筆者は先日、葛飾区の住吉小学校を訪ねる散歩を計画して実行した。
エスコートして下さる方(Aさんという)と10時30分頃京成線上野駅前で会い、京成電車に乗った。昭和20年3月の時とは比べることは出来ないほど変わっていたが、何故か懐かしく思い出すことがあった。日暮里駅までのトンネルをでると高架線路を走って、荒川放水路、隅田川、中川を越えると、高砂駅に着いた。その間世界一の高さになったスカイツリーが垣間見えた。
高砂駅で降車して改札口をでた。空は薄曇りで、気温はほどほどで歩くにはよい日和であった。まず駅前の道を柴又方向へ歩き出した、Aさんはとても感じの良い方で、後期高齢者の私をとても気を遣って下さった。ありがたいことである。高砂駅前の道は、両側に商店が並び落ち着いた雰囲気であった。住吉小学校は、駅から1km弱の所にあり、ゆっくり歩いて10分間で行き着いた。筆者が通学していたのは木造建築であったが、現在は鉄筋コンクリと造りであった。校舎の南側に、一周200メートルの走路がとれるほどの広さの校庭があった。校舎の中を見学させてもらおうと思ったが、出入り口はどこも閉まっていて案内をこうことが出来なかった。
体育館の方へ行ってみると、何かの集まりが丁度終わったらしく、4,5十代のご婦人10数名が出てきた。その方達に住吉小学校のことや周辺の様子などをお伺いした。皆さんとても親切に筆者の質問に答えて下さった。住吉小学校の裏手の畑に日本の戦闘機が墜落した話は何方もご存じではなかった。何しろ筆者より1周りか2周り若い方のようだったから、それは致し方ないことである。それから柴又の方へ歩き出した。66年前(1945年)は、この辺一体は、農耕地が続いており、家は点在する程度しかなかった。
柴又は筆者が短い間ではあったが、激動の時期を過ごした想い出が沢山あった。柴又駅近くにあった八幡神社は面影は変わっていたが現存していた。しかし境内には人の姿が全く見えなかった。神社から西へ100メートルほどの所に、当時半年間ほど国民学校3年生の筆者が住んでいた家があるはずで、その家を探した。その 家は、Nさんという方が住んでいたが米軍の空襲が激しくなったので疎開して空き家になったのを筆者の父が拝借した。平屋作りの部屋が沢山ある家であった。家の前には広い庭があり、父はそこを畑として耕しコウリャンなどを作っていた。隣の家(Fさん)は、広い敷地に大きな池が有り食用カエル釣りなど教えていただいた。そこのおばさん(当時すでに高齢であったと思う)には大変お世話になった。
付近のラーメン屋さんや理髪店でで聞いたりして、ようやくNさんのお宅を探し当てた。皆さんとても親切に教えて下さった。ようやくNさん宅を探し当て、呼び出しベルを押すと女性の声で在宅の変事があった。筆者は訪問の趣旨を説明すると、ご主人様が玄関のドアを開けて下さった。
Nさんは、快く筆者達を招き入れて下さり、お話を伺うことが出来た。奥様は突然お訪ねした初対面の筆者らを招き入れ、冷たい麦茶とお菓子でもてなして下さった。
Nさんは、終戦後の周辺の変化についてよく覚えていて、いろんなことを話して下さった。何筋かあった川はどこにも見当たらなかったのでお聞きしたところ、市街化が進むと同時に暗渠になってその上を道路にしたと言うことであった。
筆者は懐かしいお話を聞いているうちに、Nさん宅に2時間もいることに気がついて失礼させていただいた。
筆者のお世話になったFさんのおばさん(年齢からすると、その方の母親かもしれないが)は、現在104歳になり施設に入っているが健在であると言うことだった。お会いしたいと思ったが、施設の名前と場所は教えてもらえなかった。
その後、江戸川を見に行った。筆者の知っている江戸川とは堤防が高くなったこと、河川敷の様子や矢切の渡しの乗船場の位置、川水の流れがゆったりしていることなどが変わっていた。
この日の散歩は、とても気分良くできた。町のしっとりした感じ、住んでいる人たちの優しさなど
また川甚での食事、とらやのかき氷なども想い出に残る楽しさであった。
エスコートしてくれたAさんの気遣いも、とても嬉しかった。また次の機会もAさんにお願いしたいと思う。