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日本と瓜二つの架空の国「この国」では「国家繁栄維持法」なる法律で、小学校入学時に予防接種を受ける事が義務付けられている。注射には1千分の1の確率で、18歳から24歳の間の予め設定された日時に死亡させる特殊カプセルが仕込まれており、当たった人間には設定日時の24時間前に区役所の戸籍課から赤紙ならぬ「イキガミ」が届く。
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「週刊朝日(2月9日号)」の記事によると、「イキガミ」という漫画が人気を呼んでいるそうだ。人生これからという時期に余命24時間を宣告された若者達が、戸惑いややり場の無い怒りを覚えつつも、やがては”運命”を受け入れて残り少ない時間を濃密に生きて行こうとする姿が、読者の共感を得ているという事で、”外務省のラスプーチン”こと佐藤優氏はこの作品に「国家の恐ろしさと生命の大切さを、これだけの迫力で伝えた作品が在っただろうか?」という絶賛の声を送っているとか。興味を惹かれる内容なので、近い内に読んでみたいと思う。
話は変わるが、昨日の東京新聞に「謎の西郷札」という記事が載っていた。西郷札とは我が国最後の内戦で在る西南戦争で、反乱軍となった西郷隆盛軍が戦費調達の為に発行した紙幣を指している。(松本清張氏が、「西郷札」という作品を著しているので御存知の方も多い事だろう。)その西郷札が昨年末、山口県下関市の政府軍兵士の遺品から見付かったというのだが、これが謎めいた物なのだとか。
この兵士は1877年(明治10年)3月20日に27歳で戦死した大浜矩亮(のりすけ)氏で、彼の弟の曾孫で郷土史家の大浜博之氏が昨年末、戦死公報と共に政府から送付された手紙類の遺品を整理していた所、手紙の間から財布を発見し、その中に十円3枚、五円1枚、二十銭1枚、十銭1枚の計6枚の西郷札が入っていた。
ところが西郷札が製造されたのは1877年(明治10年)6~8月とされており(発見された札にも、明治十年六月発行と印刷されている。)、つまり矩亮氏が戦死してた際には未だ製造されていなかった事になるのだ。亡くなってから約3ヵ月後に製造された札が、何故矩亮氏の財布の中に入っていたのか?
「発行の準備段階で、彼は入手したのではないか?」という声も在ったが、「お札と切手の博物館」の土井侑理子学芸員によると「西郷札は切迫した状況下で製造されており、準備段階での入手は考え難い。」との事。
事実は定かでは無いものの、「戦友が遺品を送る際に西郷札を入れたか、後日大浜さん宅を訪れて送ったのではないか。」という推論が、現段階では有力視されている。と言うのも、矩亮氏は最前線で戦死する率が高かった警視隊抜刀隊員で、田原坂で散った彼と勝利の喜びを分かち合いたいと思った戦友が、自ら戦利品をして持ち帰った西郷札を送ったのではなかろうかと言うのだ。
独特の雰囲気に魅せられて、過去2回足を運んだ田原坂。*1政府軍と反乱軍が撃ち合った弾丸が、空中で衝突して一体になった物(「空中かち合い弾」と称される。)が土中から多く掘り出されたという彼の地に立って瞼を閉じると、当時の激戦の模様がまざまざと蘇って来る感が在る。そんな田原坂で亡くなった一人の兵士が、その”遺品”によってもたらした130年目の謎。歴史の浪漫とも言えよう。
*1 未だ一度も田原坂を訪れた経験の無い方は事前に西南戦争、特に田原坂の一戦に付いて知識を得た上で、車では無く是非共徒歩で彼の地を散策して欲しい。静寂で急な坂道を登る時、その心に何か訴え掛けて来るものが在る筈だから・・・。
日本と瓜二つの架空の国「この国」では「国家繁栄維持法」なる法律で、小学校入学時に予防接種を受ける事が義務付けられている。注射には1千分の1の確率で、18歳から24歳の間の予め設定された日時に死亡させる特殊カプセルが仕込まれており、当たった人間には設定日時の24時間前に区役所の戸籍課から赤紙ならぬ「イキガミ」が届く。
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「週刊朝日(2月9日号)」の記事によると、「イキガミ」という漫画が人気を呼んでいるそうだ。人生これからという時期に余命24時間を宣告された若者達が、戸惑いややり場の無い怒りを覚えつつも、やがては”運命”を受け入れて残り少ない時間を濃密に生きて行こうとする姿が、読者の共感を得ているという事で、”外務省のラスプーチン”こと佐藤優氏はこの作品に「国家の恐ろしさと生命の大切さを、これだけの迫力で伝えた作品が在っただろうか?」という絶賛の声を送っているとか。興味を惹かれる内容なので、近い内に読んでみたいと思う。
話は変わるが、昨日の東京新聞に「謎の西郷札」という記事が載っていた。西郷札とは我が国最後の内戦で在る西南戦争で、反乱軍となった西郷隆盛軍が戦費調達の為に発行した紙幣を指している。(松本清張氏が、「西郷札」という作品を著しているので御存知の方も多い事だろう。)その西郷札が昨年末、山口県下関市の政府軍兵士の遺品から見付かったというのだが、これが謎めいた物なのだとか。
この兵士は1877年(明治10年)3月20日に27歳で戦死した大浜矩亮(のりすけ)氏で、彼の弟の曾孫で郷土史家の大浜博之氏が昨年末、戦死公報と共に政府から送付された手紙類の遺品を整理していた所、手紙の間から財布を発見し、その中に十円3枚、五円1枚、二十銭1枚、十銭1枚の計6枚の西郷札が入っていた。
ところが西郷札が製造されたのは1877年(明治10年)6~8月とされており(発見された札にも、明治十年六月発行と印刷されている。)、つまり矩亮氏が戦死してた際には未だ製造されていなかった事になるのだ。亡くなってから約3ヵ月後に製造された札が、何故矩亮氏の財布の中に入っていたのか?
「発行の準備段階で、彼は入手したのではないか?」という声も在ったが、「お札と切手の博物館」の土井侑理子学芸員によると「西郷札は切迫した状況下で製造されており、準備段階での入手は考え難い。」との事。
事実は定かでは無いものの、「戦友が遺品を送る際に西郷札を入れたか、後日大浜さん宅を訪れて送ったのではないか。」という推論が、現段階では有力視されている。と言うのも、矩亮氏は最前線で戦死する率が高かった警視隊抜刀隊員で、田原坂で散った彼と勝利の喜びを分かち合いたいと思った戦友が、自ら戦利品をして持ち帰った西郷札を送ったのではなかろうかと言うのだ。
独特の雰囲気に魅せられて、過去2回足を運んだ田原坂。*1政府軍と反乱軍が撃ち合った弾丸が、空中で衝突して一体になった物(「空中かち合い弾」と称される。)が土中から多く掘り出されたという彼の地に立って瞼を閉じると、当時の激戦の模様がまざまざと蘇って来る感が在る。そんな田原坂で亡くなった一人の兵士が、その”遺品”によってもたらした130年目の謎。歴史の浪漫とも言えよう。
*1 未だ一度も田原坂を訪れた経験の無い方は事前に西南戦争、特に田原坂の一戦に付いて知識を得た上で、車では無く是非共徒歩で彼の地を散策して欲しい。静寂で急な坂道を登る時、その心に何か訴え掛けて来るものが在る筈だから・・・。
海外出張先のシンガポールで、休日にぶらぶらと散策途中に訪れたフォート・カニング・パーク(Fort Canning Park)。小高い丘の上に位置し、市内を一望出来る閑静な場所ですが、此処は第二次大戦中に日本軍の要塞として使用された場所でも在ります。(http://stream-oba.2.pro.tok2.com/07-gallery/03-fort.htm)防空壕の跡等が在り、それ迄に知識としては知っていたものの、異国、それもこんな遠隔の地迄日本軍が来ていたのかと実際に目の当たりにすると感慨深いものが在りました。
城巡りも良いですよね。再建も含め、現在城として存している場所を見て廻るのも楽しいのですが、城郭の消滅した城跡に佇み、往時を想像するのもこれ又楽しいものです。
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/sunpu_34.htm