絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

稽古

2006年09月20日 23時39分15秒 | 一絃琴
昨日は稽古日でした。時間内に「明石」しかできませんでした。
普通に音合わせをして、もうそのままこの曲に入ったのに
この曲だけで終わってしまいました。
次の「春の調べ」を弾いてもらう時間もありませんでした。
まあ、こんなんだと、一通り終わるまでどれくらいかかるのでしょう。
何年もかかってしまいますね。

「明石」には、新しい弾き方が入っていました。
左手の呂管で、レの音(開放弦の)を弾くのです。
あと、板を押して音にうなりを加えるやり方もでてきます。
この曲も筝曲のアレンジのようですから、筝曲の『明石』を
知っていてこの曲を弾くのと、私のように全然知らずに
弾くのとでは、おのずと違ってくるように思います。
できるだけ、筝の雰囲気を出そうとするのか
あるいは、あくまで一弦琴らしい演奏にするのか。
いずれにしても、やっぱり、知っている方が断然良いですよね。

発表会

2006年09月11日 23時02分27秒 | 一絃琴
年に何回かあるのですが、今年は後半出られない日程のが多いです。
こういうお稽古はやはり秋口に発表というのが圧倒的に多いかと思います。

人前でできるだけたくさん演奏するのが、上達の秘訣ですが
今年はしょうがないですね。
こういうときもあるでしょう。
いままでは無理してでも出ていましたが、
あせることはない、人間、死ぬまでは命あります(当たり前!?)
命ある限り、この琴を弾く、そう考えれば「発表会」も何ぼのもんか!
...なんて思ったりしますね。
(なんか怒りモード


明石

2006年09月02日 01時05分38秒 | 一絃琴
8月の2回目の稽古は、上の子の帰省と重なりお休みしました。
バタバタしているときには、なかなか集中できないので
お稽古に行っても、よく練習できないのです。

『明石』という曲に入りましたが、
とてもとても長いです。
5分以上あります。で、ずっと似たようなメロディです。
ところどころに合いの手(間奏)が入りますが
まあ、全編同じような感じ。。。
これは筝曲のアレンジでしたっけ?

前に弦が切れてから、なかなかいい音にならない…って
全然じっくり練習していません。というかできていません。
ハワイ頭もなおらないし。。。

一弦琴だけのことならいいのですが、
いろいろとその周辺のことが煩わしくて
やる気が出ない…考えも整理できていない…

「弾いている本人だけが楽しければいいのよね」と
いい切れる人がうらやましいです。
全然そんなふうに思えません。
なぜなんでしょう。。。

よく「人に聞かせるものではない、自分ひとりのために弾くのだ」
などなど解説してあるのを見かけるし、そう聞きもするのだけど
え?じゃあ、決して人前に出なければいい、と
そういう心情ならば、人前で弾くべきではないのでは?と
思うんですよ。

自分ひとりのために弾くのであるけれども
良い演奏の端くれを、よければ聞かせて進ぜよう、、、
みたいな不遜な態度が堪えられない。。。
ほんとうに、ほんとうに一絃琴はそういうものなのか。。。

「自分ひとりのために弾く」の解釈が間違ってるんじゃないのかしらん?
どの楽器でも、演奏家はまず自分があっての演奏と
考えるでしょう。しかし、それは、自分自身の表現、という
そういう意味ではないのでしょうか。
他者を念頭に置いた表現ではない、という意味なのでは?
絵画や文学でも同じことが言えるのではないでしょうか。

などなど、もろもろ考えて、煮詰まってしまうんですね~~

PCで聞く一絃琴

2006年08月10日 23時23分59秒 | 一絃琴
ときどきコメント下さる方がご自分のサイトで演奏を披露されています。
(期間限定でしたか?)
生音ではありませんが、その方の演奏の「雰囲気」はよく伝わってきます。

ほかに、ホームページで披露されている方もいらっしゃいます。
短くて、もっとサビまで聞きたいと思うようなときもあります。

ごく最近聞かせていただいた曲は「浮世草」と「虫の音」です。
この「浮世草」は前にも書きましたが「浮世」すなわち男女の仲あるいは
それに関するようなこと、という意味があります。


袖もたもとも 絞るまで そぼ降る雨に濡るれども
あかぬ色香を 身に染めて(しめて)立ち去りがての 花影に
すがりすがりて いつまでも え~ええ~
さりとは さりとは また 浮世なり

この曲のいわんとするところをどのようにとらえるかは
その弾き手の方次第(のようですので)
この曲のかもし出すムードもそれによって変わってくるということになります。
先生からは、女の人はあんまりこれを弾くべきでない、
などと言われています。理由はいわれないのですが…
この曲のもつ、花街情緒みたいなのがいやなのかよくわかりませんが
男性が弾くのはいいらしいんです。

私が思いますには、かりにこれを純情風に弾こうとしても
どうしても「え~ええ~」の部分で躓くと思うのですが
どうでしょうか?

また「虫の音」も「君を待って」「蛍の身を焦がす」というのですから
かなり強烈です。この曲のようにいたって単純な曲は大変難しくて
実際情感を込めるのがとてもとても難しいです。
技術というより、人生経験がものをいうのかも知れません。

連続投稿

2006年08月08日 20時51分48秒 | 一絃琴
先ほど、先生から電話があり、大正琴の人から流れてきたボランティアの演奏を
代わりに行ってくれないかとのことでした。

いままで、ひとりで演奏したことがなく、急にやれと言われても
何をどうしたらいいかわからないです。。。
また、大正琴の演奏の代わりに一絃琴ちゅうのも
なんだかな~~と思ったりします。

もっと、たくさん練習し、人前の演奏もいっぱいやって慣れてきたなら
ひとりでの演奏も挑戦してみたいと思ったりしますが…
まず、自分がそのようにひとりで弾いてもよいような腕なのか!?
という疑問がよぎります。


久々に稽古日

2006年08月08日 10時13分44秒 | 一絃琴
昨日は午後から灼熱地獄の稽古日でした。
一週間前に、「一」の音あたりで弦が切れ(なんでそんなところで切れたの!?)
新しい弦にしてから、あんまり練習してなかったので
弾く度に音が落ちていくのが目にみえていて、やる気出ず。。。

「年の尾」「枯尾花」渋すぎて、全然理解できず。
演奏は、難しいところはないので、歌とその雰囲気だけですね。
その次の曲は「明石」またまた長いです。
よく演奏されますが、途中で区切って弾いているのでしょうか。

春に演奏会があってからずっと何もなくきていますが
11月に集中してあるようです。
いままで、4人で「今様」をくぎって弾いていましたが
今度は「四季の曲」を分けて弾くので、「秋」を練習しておくように
昨日言われました。
『チリチリ~~~~』というのがある曲ですね。
これを弾くとき、右小指が立ってしまっているとちゃんとした音になりませんよ
といつもの先生の言。
琴の音色が生きる演奏、それがはっきりする箇所でもあります。


あ、晴れてきた!?台風どうなってるんでしょね。

予定は未定

2006年07月23日 23時25分37秒 | 一絃琴
今日は本当は一絃琴の先生のお宅で、先生の知り合いの方が
琵琶を演奏して下さるのを聞きに行く予定だった。
しかし、急用で行けなくなった。
最近そんなのばっかりだ。

2,3日前に、ある七弦琴のサイトを見ていたら
一絃琴のことも少し書いてあった。
このサイトはいままで全然知らなかったものだ。
琴と筝の違いは琴柱の有無ではない、とあったが
何の違いかまで、書いてあるところをまだ探せていない。
(現在のこの認識への批判が書いてあるのは読んだ)

琴にしろ筝にしろ、それを弾く人の気持ちはいろいろで
教授する指導者の方の考えもこれまたさまざまだろう。
このサイトをみていて感じるのは、不思議に一絃琴のときに
感じたことと同じ匂いがすることだ。
非常に大切に思いながら、これがポピュラーなものとなって欲しくはない
という考え、ある種の選民思想、選ばれものたちだけがその価値を
見いだし、共有するという…高みからものごとをみる姿勢だ。
(そしてやはり同じように他の楽器を低くみなす。)

自分が好んでその楽器に携わるのは結構だが
だからといって他の楽器を低くみなすこともないと思うが。。。
(また、そのためにわざわざ理屈をこねることもないと思うけれど)

洋楽にしろ、邦楽にしろ、はたまたその他の芸術、工芸というようなもの
でも、その道を窮める人はみな同じような哲学を述べる、
と常々思う。それは、スポーツでもいえるかもしれない。
自分の携わることについては言及しても、類似した他のことについて
比較して、よりその意義を強調するというようなことはしないと思うが
どうなんだろう。
いつもこの排他的な空気に窒息しそうになる。。。




手入れ

2006年07月13日 08時55分02秒 | 一絃琴
お稽古は「年の尾」に入りました。
今まで以上に、この曲の雰囲気がわかりません。。。
ああ~~~~~何とかならならないのか。。。
どうしたらいいのかわかりません・・・
先生も、いまいち自分のものになってないとおっしゃる。
習う側はなおさらわからん、ですね~~~
(教える人にわからん物が教えてもらう人にわかろうはずもないって)

その次は「明石」です。
これはよく弾かれる曲ですね、良い曲らしいですが
この曲の演奏を聞いて、「ああ、いい曲だなあ・・・」と
しみじみ思ったことがないということはどういうことなんでしょ?

話変わりますが、前々から、一絃琴の手入れを先生からは『日本手ぬぐい』の
ようなもので磨きなさいと言われてました。
たまにはやっていましたが、あるときふと、そろばんを習っていた頃
『紅絹(もみ)』という紅い絹で玉をふいていたことを思い出し
ためしに絹でこすってみたところ、すごくきれいになりました!

それ以来、練習の気乗りがしないときは、
絹で琴やら琴台やらをこすりまくって磨いています。
結構、ぴかぴかになってきます。(お試しあれ)

またまた、△の音

2006年06月25日 01時24分54秒 | 一絃琴
この前のお稽古のとき「千代の友」で△の音を弾きました。
いままでずっと、う~~~~んという感じで悩んでましたが
今度はもう先生には聞かずに自分がこれだと思う音で弾いちゃえ、
と思っていたので実行いたしましたところ
何も指摘を受けませんでした。
良かった、良かった。

じゃあ、今までの音はなんだったのか?なんてことは
あまり追求せず、これで一件落着ということにしておきましょう。
ようは、△は一と二の間の音ってことですね。
はずし音でも、弾いていて気持ち悪くない音が
その音なんですよ、きっと。

開放弦の音

2006年06月23日 21時55分28秒 | 一絃琴
うちの先生は開放弦の音を「D♯」であわせています。
先生によっては「D」で合わせておられるかもしれません。
結構高めですね、これですと「十一や十二」の音を歌うのが
苦しくなるかもしれません。

高い音で始まる「浮世草」など
わたしにとっては、結構歌いだしが難しいです。
この曲は、一絃琴では珍しい、俗世間を歌った?ものです。
でもとてもいい曲です。

古典で言うところの「浮世」とは「男女の仲」ですから
そのような曲ととらえるのが妥当でしょうが
最後で
「さりとは さりとは また浮世なり」と
しみじみ歌うところは、男女のことも含め
「生きる」ということのままならない感じを出しているような
そんな気がして、心惹かれる曲のひとつになっています。

練習曲

2006年06月22日 15時52分40秒 | 一絃琴
「住之江」に進んだけれども、結局また「千代の友」も
最初から練習することに。
でも、もうやらないと思っていたので、
もし自分で練習してなかったらアウトでした。

わたしが「千代の友」で躓いていたのは
六九 ー六五ー五ー六                               
   (レ)七  六 六
の箇所と、後弾きの「九十七 六 〇」以降の部分。

はじめの箇所は、『六』を一拍、次の九の前に半拍「ン」と
入れると調子がでるが、そういうふうには教授されていません。
譜のままであります、でも、譜どおり先生方が皆教えているとは
限りません。
(そこんとこ、何とかならないのだろうか?非合理的)
次に、後弾きのところですが、
最後は、三味線だったら『早く』弾いてかっこいい感じかも。
そしてゆっくりと終わるのか。
この「六七六七五六三四・・・」の箇所、早く弾かないと
この曲の感じではなくなるような気もしますが、
果たしてどうなんでしょうか。

いずれにしても、新譜作成のとき
歌の譜もつけてくだされば良くわかったのに
また、拍も徹底されてないところがあって
悩みますね。
こんなふうにあれこれ疑問を抱かず
ただ、言われたとおりに弾いてりゃいいってもんですが。

飯能市で

2006年06月21日 00時41分54秒 | 一絃琴
7月の初めに、飯能市で一絃琴の流派を越えた演奏会があり
高知、須磨、東京は江之会が出演するそうです。
今日、お稽古のとき先生からお聞きしました。
この、高知と東京の演奏の聴き比べというのは、
なかなか興味深いと思います。

この前、果たして確かな伝承はあったかなかったか、と
お稽古のときそんな話にもなりましたが、
結局、いまここに曲が残されているなら、
それがどんな演奏方法であろうと、それを伝承という他は
ないのかもしれませんね。

他の流派のことはわかりませんが、現存の演奏家で
もしかつての演奏に近い弾き方をしている人がいるとしたら、
それはA先生ではないかとひそかに思っています。
根拠は…それは、この先生の書かれた物を読むとわかりますが
徳弘太むの次女の「山城一水」氏から濃密に琴の伝授を受けたのは
この人なのです。もう、独立して会の名も「山水」とは
付いてないのが残念なことです。

そのようなことをうだうだしゃべってしまい(先生に)
「真偽のほどは、Aさんに聞いてみないとわからないね。」と
一蹴されたので、近々お聞きしてみたいと思っています。
(有言実行

先に進まず

2006年06月13日 19時04分29秒 | 一絃琴
今日は稽古日でしたが、一絃琴の歌についてのお話で終わり
『須賀』を弾いただけになりました。

もう、歌のことはいいや、などと思っていたので
なぜ、先生が急に歌のことを話し出されたのかわかりませんでしたが
きっと新しく入られた方が、わたしが歌のことばかり言っていたので
それを話されたんでしょう。
(別に伝えてくれなくても自分で聞いているからよかったのに・・・)

歌のことから発して、そもそも一絃琴の確実な伝承はあったのか、
という話題になりました。これは前々からお聞きしたかったことです。
もし、それがないなら「一絃琴の歌い方」などという指導自体が
空虚になるからです。

歌もそれぞれの人が一生懸命歌えばいいと思いますが、
いつも疑問に思うのは、何を歌っているのかわからないような
言葉のくぐもった歌い方を誰が『一絃琴の歌い方』として
教えているのか、またその根拠は何なのかと思うのです。
なぜというとですねー、その「何を言っているかわからない」歌のせいで
結局一絃琴自体が聞く人の共感を得られなくなっていると思うからです。

少しくらい音がずれていても、あるいは声がかすれていたとしても
その人が生きてきた想いが感じられるような、
そんな演奏がいまは聞いてみたいです。

芸風

2006年06月12日 23時41分01秒 | 一絃琴
一絃琴にいろいろな流派があるが
それぞれの芸風というものはあるのだろうか?

わたしは清虚洞の「たいむ」式の琴しか知らないが、
高知のHPを見ていたら、胡弓のように一部琴糸を引っ張って
弓のようにして弾いている一絃琴があった。
(音色もそのようなもの)
また、須磨寺のは低音琴があるそうだ。
こちらは、現代になって開発したそうだが。
伝わったところところで、弾き方や歌い方も違うのかもしれない。
あるところでは師匠の癖が、またあるところでは確実に芸風の伝承が
行われたかもしれない。

単なる演奏法の伝授なら、たとえ伝承が途切れていても
復活は可能かもしれない。(邦楽から類推した手法で復元する)
また「伝承」とはいえないような薄い伝達であっても
伝授ということはできるだろう(嘘ではないから)
しかし、一絃琴の真髄というものは着実に伝承されたのか。
「なぜこの琴を弾くのか」「なんのためにこの琴を弾くのか」
それを模索していくような気風は伝授されたのだろうか。

一絃琴は、音楽の形式を取りながら、文学でありまた哲学でもあるように思う。
「能」が死者を登場させて、音楽をバックに謡いや舞を通じて
『生』とは何かを問いかけたように
一絃琴は、これを弾く奏者に「己とは何か」を深く模索させる楽器
なのではないかと思ったりする(@考えすぎ)


梅雨入り

2006年06月09日 14時29分00秒 | 一絃琴
この地方も梅雨入りだそうで。。。
道理で毎日ぱっとしないお天気です。


この時期は、琴の音もなにか曇った音になりがち。
自分の音って、それこそ録音でもしない限り
なかなかわかりにくいですね。

どこまで琴の響きがあるのか、ということが一番気になるところですが
わたしが目安にしているのは、一つは低音部の響き
もう一つは高音部の響き、です。
なんだ、全部じゃないかといわれるかも。
低音部は、左手に嵌めた芦管ですね、
この上に置く指まで弦の震えがあるかどうか
また高音部は、十、十一、十二の音の響きを聞きます。
とくに十二の音が伸びのある音になっているかを聞きます。
弾き始めはぶつ切れの音でも、30分位弾いた頃には
本来の音になるでしょうから、それから判断します。
(あくまで自己流ですが、よろしければお試し下さい。

よく響いているときには、一つ一つの音が「うなり」を持っている
と思いますが、悲しいかな、邦楽に関する理論をきちんと
学んだわけではないので、それが何かわたしにはわからないです。