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我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

トランプの人物調べ  最後の♢になった 

2019年09月15日 16時15分47秒 | 日常の発見
♢A孫武 春秋戦国時代の政治・戦略家、「孫氏の兵法」。存在自体の信ぴょう性はともかくも、現代まで繋がれ、軍事戦略本として愛読した人は、日本の信長・秀吉・家康・江戸大名・東郷平八郎・ホーチミン・ベトナム戦争下のボーギュエンギャップ・湾岸戦争のシュワルズコプ・パウエル他がいるそうだ。映画の制作あり。
♢2孫権(182-252) 三国時代の初代呉王。70歳で没。三国志の記録によると、長身で目は大きく見開き、冗談やトリックを好んだそうだ。下位の従者と親密な関係を保ち、うまく扱い、権限を有能な人材にゆだねられた。平民の指示を得て、周囲に有能な将軍を抱えられたのは強みだった。
戦いの記録はあまり関心がなくて、よくご存じの方に教えていただきたいです。
トーハクの「三国志」展示物を思い出すと、蜀との違いが明らかに感じられ、その文化の発展は出土品(お墓埋葬物や装飾品)が脳裏に浮かびました。提示文にしても、蜀の方が素朴なように書かれていました。
♢3衛青(  -AD106)漢の時代の将軍。下級役人の父親と妃の間に密かに生まれ、養子に出され、羊追いの仕事から十代の頃に逃げ出し、母方の馬管理をしたことから衛と名付けられた。生母の王妃(皇帝の寵愛)の元で宮廷の馬管理の役についたり、王宮では命を狙われることもあったが、武術ともに指導者としての力量を皇帝に認められ、忠誠役として抜擢。皇帝側を良く守る一方、多くの官僚からは中傷に遭い、彼を褒めそやす学者を雇わずに一般聴衆の声に傾け、低姿勢を維持したが、モンゴル地域での遠征の成功(漢滅亡まで匈奴侵入がない)などは嫉みや敵対者を生みだすことにもつながっていた。106BCに廬山に埋葬され、養父でもあった霍去病(117BC没)、武帝の墓に隣接。
♢4霍去病((BC140-117)叔母に当たる女性が漢の武帝の2番目の王妃で、49年間夫婦として寵愛を受ける。霍去病は、宮廷での災難に遭いながらも王妃の存在で皇帝側の護衛三役に就き、霍去病の一族が興隆。18歳で戦に出て、目覚ましい軍事能力を示すことに繋がり(800の軽騎馬兵で匈奴を追跡し、匈奴の高位を捕らえたことで武帝の誉を受ける。)中央アジアを制していたゴビ砂漠地域の部族を和解・制圧し、北方シルクロードに風穴を開けることに繋がった。遠征でフェラガナ地域の優れた馬を知り、漢の軍隊の恩恵となる。その後ゴビ砂漠への遠征では衛青を越す成功を収めた。117BC、24歳で没。父の使命を引き継いだ息子もBC110没。孫も他政権下では自害。

歴史記録で私たちが想像する人がらは、それらをどう楽しむかに因るでしょうか。まずは、波乱万丈の内に20代で亡くなった異国の武将を敬う姿勢にしたいものです。中国の王朝制の戦禍、大変です。
今世紀、自然が猛威の相手になるときもあり、何を憂い、何を感謝する・・・?

♢5劉邦(BC256-195)漢の初代皇帝で、農民から皇帝になった数少ない人物。楚漢の戦いで勝ち取り、漢の皇帝として7年在位。「項羽と劉邦」の映画で描かれている。任侠気質・あくせく働かなくても周囲が放っておかない・それほど本を読むわけでもない・善良・自己観察と膝を崩して年長者に対応できる・同朋に何が必要か見極めて分散統治させられた。などが浮かびます。
歴史ものが好きな人には私の説明など無用で、(ネットで何でもわかるじゃない、と)取りくんだことにささやかな楽しみを見い出し、このくらいにします。
次はどんな人?とトランプを見ると、♢はどうも統治者シリーズのようです。どこまで私の説明が必要か、それよりも私自身の知る楽しみとして続けましょう。
♢6曹操(155-220)三国志で登場する魏を地固め。戦略家・文芸家。文芸や京劇他でも登場するくらい、有名、それも悪役としてだが、近年は別の価値が引き出されている。というわけで、私のとやかく言う説明は別にして、トーハクで展示されていたように「墓を豪華にする必要はない」のように、質実を重んじていた人と感じ取れる。墳墓からはその頭蓋骨が発見されたようで、(メディアの情報によると)曹操は癇癪持ちで、それが歯が原因だった(?)ようだ。何かを成し遂げる人は現状を穿つ感情の瞬発力がある性癖ではないかと、勝手に考えます。後は、それぞれの作品をお楽しみになり、私にも教えてほしいです。
♢7李世民(599-649)唐の創建者で危険な敵対者を打ち負かし、中国を統一。626-649(27歳-50歳)の間、第2代皇帝。後代の皇帝の模範とされる。経済・軍事面でも栄え、漢の時代(ベトナム・ウイグル・中央アジア)をしのぐカザフスタンを含むほど。合理性・科学技術を取り入れ、農業改革に対応し、有能な人材(歴史政治家・政治著述家等)を登用。王妃は著述もあり、36歳で亡くなり、文德順聖 王妃と呼ばれる。

♢8 成吉思汗(1162-1227)トランプの順が逆になって先に朱元璋をしたものだから、チンギス・ハーンを読むなり、朱元璋の恐れそのものが良く分かります。チンギス・ハーン没後の領土ユーラシアと呼ばれる一帯(コーカサス・韓国・南アジア・ホラズム)を覆うシルクロードを政治上で傘下に置いた。(息子のオデゴイの遠征でペルシャ・西夏まで及び、ピーク。)遊牧民で生まれ、過酷な暮らしに見舞われる。部族間の政治的同盟の欠如・モンゴルの不安定さゆえだっただろう。他の部族に将来の姻戚関係(12歳から)を作るために9歳で部族の長に家事奉仕=奴隷として使える。その家の長から毒殺を仕掛けられたり、家族の兄弟からはテムジン狩りにされたりもあった。その後の戦いによる発展力は、伏せます。
元が滅亡するまで宗教(道教・仏教・イスラム教)に寛容で、税の免除が続いた。教師・医師には許容範囲免除。歴史上、民族文化では多様な王朝のひとつでチュルク・イルハン王朝の民族もモンゴルとされた。が、チンギス・ハーンは民族が遊牧民だからこそ征服した街を統治・管轄する人材が必要と認識し、晋王朝に仕えたキタンの耶律楚材を登用した。

♢9朱元璋(1328-1398)14世紀中頃、飢餓・飢饉により農民一揆が中国中に起こきた頃、朱元璋が先頭になってモンゴル支配の元朝を中央アジアに追いやり1368年に明を創設。劉邦よりも貧しい極貧の農家で、兄弟の多くが食のために外に出されるほど。16歳の時に干ばつで穀物が尽きて、二人の兄弟ほどになった。貧困のため仏僧になるが、そこでも養いが乏しく、長くはいなかった。数年は物乞いで放蕩するうちに普通に暮らすのさえ難しいと自分の目で知る。その後3年ほどの24歳頃、寺に戻り、仏僧と読み書きを学ぶ。母方の祖父(99歳没)から南宋の海軍でモンゴル軍と戦う話を聞いていた。寺が破壊に遭い、モンゴル軍の対抗分子グループ(儒教・宋理学を擁護するような宗教らしき団体)に所属し、頭角を現す。明朝初期、農民への土地分配策として人口密度の低い地域に強制労働によらない公共事業として灌漑・堤防の造成工事を広げ、若い農夫に土地所有できる方策(開拓土地に課税なし)を取り、中期にはかつての中国王朝にはなしえなかったほどの開拓面積に達したようで、植林・運河の造成・灌漑事業により北部地帯にも人口が増した。軍事は隋・唐に習い(府兵制)軍事リーダーが強大になるのを防いだ。官僚対抗には秘密警察を設置し、宦官・縁戚関係・貴族に係わらず粛清・取り締まり、それが王朝の長期安定につながった独裁体制のようです。元の時代のモンゴル軍を意識してか、宗教策としてはイスラム融和方針で、モスクが建造されたり、軍事側近に登用したりもある。終末期には現代の人から見れば、パラノイアとささやかれている。
♢10愛新覚羅玄烨=康熙帝(1654-1722)7歳で王位に就き、乱をしずめ、台湾を制圧し、モンゴルを切り離し、アムール川流域のロシアを満州の外に封じ込めた。戦いと混乱の後に後代まで安定した繁栄をもたらし、字典を編纂。1688年(妃の母=康熙帝の育ての母親が亡くなる)まで指導や影響は続いた。西洋の科学技術の導入・キリスト教司祭マテオリッチと面会し、宣教師の双方育成と布教の機会に繋がり西洋と中国が文化を知る機会となった。
細面長身だけれど狩りが得意で、勉学熱心で、働き者。イエズス会の音楽家(チェコ)を宮廷音楽史に雇い、自らハープシコードを習った中国では初めての皇帝。
♢J 威継光(1528-1587)明の将軍で、倭寇等の海岸防衛・万里の長城の再建に尽くし、軍事兵法書を残している。父親は武芸の卓越者将軍で、影響を受ける。父親が戦死し、17歳で指揮官。兄弟が幼いため結婚して嫁に家を任せ、モンゴル軍制圧に挑む。1583年に任務から解放されると同時に、奥様も自ら任(忍)を去り、威継光は晩年はつましく病がちだったようです。
♢Q鄭成功(1624-1662)日本人女性と中国商人の間に平戸で生まれる。7歳の時まで日本名で育ち、福建省に移り、1638年科挙の試験に通過し、1641年に官吏の娘と結婚。1644年大学で学び学者(著述・政治)に遭い、生徒だった。1661年台湾に侵入していたオランダを倒し、王朝を築く(1661-1683)。1662年37歳で制圧直後にマラリアにかかり、鄭成功は朦朧としながらも、両親に痛恨の念を伝えたそうです。 祈らずにいられません。台湾には鄭成功の名を遺す大学もあります。

♢林則徐(1785-1850)第一次アヘン戦争で強力にアヘン交易反対運動を推し進めた。役人の父親の元で育ち、幼いころから聡明。1811年に科挙の進士で職に就き、各地で仕事をし、中国の幕開けには抵抗していたものの、外国人の知識が急務と実感し、地図を収集。朝廷の官吏になり、アヘン交易の抑圧運動に着手。アヘン交易終止・交易の不利益をヴィクトリア女王に書物で告発する。後に内容がロンドンタイムズを介してイギリス国民に直接のアピールになった。6月26日は林則徐を敬い、反ドラッグ違法薬物抗議国際デイに定める。


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