絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

addio addioを訳してみよう〜

2018年01月19日 19時39分41秒 | Weblog
addio...addio...を訳してみたら
こんなふうに、なりました。



わたしたちの間に、微笑みは消えてしまい
ふたりで一緒に歩いていても
孤独を感じる。。。
ただ長い沈黙だけが残った。
その沈黙は、こう言おうとしている、、、
さよなら、さようなら、と。

わたしたちの愛は
まるで干からびた海水のように
ただの塩だけになり、
唇は渇き、もう愛の言葉を語りはしない。

わたしを見て!わたしを見て!
あなたはわかっている、
これが真実じゃないことを。
嘘なんでしょう!
わたしたちの愛が終わったなんて!

さよなら、さよなら
さようなら、さようなら〜


わたしを見て!わたしを見て!
わたしの話を聞いて!
行かないで!!
嘘なんでしょう!
(嘘じゃないなら)
どうして、あなたは泣いているの?
わたしたちはわかっているのに。
ほんとうは、まだ愛していることを。
ほんとうは、まだ愛し合っていることを。
それでも、別れていくのね。

さよなら、さよなら
さようなら、さようなら〜


と、こんなふうになりましたが、、、
いつも思うけど、
カンツォーネって、失恋💔の歌が多くて、
その歌を、目の前にまだ恋人がいるように歌う人と、終わってしまった恋の思い出の中にいる恋人に向かって歌う人がいます。
訴える感じだと、まだ一緒にいる想定?
しみじみバージョンなら、もう去ってしまった後の想定?
果たして、どっちの方がお好みでしょうか。

人それぞれで、解釈が違うので
面白いと思います。



「addio...addio...」さようなら、さようなら

2018年01月19日 14時37分48秒 | Weblog
原語で歌うカンツォーネ
ドミニク・モドゥーニョの「addio...addio ...」が
次の練習曲です。

なかなか切ない別れ歌ではありますが、
歌手によって、全く違う歌い方をしていて
興味深い。。。

モドゥーニョは、全体的に
粘る歌い方だけど、
クラウディア・ヴィッラは
絶叫型。

それぞれに
歌の解釈が違うのでしょうね。

徐々にカンツォーネの特色のようなものが
わかるようになってきた感じはあるけど
同じイタリア人でも歌い方が違うなら
そんな特徴も、ほんとはあってないような
ものかもしれない。


原語で歌ったところで
習っている人以外、わからないんだけどなー。
などと、ぼんやり考えていたら
「melodrama」を教室で歌ったとき
これを初めて聴いた人から
「いい曲だね〜。意味はわからないけど、
なんかこう、伝わるものがあるね、悲しみと
いうか、、、」
と言って貰い、なんか、嬉しかった。。。

「melodrama」は、イタリア語わからなくても
ただ素直に聴いていくだけで、自然に歌に引き込まれていく、、、
歌っている自分も、もちろん、歌うに連れて
徐々に哀しみが深まっていく感じがあります。

最後は、慟哭となって、
そして、静かにトスカーナの空に消えていく、、、
そんな、ドラマチックな曲であります。