一部のTV局ではニュースを報じる際、「二人組」を「ふたりぐみ」では無く「ににんぐみ」と読むのが非常に気になっていた。しかし「『三人組』は『さんにんぐみ』、『四人組』は『よにんぐみ』と読むので在れば、『いち、に、さん、しという流れ』から『二人組』は『ににんぐみ』と読むのが適切。」という判断が「ににんぐみ派」には在るのを知り、「そうだったんだ。」と7、8年前に感心させられた次第。
何故こんな話を持ち出したかと言えば、「池上彰の新聞活用術」という本に「視線か目線か。業界用語の基礎知識」という章が在ったから。「新聞を読むのが大好き。」という池上彰氏が新聞を題材にして、「読み取る力」や「伝える力」、「書く力」、「見せる力」、「コミュニケーション力」等々をレベルアップする術が具体的に示されている此の本、中々読み応えが在る。「読者の心を引きつける書き出し」という章では、自分(giants-55)が今迄で最もグッツと引き付けられた書き出しの小説「走れメロス」を思い浮かべ、「確かに書き出しって大事だよなあ。」と改めて思ったりも。
で、「視線か目線か。業界用語の基礎知識」という章の中では、池上氏に送られて来た或る手紙の内容が紹介されている。「後期高齢者」と自称される其の方は「『目線』という言葉が気になる。」という趣旨嘆きを述べておられ、池上氏は其れを次の様に書いておられる。
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このところ新聞でも放送でも、「国民の目線に立って」という表現で「目線」という言葉がしきりに登場します。これは本来「視線」という言葉であったはず。視線には「ものごとを、その奥底まで見抜く。」、「ただしく見とおす。」という深い意味があるはずだが、目線では、「目をあてている。」くらいの意味しかない。これでは、「まなこをこらして」という気迫が感じられない、という嘆きの手紙でした。
この指摘には、私も同感です。「国民の目線で」という言い方を好む首相もいましたが、平板で迫力に欠けます。「国民の視線で」というほうが強い感じがします。
視線ではなく目線。これはもともと放送の世界で使われ始めた言葉でした。誤解がないようにという配慮だったのです。たとえば「シセンさまよう」と言うと、聞いている人は、「視線さまよう」か「死線さまよう」か、一瞬わからなくなってしまうのではないか、というわけです。
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「国民目線」という表現、自分は全く違和感を覚えずにいたのだが、此の記述を目にすると「そう言われてみれば変かも。」と感じた。しかし「目線」という言葉が放送業界で使われ始めた言葉で、其の理由が「視聴者の誤解を招かない様に。」というのは「へー。」という感じ。自分も昔「台風イッカ」とニュース番組で耳にして、「台風一過」では無く「台風一家」と勘違いしたし。
池上氏は他にも、「視聴者の誤解を招き兼ねない言葉」を挙げておられる。相撲中継で「横綱にシカク無し。」と言うと、「資格無し」なのか「死角無し」なのか視聴者は迷ってしまう・・・確かにそうかも。数字で「約50」と言うと、「ひゃくごじゅう」に聞こえてしまう可能性が在るので、「凡そ50」と言い換える事になっている・・・此れも其の通りだろう。普段は何気無く聞き流しているけれど、視聴者への誤解を招かない為の放送業界の配慮って、結構在るのだなあと。
以前に何かの本でも読んだけれど、「独壇場(どくだんじょう)」という言葉は本来、「独擅場(どくせんじょう)」と漢字も読み方も違っていた。しかし多くが誤使用をし続けた結果、今では「独壇場(どくだんじょう)」が一般的に。「時代による言葉の変化」と言って良いのか、其れとも良くないのか。
何故こんな話を持ち出したかと言えば、「池上彰の新聞活用術」という本に「視線か目線か。業界用語の基礎知識」という章が在ったから。「新聞を読むのが大好き。」という池上彰氏が新聞を題材にして、「読み取る力」や「伝える力」、「書く力」、「見せる力」、「コミュニケーション力」等々をレベルアップする術が具体的に示されている此の本、中々読み応えが在る。「読者の心を引きつける書き出し」という章では、自分(giants-55)が今迄で最もグッツと引き付けられた書き出しの小説「走れメロス」を思い浮かべ、「確かに書き出しって大事だよなあ。」と改めて思ったりも。
で、「視線か目線か。業界用語の基礎知識」という章の中では、池上氏に送られて来た或る手紙の内容が紹介されている。「後期高齢者」と自称される其の方は「『目線』という言葉が気になる。」という趣旨嘆きを述べておられ、池上氏は其れを次の様に書いておられる。
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このところ新聞でも放送でも、「国民の目線に立って」という表現で「目線」という言葉がしきりに登場します。これは本来「視線」という言葉であったはず。視線には「ものごとを、その奥底まで見抜く。」、「ただしく見とおす。」という深い意味があるはずだが、目線では、「目をあてている。」くらいの意味しかない。これでは、「まなこをこらして」という気迫が感じられない、という嘆きの手紙でした。
この指摘には、私も同感です。「国民の目線で」という言い方を好む首相もいましたが、平板で迫力に欠けます。「国民の視線で」というほうが強い感じがします。
視線ではなく目線。これはもともと放送の世界で使われ始めた言葉でした。誤解がないようにという配慮だったのです。たとえば「シセンさまよう」と言うと、聞いている人は、「視線さまよう」か「死線さまよう」か、一瞬わからなくなってしまうのではないか、というわけです。
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「国民目線」という表現、自分は全く違和感を覚えずにいたのだが、此の記述を目にすると「そう言われてみれば変かも。」と感じた。しかし「目線」という言葉が放送業界で使われ始めた言葉で、其の理由が「視聴者の誤解を招かない様に。」というのは「へー。」という感じ。自分も昔「台風イッカ」とニュース番組で耳にして、「台風一過」では無く「台風一家」と勘違いしたし。
池上氏は他にも、「視聴者の誤解を招き兼ねない言葉」を挙げておられる。相撲中継で「横綱にシカク無し。」と言うと、「資格無し」なのか「死角無し」なのか視聴者は迷ってしまう・・・確かにそうかも。数字で「約50」と言うと、「ひゃくごじゅう」に聞こえてしまう可能性が在るので、「凡そ50」と言い換える事になっている・・・此れも其の通りだろう。普段は何気無く聞き流しているけれど、視聴者への誤解を招かない為の放送業界の配慮って、結構在るのだなあと。
以前に何かの本でも読んだけれど、「独壇場(どくだんじょう)」という言葉は本来、「独擅場(どくせんじょう)」と漢字も読み方も違っていた。しかし多くが誤使用をし続けた結果、今では「独壇場(どくだんじょう)」が一般的に。「時代による言葉の変化」と言って良いのか、其れとも良くないのか。
ところで、ちょっと違うことですが、ここ何年か気になってるのが、「~アワード」という日本国内での賞の呼び名。戦争の「war」が「ワー」ではなく「ウォー」なのと同じで、「award」の発音は「アウォード」ですよね?もちろんこんな英語読み違いの例は山ほどあるでしょうけど、昔から定着してる言葉は別として、日本語としてはさほど使用頻度の高くない英語を公にカタカナで使う場合はできるだけ本来の読み方を用いるべきかなと。
有名な話では在りますが、良く使われる表現の「綺羅星の如く」も、「綺羅、星の如く」と区切るのがそもそもは正しい。「綺羅」は「貴族等が着用する美麗な衣服」で、其れが「星の如く並んでいる様」が「綺羅、星の如く」という表現になった訳ですが、今や「綺羅星」と繋げて読む(呼ぶ)のが一般的に。「綺羅、星の如く」と正確に読むと、寧ろ妙なん感じを受けてしまうという状況。
其れでも個人的には出来る限り正しい読み方(呼び方)をするのが良いと思うし、英語の発音も同様ですね。
「2人組のコンビニ強盗」「2人組のダンスユニット」と言葉を並べてみて、「いいひとは『ふたりぐみ』で、わるいひとは『ににんぐみ』だ」と(笑)。
「五期振り」を「ゴキブリ」と勘違いしてしまった・・・耳だけで聞いての勘違いって、結構在りそう。