宇治の聖地巡礼をより楽しむ方法の一つとして、藤原時代の別業都市だった頃の街路を歩いてみる、というのが挙げられています。「源氏物語」の「宇治十帖」の舞台が、実在の宇治の景観をモデルにしているため、その頃の宇治の街路も多くはそのまま作中の移動ルートのモデルになっているものと思われます。
上図は、古絵図や発掘調査成果などに基づいて復原された、藤原時代の宇治の街路です。大部分は現在の道路にそのまま重なりますので、街並みはともかく、街路だけはずっと変わらずに保たれてきたことが分かります。1から7までの番号を付しましたが、そのうちの1から4は別業都市の主要街路です。順に紹介しましょう。
上図は1番の宇治橋通りです。6番の宇治橋より直線で斜めに通りますが、藤原時代の都市形成期にはまだ存在せず、後になってから追加されたことが、発掘調査成果より明らかになっています。追加された時期は、鎌倉時代とされていますが、それ以降、宇治の中心街のメインルートとして機能し、現在もその役割は受け継がれているようです。
上図は2番の県通りです。平等院の西の境界線に沿って南北に通り、別業都市の東の大路にあたっていたようです。北側に橋姫神社、南端に県神社が鎮座しており、藤原時代以来の神事儀礼の道としても機能していたようです。当時は「大和大路」と呼ばれていたようで、西側には「小川殿」「小松殿」「西殿」等の藤原摂関家以下の邸宅が並んでいたそうです。
3番目の本町通りです。上図右にみえる県神社の南から西へ続き、やがて宇治橋通りに合流します。別業都市の南辺を通っており、都市の邸宅群の範囲もこの通りまででした。
県神社の東では南へ折れ、そのまま山に入って白川地区への峠道に繋がりますが、それは藤原頼通の娘の寛子が創建した白川金色院への参詣道でもありました。
3番の本町通りは、西へ行くにつれていったん道幅を拡げますが、しばらく進むと急に狭い道になったりします。これは中世以降に街路の再整備がなされた結果とみられ、中世期の道によく見られる「物陰」や緩やかな屈曲が今でも残されています。
おそらく、鎌倉時代以降に宇治橋通りが整備された際に、それと繋ぐべく、藤原時代までは邸宅群の南の大路であった本町通りを西に延長したのが、上図の範囲ではないかと思われます。
4番目の伍町通りは、正確な位置がまだ分かっていませんが、現在の道路の状況からみて上図の東西の道ではないかと考えられます。平等院の西側の邸宅群の北の大路にあたりますが、当初より西に伸びていたようで、藤原氏の邸宅「泉殿」と推定される矢落遺跡の位置まで繋がっていたようです。現在もこの道の痕跡とみられる道路がJR宇治駅をまたいで西へ通っていますので、これにほぼ直線で繋がる上図の道も、藤原時代以来の位置を動いていないものと考えられます。
4番目の伍町通りが、宇治橋通りと交差する地点の近くに、宇治市街遺跡のひとつ「妙楽55地点」の遺跡があり、いまは埋め戻されて藤原時代の道路の跡がマンションの敷地横に敷石で表されています。こうした市街遺跡は約10ヶ所ほどが確認されており、今後も発掘調査などで未知の遺跡が見つかる可能性があります。
5番から7番までの道について簡単に述べます。5番は平等院への表参道です。平等院の正式な山門は北門であったため、宇治橋西詰より参詣道が設けられていましたが、その道は現在も観光参詣ルートになっています。
6番は宇治橋の本来の位置です。現在の宇治橋は1996年に架け替えられたもので、位置をやや北にずらして建設されました。それ以前の橋は古代以来の位置を保っていたため、藤原時代当時の宇治橋も、その位置にありました。
7番は、宇治川西岸の道です。宇治神社および宇治上神社への参詣道として機能しました。「源氏物語」に登場する宇治の山荘は、宇治神社および宇治上神社の辺りに位置をイメージされていたようで、紫式部が描く周辺の景観は、ほぼ7番の道からの景色に重なるところが多いとされています。
以上、藤原時代の別業都市だった頃の街路を紹介しました。JR宇治駅を起点にすれば、全ての道を2時間ほどで歩いて回れますが、当時の別業都市の規模というのは、その程度であったわけです。