笹木恒子さんと始めて出会ったのは小学校4年生の初めであった。その後意識の中には存在しない状態が5年間も続いた。意識の中に出てくるようになったのは中学3年生の頃である。高校入試の模擬テストで常に上位3位以内に入っている女子がいた。当時宮城県の普通高校は男子と女子は別の学校に入ることになっていた。つまり共学ではなかったのである。だから模擬試験の結果が高校入試に影響することはなかった。
私はものごとの順位に関しては全く関心が無かった。当時のわが家は極度の貧困生活で高校へ行けるかどうかも知れない状態だったので、模擬試験を受けるのは担任の先生と数学の先生の勧めによるものだった。私の成績は恒子さんとどっこいどっこいだった。1位になるのがどちらかという状態だった。
その頃家の近くに息子さんが隣町の農業高校へ行っており、その方もその高校の教員をやっている駒形さんという方がいた。駒形さんは私の親に高校進学をしきりに勧めてくれた。入学したら奨学金をもらえるように取りはからってくれるという条件も付けてくれた。両親は家族で特に私の意思を確認してから返事をすると言った。
私は、家の近くにいた藁科さんという家の次男の方に勉強はやっておいて将来損することはないと、親に言われていると話してくれたのを思い出して、私は高校へ行きたいと強い意志を親に伝えた。
親は何とかするので勉強するようにといってくれた。しかし家の手伝いは今まで通りにすることという条件が付いた。私はそれから真剣に勉強するようになった。
勉強で競うことを意識するようになって初めて恒子さんが私の頭の中に入ってきた。それで初めて年賀状を出した。数日して返事をもらった。私は何故か有頂天になってしまった。その年賀状は何度も繰り返し読んで、二つ折りにしてすり切れてしまうほど上着のポケットにしまっていた。
そしてともに同じ市の県立男子高校と女子高校へ進学した。私は村の自転車屋さんで廃棄された自転車の部品をもらい店主の指導で組み立てた自転車に乗って通学した。恒子さんは隣町の駅まで約3キロメートルほどの道のりを歩いて行きそこから汽車通学をしていた。高校の帰りに時々途中で出会うことがあったが、私は家の日課が待っているので長い時間話をすることが出来なかった。
それでも意思は通じ合っていると後になって思ったものだった。一度、恒子さんの家を訪ねたことがあった。彼女の部屋に通されていろんな話をした。しかし女子と2人きりで話をしたのは初めてだったのでこれまでに読んだ本について話したこと以外、何を話したか覚えていない。長い時間いたので夕食の時間になっていた。恒子さんの母親が彼女に何かいい、しばらくしておじやが出された。私はしまったと思ったが遅かった。こんな時間まで長居をするべきではなかったのだ。せっかくの食事なのでご馳走になり早々に帰ることにした。
恒子さんの部屋はよく覚えていないが割合簡素だったような気がした。恒子さんの家はタバコ屋さんをしていた。恒子さんは9人兄姉の末っ子ということが分かった。姉さんたちの何人かは学校の先生をしているようだった。私も9人兄姉の末っ子だったのでそれは同じだねといって笑ったのを覚えている。
女子高校の文化祭に誘われて友人と行った。私は上がってしまい何があったのかよく覚えていない。と後になって恒子さんに言ったら笑われてしまった。
高校の三年間があっという間に過ぎて、別れるときがきた。私は東京へ行くために村の中心部からバスに乗るときに「手紙を書くからね」と言ったのが別れの言葉だった。恒子さんは黙って頷いていた。
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