母はふたつの人形を引き揚げる時に作ったそうだ。
姉が乳児だったから、その玩具として考えたのだろう。ひとつは市松人形で、もうひとつはフランス人形で、それにはロシア兵の好みを予想したアイデアだった。パンヤとしてフランス人形に小さくたたんだ紙幣を詰め入れ、市松人形には普通のパンヤをいれたという。
当時の様子は書物や映像でも知ることがあり、拷問に似たような惨状は現代の歴ドラを見るようだ。私は母からの生の声によるものをこうして文字再現するぐらいで、書けないものもある。
衣服の芯に紙幣や書類をたたみ入れ、着ぶくれして重かったそうだ、とは昭和を生き抜いた結果の母の笑い話のひとつにもなっていた。夢に見ると、必ず現地の家のタンスの引き出しを開けて焦って着物をだしていたり、天皇陛下の夢ばかり見るそうだった。
見事手持ちに抱きかかえられたフランス人形の中身をどこで使ったかまでは、質問しなかった。
どんなものに変えたの、お母さん?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます