「週刊朝日(12月3日号)」に「犯行200回 車から道路に大便ポイ捨て 容疑者の男が語った「涙の懺悔録」」という記事が載っていた。事件の概要は、佐賀県の某交差点に、昨年10月以降新聞に包まった大便が200回近く置かれたというもの。犯人は、県内に住む67歳の書店経営の男性で、道路交通法違反で検挙された。
ここ迄読む限りでは、良く在る愉快犯の所業という感じだ。しかし、彼が記者に対して述べた言葉の数々を見て行くと、当初のイメージが変わって行った。幾つかを抜粋してみたい。
「何であがん事したとか、て自分でも思うとです。性格に弱か部分、意地の悪か部分が在って、それが、こがん常軌ば逸した様な事、させたとやなかろうか。」
「去年の10月から100回以上は、やったです。警察では200回と多く言い過ぎて、女房から怒られた。(中略)一回、自分の置いた物が路上から中央分離帯にどけられてあるとば見て、『ああ、誰かに迷惑ばかけてしもうた。』と思うて、一旦は止めたと。ばってん、又始めてしもうて。」
この男性は痴呆症の実母(94歳)を抱え、仕事の方も最近は振るわなかったという。同居する次女の言葉が続く。
「父は仕事が好きで、何でも自分でやらなければと思って。でも、年だし体力が持たんで・・・。アンバランスな状態になって自分を見失ったんじゃなかでしょうか。罪滅ぼしは一生懸命商売する事て思っとるごたっです。」
今回の事件で家族に叱られ、知人に励まされ、人の優しさが身に沁みたというこの男性は、最後にこう語っている。
「捕まった時に腹は決まっとった。見下されても罵倒されても仕方ない。そういう事したんだって。捕まらんやったら、未だやりよったかもしれんけん。捕まって良かったよ。母も惚けとって良かった。こぎゃん人間が息子と思うたら、恥ずかしかったろうけん・・・。」
本人も次女も涙ながらに語ったという。これ等の言葉からは、愉快犯や変質者というイメージを感じただろうか?自分には、ごくごく普通のおじさん、一昔前の言葉で言えば”小市民”の一人だった様に思うのだ。言い古された言葉で言えば、「魔が差して」しまったのだろう。
心身共に追い込まれてしまうと、理性だ常識だという以前に、心の弱き部分から崩壊してしまうのが人間なのかもしれない。そんな哀しさを、この記事から垣間見てしまった。
ここ迄読む限りでは、良く在る愉快犯の所業という感じだ。しかし、彼が記者に対して述べた言葉の数々を見て行くと、当初のイメージが変わって行った。幾つかを抜粋してみたい。
「何であがん事したとか、て自分でも思うとです。性格に弱か部分、意地の悪か部分が在って、それが、こがん常軌ば逸した様な事、させたとやなかろうか。」
「去年の10月から100回以上は、やったです。警察では200回と多く言い過ぎて、女房から怒られた。(中略)一回、自分の置いた物が路上から中央分離帯にどけられてあるとば見て、『ああ、誰かに迷惑ばかけてしもうた。』と思うて、一旦は止めたと。ばってん、又始めてしもうて。」
この男性は痴呆症の実母(94歳)を抱え、仕事の方も最近は振るわなかったという。同居する次女の言葉が続く。
「父は仕事が好きで、何でも自分でやらなければと思って。でも、年だし体力が持たんで・・・。アンバランスな状態になって自分を見失ったんじゃなかでしょうか。罪滅ぼしは一生懸命商売する事て思っとるごたっです。」
今回の事件で家族に叱られ、知人に励まされ、人の優しさが身に沁みたというこの男性は、最後にこう語っている。
「捕まった時に腹は決まっとった。見下されても罵倒されても仕方ない。そういう事したんだって。捕まらんやったら、未だやりよったかもしれんけん。捕まって良かったよ。母も惚けとって良かった。こぎゃん人間が息子と思うたら、恥ずかしかったろうけん・・・。」
本人も次女も涙ながらに語ったという。これ等の言葉からは、愉快犯や変質者というイメージを感じただろうか?自分には、ごくごく普通のおじさん、一昔前の言葉で言えば”小市民”の一人だった様に思うのだ。言い古された言葉で言えば、「魔が差して」しまったのだろう。
心身共に追い込まれてしまうと、理性だ常識だという以前に、心の弱き部分から崩壊してしまうのが人間なのかもしれない。そんな哀しさを、この記事から垣間見てしまった。
ぁたしは、このおじさんの気持ち、少しわかります。
魔が差してしまう人と、差さない人って、本質的な違いはあるのでしょうか?
そしてまた、「魔が差す」という程度ではすまない犯罪を犯してしまう人と、私とでは?