絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

奏者と聴衆

2006年04月10日 14時17分10秒 | 一絃琴
一絃琴を習うようになって、人前で弾くことがたびたびあり
以前にもまして、この「奏者と聴衆」ということについて
あれこれ考えるようになりました。

曲の理解を深めるのはもちろん弾き手として当然のことですが
では、聴衆も内容を理解していなければならないかというと
それはあまり関係ないように思います。
言葉の意味が分からなくても、その曲の醸し出す雰囲気、世界は
伝わるのではないかと想像します。
それは、外国の曲を聴いたとき、綿密に分からなくても
伝わってくる感じがあるのと似ています。
(文語といえども日本語ですから難解なものばかりではない)

また、それは、単に曲の感じだけではなく
奏者の発する『気』のようなものが
聴いている人に伝わってくるからではないかと思ったりします。
(それはよほど熟練した奏者の方の場合でしょうが)

自分がやっているボランテイアの「読み聞かせ」や「対面朗読」においても
同様のことがいえる気がします。
本読みの活動では、読み手の内面がなぜか(本の中身とは別に)
外に出てきてしまうという、興味深いことがあるのです。

吉野の桜

2006年04月09日 13時17分48秒 | 一絃琴
今日は本当は吉野の桜を見に行く予定でしたが
急遽、「中日x巨人」戦を見ることになり、
父子でいま出かけていきました。(私はパス)
もう、うちの近所も満開に近いですね。
でも、満開のときにはすでにはじめの頃の花は
散り始めるから、本当の満開というのはないのかもしれません。

一絃琴の曲に「嵐山」というのがありまして
これは、京都嵐山の花やもみじをこよなく愛でる歌なのですが
このなかに吉野のことが出てきます。
花(桜)の有名な吉野山に勝るとも劣らずの「嵐山」の美しさよ
というような意味なのですが、
その「よし~~のお~~」という旋律が、
まるで吉野山にこだまする山びこのように聞こえ
また、吉野の山に咲き誇る桜のあでやかな様子が
美しい映像さながらに浮かんでくるような、
そんな感じのする曲です。
だんだんと弾くうちに、この作者は吉野も竜田川の素晴らしさも
実際に訪れて知りながらも、なお、やはり嵐山の風情はえも言われず
美しいものだ、といっているのではないかと思ったりします。
(つまり、一般的な常識としての名所の歌ではないという…)

また、「秋待ち顔のもみじさへ」と歌って
眼前にはまだない秋の紅葉の風情を想像しているのは
いかにも日本的な情緒(目の前にはないものを想像するという)を
表現している気がします。


   嵐山 花のさかりは名にし負う 吉野竜田もほかならず
   秋待ち顔のもみじさへ ともにつきせぬ眺めかな

曲の理解は・・・

2006年03月28日 01時13分14秒 | 一絃琴
「鴛鴦」にしろ「今様」にしろ
演奏する曲について、内容とか作曲された時代のことや
作者の心情などについては、結局自分自身で模索するしかないようだ。
しかし、実際にどのようなところから
曲の理解を深めていけばよいのだろうか…

一絃琴のCDなどは、ほとんどないので
もし、見かけることがあったら即買いしないと
次はどこで出会えるか到底わからない。
書籍についても同じことが言える。
ほとんどが自費出版なので、重版されることはまずないからだ。

ということで、数少ない音源や書かれた物などを読み込み
自分のイメージを膨らませていくようにしているが、
やっぱり、一番の深まりは練習の中から生まれてくるように思う。
お琴を何度も何度も弾いているうち、
あるとき、ふと、そのメロディが「いつか聞いたことのあるもの」に
変身する。。。
急にその曲が、自分の中から聞こえて来る感覚が…
そんな瞬間が訪れることがある。
それは、高校生の頃「蜻蛉日記」を読んでいたとき
突然すぐそばに作者が現れ、直に自分に話しているかのごとき錯角に
陥ったことと酷似している。(恥ずかしながら)

たとえば「鴛鴦」を練習していると(一絃琴に造詣の深い先輩諸氏が
「冬の寒い夜の情景」と解説しておられるが)
この曲の音律から滲み出てくるものは、決してそれだけではないと
言っているように私には聞こえてしまうのだ。
なぜなのか、それはわからない。
前に書いた記事には、理屈を載せたけれども、
それもある種の直感を頼りに、この曲に秘められたものを
手繰り寄せようとした、ひとつの仮説なのである。

今様

2006年03月24日 13時54分58秒 | 一絃琴
「今様」とは、当世風な、という意味で歌詞は七五調、
曲調は越天楽(平調)を基にしているようだ。
それぞれの時代の流行り歌を、越天楽の調べにのせて歌う
つまり替え歌のようにして、神社などで披露されていたのだろう。
本文は長いので、春の部分だけ書いておく。

春の弥生のあけぼのに 四方の山辺を見渡せば
花盛りかも白雲の かからぬ峰こそなかりけれ

この歌の旋律は、黒田節とほとんど違わない。
上の歌を、黒田節の「さあ~けえ~わ~、のお~めえ~のおめえ~」に
当て嵌めてみるとすぐわかる。
黒田節があって、今様になったのではなく
筑前地方の民謡として歌われた<筑前今様>が黒田節のルーツであり
そのようにして各地で当世風の歌が歌われていたということのようだ。

一絃琴の歌と演奏は、他の邦楽の伝統のように何百年と濃密に
引き継がれたものとはいいがたいが、
ルーツをさぐり、その変化の歴史をたどってみるのは結構楽しい。
演奏会などで、自分たちのへたな演奏を棚に上げ、
「一絃琴は他人に聴かせるものではなく、自らの心に向かうものである」
などと、解説しているのをきくとがっくりきてしまうが
基本的に、弾いて自らのこころの中を旅する、ということには異論はない。

発表会の曲

2006年03月21日 17時27分12秒 | 一絃琴
「鴛鴦」のほかに、姉弟子の方たちと「今様」という曲を弾く予定です。
この曲は、以前にも書きましたが、かつて高校の音楽などで扱われた
<遊びをせんとや 生まれけむ>という【梁塵秘抄】の今様ではなくて
別名(四季今様)といい、四季の移り変わりに自分の人生を重ね合わせて
歌っているものです。
詳しくは、次に書こうと思います。

鴛鴦(オシ)つづき

2006年03月16日 15時27分39秒 | 一絃琴
【さゆる夜に 寝覚めて聞けば鴛鴦(オシ)ぞ鳴く 鴛鴦ぞ鳴く
  上毛(うわげ)の霜や 払いかぬらん】

 凍てつく夜、ふと目覚めると遠くで鴛鴦の鳴き交わす声がする
 上毛に降りた霜を払いかねているのだろうか・・・

これが「鴛鴦」の歌詞である。作者不詳、作曲は眞鍋豊平(江戸末期)である。
曲調は、鳥の鳴き声かと思われるような短い旋律の繰り返しがあり
歌は、短歌形式であるがどちらかといえば詩吟の吟詠のようである。
先生からは、この曲はオシドリの鳴き声をあらわしている、とだけ
教えていただいた。

(ここからは私見です)
東京の愛知一紅さんや京都の大西一叡さんの書かれたものをみると
「オシドリへの暖かな気持ち」とか「寒さがひどくて・・・」という
解説になっている。ほんとうにそうなのか?
この歌は、いわゆる「本歌取り(元歌のアレンジ)」であるから
その本歌でオシドリがどのように歌われているか、
それがこの曲の解釈の重要な要素になってくる。
万葉集や古今和歌集などオシドリが取り上げられている歌は大変多い。
この鳥がつがいで生涯添い遂げるというのが
一般的な解釈で結婚式の祝辞にもよく使われる(いわゆる鴛鴦の契り)。

では、この歌を詠んだ作者は鴛鴦の契り(えんおうのちぎり)を
結んだ相手と添うているのか?
答えは否で、だからこそ、一人寝のわびしさと夜更けの凍てつくような寒さが
凍った夜に寄り添うオシドリの鳴き声に重ね合わさって
切なく胸に迫ってくるのである。

この「鴛鴦の契り」の語源は
中国(春秋時代)の宋の国王によって仲を裂かれた韓憑とその妻が
死して二つの墓に葬られたところ、一夜にしてその墓から二本の梓の木が生え
二つの木は寄り添い絡まってまるで一本の木のごとくなった。
そしてその樹上には、二羽の鴛鴦がつがいで棲みつき、
悲しげに鳴き交わしていたという。これをして「鴛鴦の契り」といい
この木のことを「相思樹」という。(相思相愛の語源でもある)

江戸時代の文人墨客たちがこの康王の話を知らないはずはない。
であるなら、単にひとり身のわびしさを歌う以上の思い入れが
この曲には込められているということになる。

そんな作者の心情を思いながらこの琴を弾ずれば
遥かいにしえの人の気持ちが、まるで自分のことのように感じられるだろう。



一絃琴の「歌」

2006年03月11日 00時24分48秒 | 一絃琴
市の図書館の方から電話で、来週対面朗読の要請がありました。
今回は、資料が間に合わないため初見での朗読になるらしい。
(冷や汗たらたらですね

ところで、4月の演奏会の曲をどうしましょ。
この前弾いた「春の朝」にしようかな?でもまた先生に代えられるかも・・・。
今まで稽古したものは皆どれも弾けるようにしておかなくちゃ。
(そうでないと、レパートリーがない)

「春の朝」の曲あたりから、すごく一絃琴の「歌」に悩むようになりましたが
最近、清虚洞系ではない先生を知り、いろいろ歌について尋ねているうち
だんだんと、もやもやが晴れてきた気がしています。
うちの先生は、一絃琴独自の歌い方とか言われるけど
実はそんなものは存在しない、あるのは、従来の邦楽の歌であり
その歌い方や節回しなのです。(それが最近わかってきました)
だから、独自のものはどこにあるのかと探求するのではなく
邦楽の古典芸能をよくみてよく聞き、歌を模索することにしようと思います。

「歌は心そのもの」とその先生はおっしゃいます。
その方に『一絃琴の真髄はあなた自身で模索していきなさい』といわれ
それまで霧の中を彷徨って、自分がどこへ向かっているのか
全然分からない気がしていましたが
急に目の前のもやもやが晴れて、視界が開けた感じになったのは
ほんとうにフシギな感覚です。
つまり、自分以外の人にそれを請うのではなく
自分の中にそれを見出していきなさいということらしくて
なぜか、すごくすっきりした気持ちになったのでした。
(やっぱ、「先達はあらまほしきものなり」です)

江戸末期にこの琴の名手であった真鍋豊平は
男性にしてはかなりの高音まで切々と歌うことのできる人だったのでは
ないかと想像します。とても美しく情感たっぷりの曲も多いので・・・
人生の悲哀を声に託して・・・どの邦楽にも通ずることかもしれませんね。


老人ホーム慰問

2006年02月23日 22時32分12秒 | 一絃琴
今日は、先生と新しく入った方(男性)と3人で伺った。
新しい方は、見学だけだったが・・・。

いまは、いろいろなケースの老人対応の施設があるが、
今日のところは、介護つき老人ホームで、そこで生活している人ばかりだった。
60人くらいおられて、広い多目的ホールでの演奏で、マイクありだった。
マイクがあると、音がまた変わってしまうのでやりづらい面もある。
何とか間違えずにできたが、「春の朝」は初めての演奏だったのでちょっと緊張した。


一絃琴の曲は、物悲しいものも多いが、小唄や常磐津の影響を受けたようなものも中にはある。
今日弾いた「春の朝」はちょうど今の時期にぴったりの曲だ。

 おしなべて春は来ぬれど さながらに まだ解けかぬる白雪の
 ふるの山路を立ち居でて 梅の梢に 鶯の初音のどけき朝ぼらけ

「あたりはすっかり春が来たようだけど、まだ冬のままのように
 白雪が解け残っている山合いから出てきた鶯が、梅の梢で鳴く、
 その声が、のどかな春の朝だよ」

琴だけの演奏より、はるかに「歌」を聞かせる曲で、
この情景を思い浮かべてもらえるようがんばったが、
果たしてどうだったのだろう?
さらに精進が必要みたい・・・

あとの、「荒城の月」「赤とんぼ」「月の沙漠」は
とても元気良く大きな声でいっしょに歌ってもらった。
少し、涙ぐんでおられる方も見えたが
なにか、思い出されたのだろう。
みなさん、大変熱心に聴いてくださってうれしかった。
(感謝)

 
 

究極の自己満足?

2006年02月15日 13時25分48秒 | 一絃琴
一絃琴に関する伝説もさまざまあるようです。

日本のものとしては、
三河地方に流れ着いた崑崙人が一絃琴を持っていた、というものや
(8世紀ころのことか?)
在原行平(在原業平の兄)が、罪により神戸の須磨に流罪となり
須磨の海岸に流れ着いた舟板を拾って、それに自らの冠の緒を渡して
一弦琴とし、侘しさを歌ったのだとするものなどあります。

もともと、日本にあったものではなく
他の楽器と同じく、中国からはいってきたものらしいです。

中国の伝説には、玉し(ギョクシ)←「し」が出ないのですが
という姫がこの琴を弾ずると
風雲沸き起こり、天から龍が舞い降りたという
そういうのがありまして、
葛飾北斎の絵にそれが描かれているようです。
(わたしは実物は見たことはありません、東京での北斎展にあったようですよ)

いろいろ、知れば知るほど深みに嵌まり
また、曲の一つ一つも、
どんな気持ちで昔の人がこれを歌っていたのかな
などと考えたりするのは、ほんと面白いです。
声も出すので(時には)発散にもなります。
自分ひとり弾いてる分には(他の人に迷惑かけるわけではないので)
下手だろうがなんだろうが、いいんですよ。
これ、「究極の自己満足」ってヤツですね!

ご質問があれば・・・

2006年02月14日 21時55分50秒 | 一絃琴
一絃琴について、お稽古メモ程度のことしか
書いておりませんが、もし、何か聞いてみたいことなど
おありでしたら、どんな小さいことでも、どうぞ
コメントに書き込んでくださいませ。
私が持っている情報でよろしければ、
いつでもお返事させていただきます。


ほんとにこの琴については、奏者が少ないのはもとより
研究や調査そのものがあまりなされていないのかもしれません。
情報量が極端に少ないですね。
あと、非常に閉鎖的な一面があるのは否定できないです。

最近は、落語でも東西にかかわらない活動がありますよね(六人の会)。
また、三味線でも流派を越えて合同の演奏会など
東海地区で行われていました。
(互いに研鑽して非常に風通しが良くなるでしょう)

一絃琴も、流派を越えての合同演奏会などあれば
とてもお互いが活性化していいのではないかと思います。
(関東で去年、何社中かでされたようですが)
今のままですと、先細りで技術も磨かれず
それぞれの地域で「井の中の蛙」と化し
進歩も無いのではないかと、僭越ながら思ったりします。

一絃琴の場合、最初に琴と芦管(ろかん)を購入すれば
すぐ始められますし、1ヶ月に2回で(1回2千円が大半)なので
ほんとに和もの稽古としては、お金要らない方だと思います。
つく先生によっても多少の違いはあるかもしれませんが。

メンタルケア、とかヒーリングとか、
今の時代、自分自身のメンタル面をどうコントロールしていくかが
とても大事なことになってきているようです。
そういう意味で、この琴は、人間の内なる苦悩を浄化していく、
そんな効果があるのではないかと感じています。
(弾く人もそれを聴く人も)
…宣伝してるわけではありませんが

篠笛の世界

2006年02月13日 12時43分15秒 | 一絃琴
「民の謡」という篠笛の会があります(HPもあります)
このHPを知り、いずれ一絃琴と篠笛を合わせるときに
やはり、出来た方がいいと思い、少しだけ練習したことがありました。
(譜面つきのCDや篠笛本体も販売してます)

篠笛にも、何本調子とかいって様々な種類があり、
一本で祭囃子から現代曲まで全部吹ける訳ではない
ということがわかりました。
(ほんと、和ものってどこまでも奥が深いですね)

で、結局どうしたのかといえば、挫折いたしました
笛も、一絃琴の先生ができるので、教えてもらっていましたが
オクターブ上の音(かんの音?)が全然出せず、そのままになってしまった。
(これは喉の開け閉めで高低を調節するらしい)

岸和田までこの「民の謡」の演奏を聴きに行ったことがあります。
HP上でも聴けると思います。(師匠の名前は、森田さんです)
当時はお弟子さんだった「坂口さん」が今は指導をなさっています。
とても若い方ですが、練習に励むのを「精進する」と
言っておられたのが印象的でした。


え~~、「あんたがたどこさ」とか「かごめかごめ」くらいは
だれでもすぐ吹けるようになります。
つまり、「かんの音(1オクターブ高い音)?」の吹き分けがないから・・・
「祖谷の粉ひき唄」「京鹿子娘道成寺」などが吹けたらいいなと
思います。

他の楽器とのセッション

2006年02月13日 12時07分32秒 | 一絃琴
一絃琴の場合、なかなか合わせることが難しいと思います。
この楽器自体が非常に音が小さくて、何かといっしょにやると
全くのまれてしまってお話にならないのですね。

ですから、もし、いっしょに演奏するとなると
少しかぶる程度にして「合奏」は避けるか、
あるいは一絃琴を何人かの数で音を強化するか、です。

今まで、篳篥とやったのや、篠笛(横笛)とやったりしたのを
聞きましたが、どちらも凄い音量なので、
遠いところで吹かないと、全く音が聞こえなくなります。
(筝と合わせたのも聞いたことありますが)

高知の方のHPで披露されていた一絃琴の音ですが
実際のはどんなのでしょうか。
今、主たる演奏地域は、東京、京都、神戸、高知
くらいだと思いますが、それぞれついた先生によって
演奏方法や歌の風情も違うようです。

一絃琴の新しい情報

2006年02月09日 15時06分46秒 | 一絃琴
ときどき、新しい一絃琴の情報がないか、
いろいろなところで検索しているが、高知のひとで
HPにいっぱい写真を乗せている方がいた。
2005、2006と2回演奏会の模様を
音源と共にアップしている。
(音は、PCによっては制御されているかもしれません)

2005「龍馬の生まれたまち記念館」での演奏
(珍しく男性の姿も!さすが土佐の高知!)

http://katuo.obi.ne.jp/hot_3/itigenkin05/itigenkin05-01.html

音はやっぱり、ぼわ~~~ん、という感じですね。
生音、聞いてみたいです。