ここからが本当の新しい年のはじまりとしたいものです。
今日もお天気よさそうですが、夜から雪と言っていますが
はたして積もるんでしょうか?
梅も蕾が脹らんできていますが…
下の子も4月には6年生になり、小学校最終学年です。
この小学校時代、なにが良かったって子どもが思う存分自由に友だちと
遊びまわれたってことですね。
『遊び』その一言につきますね。
遠くの私立小も考えましたが、そっちに行っていたら
どうしても大人が関わらないと遊べない、ということになり
今のように自由ではなかったでしょう。
『学習』については、ここまでひどいとは思いませんでした。
なにがひどいかって、子どもの学習レベルということではなく
学習させる気がない、学校の姿勢(文科省の方針)ですね。
先生方個人個人の考えはわかりませんが、上からこの方針で、と
いわれたなら、やはりその方針に従うのでしょうね。
だから、ひどいことになる、とわかっていても
宿題でカバーしようなんて気はさらさらないわけです。
いつも、そういう態度に頭に来ていましたが
冷静に考えれば致し方なかったのかもしれません。
(だって、文科省が『勉強させるな』といってたんですから)
いま『ゆとり教育』がまるで見直されたような報道がされてますが
実際これが変更されてから、かつての「どの子も一定レベル」になるまでは
10年はかかるでしょうね。あるいはもう復活不可能かもしれません。
世の中がかわり、「勉強してもしょうがない」みたいな誤った考えが
蔓延しているこんにちでは。
学業を終えて社会に出たとき、漢字も書けない、簡単な計算もおぼつかない
そんな大人が増えてしまうかもしれない。
そして、やわらかい頭を鍛える時期を逃したまま
関心はお金があるかないかだけ、努力なくして一攫千金狙い
大人から子どもまで、価値は「お金」。
それによって、小学生の女の子が自分の商品価値に目覚めて
商売してしまうというような現実がおこる。お金ほしさに。。。
最近20年ぶりに「クローディアの秘密」(カニグズバーク夫人著)
を読みました。もう、40年以上も前に書かれた本ですが
そこには、変わらない子どもの姿があり考えさせられました。
やっぱり、子どもの本質は変わってはいない、
表面だっていることは変わったように思えても。
そして、いま起こっているさまざまな問題はよく言われることですが
子どもの問題ではなく、大人のあり様の投影だ
ということです。
親の投影だ、と言いたいところですが
実際に子育てしている親で、子どもに影響力を及ぼせるような
そんな親自体が減ってきていて、子ども達は
親が示してはくれない指針を外に求めるので(拝金主義社会)
結果、親は容認しないでも子どもは性を換金してしまう、
みたいなことが起きる。
なんでもかんでも「本人の意思」尊重の世の中ですが
まだ世の中の仕組みもわからないような、そんな段階から
自分で決めなさい、とものわかりのいいことなんて親は
言ってはいけないと思います。
それはある種の「放置」です。親の「逃げ」です。
親なりの考えをいつも用意しておく、あるいはいっしょに考えてあげるべきです。
ややこしいことは子どもにまかせてある、なんて無責任すぎる気がします。
最終的に選んでいくのは本人自身ですが、
考える指針があるのとないのでは全然意味が違うと思うのでした。