for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

おはなし数学史  マンガ

2018年09月08日 08時25分29秒 | 

どんなものかと、目が疲れないからと、読んでみた。

数学の歴史はその時代の要請で生まれたように思えた。が、読んでも歴史が頭に全く残っていないが、興味深い人は

賭博士だそうなカルダーノという人。確率論をバクチから編み出したのは、暮らしの知恵ともいえそうだが、そのエッセンスが

面白い。「ギャンブラーにとっては、全くしない方が利益になる」という数学者の声!

最近は宝くじが不況だとかなんとか、私は応援者でも反対者でもないけれど、お楽しみを夢見る時が幸せなのかもしれませんが・・・

夢はあくまで夢であって、その実現までが当人にとっての幸なのでしょう。

本の中に、同名の人が出てきて、学生時代を思い出したのも、漫画みたいです。


科学の本 フィボナッチ続き

2018年05月02日 09時42分19秒 | 

目の力はまだ回復していない。車中で読み始めたところ、目が痛くなり、そのままにして

ぶらぶら日を過ごしながら読みかけの「巻き貝はなぜらせん形か」という本を再び読み始めた。

当時とは違って科学技術は発展しているけれど、バットが折れるのはなぜ?とか、先端科学へと発展した折り紙、雪の結晶を作った話・

大型恐竜は軽快に走れたか?など非常に面白い話題で古い本ではあるけれど、〇コちゃんに教えたくなったほどの本である。

著者は博識で、庭の形から平安時代に書かれたそうな「作庭記」にまで及ぶ「形」の哲学について、遊び心から発展した

話題が続いていく。尚、著者のホームページにはブッダが描かれ、地域の特徴をつかんでいるように感じた。造形にしても、気候やら地域は関係があるだろうか。

(森が深い場所では宗教建築物は尖塔のように高くなるし、空気が澄めば日本の寺院のように高くなくても横広がりの建築物になるとか、別の本が伝えていた。)

極めつけは、徒然草の引用 「すべて何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打置きたるは面白く、生き延ぶるわざなり」

トマス マン の「魔の山」から「これは、あまりにも規則的すぎる。生き物はこれほど対照的ではない。これほど完全な物は、死のにおいがする。想像主は、

この世のほとんどのものを、完全な対称性からすこしずらせて設計しているようだ」とある。

寺田寅彦さんのことも著者から新たに知り、興味深く読んだ。

「形の科学」とは、面白そうだ。これもフィボナッチを知ってから探し当てた本だった。

 

 


ふたつの家のちえ子

2015年07月05日 08時12分12秒 | 

「ふたりのちえ子」と題名を読み違えて本を手に取ってみた。児童文学だから文字も大きめで視点を探すでもなく

懐かしい光景に惹かれて本を楽しんだ。5,6歳のちえ子目線の心の反応(子供がとるだろう身ぶり)が著者のことばで表現されている。

「ああ、そうだね」(そんなふうに、)あるいは「現代、どれくらいの年齢の子供が想像できてとりつくだろうか」と、少子化対策にはお勧めしたい

もし、(子育てが大いに補助されるなら)。 と、昔のおかあさんの奮闘と子供たちの暮らしの情景に度々ほろりとさせられた。 饒舌ではない、

描写に心がとらえられた。ことば表現が発達過程の幼い子供たちには、動きや行動に注目すると良いのでしょう。(それを著者は愛情として注いでいる)

現代の子供とは違うだろうか。

  

山の上の家は、おとうさんのいない家族のひとりひとりが奮闘していた「うちのおかあさん」象徴として読者の心象にとどまるでしょう。

年の瀬、何があったでしょう、山の家に。

 

 

 


創作歴ドラと歴史本

2015年04月09日 16時04分44秒 | 

明清と李朝の時代

歴史を受講すると、教師はどのようなことを話すだろうか。 椅子に座って講義を受けるとなると、退屈する?今は、視聴や資料が豊富だからそんなことはない?アドバイスや視点も違うだろうか。

ずっと同じ場所に座っているのは、背中や腰がしんどいかもしれない。適度にふらふらとしていた方が体は楽で、テキストよりも著作物を調べて読んだ方が楽しい場合も多いのでは・・・

ずぼらに本の字面を追っているうちに映像ドラマやラジオ放送が浮かんだり、戻っては同じところを読んだりしている。

ああ、ラジオで話したのは、丹陽出身の「眉山日記」のことだろうか・・・書いて残した貴重な資料がドラマの下敷きになるだろう。

「木欄図」の絵を見ては、ドラマの動きのある場面光景が広がる。けれど、絵の方がわかりやすい。

今、21世紀に日本周辺の歴ドラや映画を楽しんでいるけれど、やっと両班やら王権と臣下の派閥争いに

ひとり勝手な納得がいった。16世紀頃の両班勃興頃は、貨幣経済ではなくて、現物経済(米や綿花)・贈答品

事体が当たり前だったそうだ。だから、派閥争いで糧を得ようとしていたのだろうか。(庶民の力になるまでは、大変な通り道があった。)

著者が「頭の隅に置く」とは、ある程度理解している人向けに発信したのだろう。

韓国に関わらず、16世紀の海外への出帆時代は、物々交換から貨幣による経済に移行する時期だろうと知った。

日本の銀産出高もこの頃らしい。 世界がどんどん繋がって行き始めた。


遊牧民からみた世界史

2015年02月18日 14時02分24秒 | 

ユーラシアの遊牧民族国家の研究者は、知識が豊富で、読んでいて面白い。単に、私の未就学にすぎないかもしれないが。

本著では、中国とからみあう、ユーラシア大陸の遊牧民の歴史が記されている。三国志あり、項羽と劉邦も登場。

モンゴルのシャーマニズムからイスラム教に改宗したイル ハン国、さらにネストリウス派キリスト教に続いた国に興味を寄せていた。

遊牧民族だから大地を移動しながらその地に融合するような統治の仕方になったのだろう、かなり寛容なのだろうか、ひとり興味を寄せていた。

いったい一般の庶民はどうだったのでしょう。税金の頭数にしか数えられなかったのだろうか?

イスラムには国家という概念の言葉がなさそうだと記されていたが、非定住だから、民族と宗教がまとまりやすいと

いう考え方なのだろうか。(民族の歴史を考えると、一刀両断の決めつけ方は不合理だと叫びがあがるだろう、現代でも)

突厥のイル エルをチュルク語では政治組織の全体を示したそうだ。 アジアの遊牧民族を読んでいるつもりだったが、

イル エルとはヨーロッパ語で、人をさすではないかと、思いながら、印欧語族という言葉があるから、同じひとまとまりの

語源体系民族なのだろうかと勝手に結びつけた。モンゴルのウルスはチュルク語のこのイル エルに当たるそうだ。

コラムは語源文化をひも解いて新たに知るコーナーになっている。

「日本」は中国語でリー ベンになるし、韓国語では、イル ボンとなる、やっぱり、イルは、人を現しているようにみえるのだが・・・

と、知ろうと読み