一絃琴を習うようになって、人前で弾くことがたびたびあり
以前にもまして、この「奏者と聴衆」ということについて
あれこれ考えるようになりました。
曲の理解を深めるのはもちろん弾き手として当然のことですが
では、聴衆も内容を理解していなければならないかというと
それはあまり関係ないように思います。
言葉の意味が分からなくても、その曲の醸し出す雰囲気、世界は
伝わるのではないかと想像します。
それは、外国の曲を聴いたとき、綿密に分からなくても
伝わってくる感じがあるのと似ています。
(文語といえども日本語ですから難解なものばかりではない)
また、それは、単に曲の感じだけではなく
奏者の発する『気』のようなものが
聴いている人に伝わってくるからではないかと思ったりします。
(それはよほど熟練した奏者の方の場合でしょうが)
自分がやっているボランテイアの「読み聞かせ」や「対面朗読」においても
同様のことがいえる気がします。
本読みの活動では、読み手の内面がなぜか(本の中身とは別に)
外に出てきてしまうという、興味深いことがあるのです。
以前にもまして、この「奏者と聴衆」ということについて
あれこれ考えるようになりました。
曲の理解を深めるのはもちろん弾き手として当然のことですが
では、聴衆も内容を理解していなければならないかというと
それはあまり関係ないように思います。
言葉の意味が分からなくても、その曲の醸し出す雰囲気、世界は
伝わるのではないかと想像します。
それは、外国の曲を聴いたとき、綿密に分からなくても
伝わってくる感じがあるのと似ています。
(文語といえども日本語ですから難解なものばかりではない)
また、それは、単に曲の感じだけではなく
奏者の発する『気』のようなものが
聴いている人に伝わってくるからではないかと思ったりします。
(それはよほど熟練した奏者の方の場合でしょうが)
自分がやっているボランテイアの「読み聞かせ」や「対面朗読」においても
同様のことがいえる気がします。
本読みの活動では、読み手の内面がなぜか(本の中身とは別に)
外に出てきてしまうという、興味深いことがあるのです。