます

だからこそ、「国民の血税」という言葉をあざ笑わないで欲しい

そう、切に思うものです

 

それではまた

 

 

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