アストロズ所属の松井稼頭央選手が今日、日米通算2千本安打を達成した。ライオンズ時代には主力選手として大活躍していた彼だが、2004年にメジャーリーグに移籍して以降は苦戦を強られ続けていた。「早く日本球界に戻ってくれば良いのに・・・。」と思っていただけに、今回の偉業達成には「これ迄の苦労が報われたなあ。」という感慨を覚える。おめでとう!
話は変わるが、此処数日のNHKの番組には見る可き物が多かった。時には批判される事も少なくないNHKだが、遣っ付け仕事としか思えない様な民放番組が目立つ中で、「流石はNHK!」と唸らせてくれる力の入った番組の数々には目が釘付けに。昨日放送された番組で言えば、先日当ブログで紹介した「NHKスペシャル 『ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる』」(BS hi)、そして「あの日 昭和20年の記憶」(BS2)は実に見応えが在った。
「NHKスペシャル 『ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる』」は奥アマゾンに住むヤノマミ族の生活を、150日間に亘って追い続けた内容。ヤノマミの女性達は赤ん坊を産み落とした際に「人間として育てる。」か、それとも「精霊として天に返す。」かの二者択一を迫られる。精霊として天に返される事になった赤ん坊はバナナの皮に包まれた上、白蟻の蟻塚に放り込まれて食べ尽くされる訳だが、「我が子をどうするか?」を決断する女性の姿が印象的だった。「文化の違い」というよりも「死生観の違い」を痛感。又、最後に流れたナレーション「森に生まれ、森を食べ、森に食べられる。」は、ヤノマミの姿を的確に表していたと思う。
敗戦を迎えた年で在り、同時に復興に向けて動き始めた年でも在る「昭和20年」。この激動の年を“目撃”した各界の著名人達が様々な証言をしているのが「あの日 昭和20年の記憶」で、この番組自体は敗戦から60年目を迎えた2005年、1年間に亘って放送されたのだそうだ。昨日は「8月15日」、「1月~3月」、そして「4月~6月」という総集編が放送されたのだが、体験者の証言だけにどれも生々しさが感じられた。
何方の証言だったか失念してしまったが(男性だったのは覚えているのだが。)、玉音放送(動画)が流れた日、子供だった彼は「ギャー!」という叫び声を耳にしたと言う。「何だ!?」と思って2階から外を覗くと、軍刀を抜いて上官を追い回す下士官の姿が。軍隊では常軌を逸した陰惨な虐めが少なくなかったと言われているけれど、恐らくそれ迄に散々虐めに在って来た下士官が、敗戦を迎えた事で一気にその恨みが爆発したと思われる。「上意下達」が徹底され、下が上に反抗するなんて在り得なかった軍隊組織。その光景を見て彼は、「嗚呼、軍隊組織は完全に崩壊したのだな。」と子供心に感じたとか。
“フォークボールの神様”と呼ばれる野球解説者の杉下茂氏は19歳で召集され、昭和19年12月に宇都宮の部隊に入隊。暫くして彼は、兵舎の一画に6人の兵隊が暮らしているのに気付く。「目も虚ろで、死者の様な彼等は一体何者なのか?」と不思議に思っていた彼は、その6人がニューギニアからの帰還兵で在り、「彼等は軍旗を守って帰って来た神様だ。」と言われている事を知る。しかし彼等を「神様」とする割には、明らかに人目を避ける生活を強いており、「『同じ部隊の兵隊達が全滅する中、彼等だけが戻って来たとなると、他の兵隊達の士気が下がる。』と懸念した上層部が、体良く『隔離』しているだけ。」と杉下氏は感じたとか。
最も印象に残ったのは、やはり野球解説者の関根潤三氏の証言。昭和20年8月15日、18歳だった彼は玉音放送が流れた後に宮城(皇居)前の広場に向かった。其処には御所に向かって土下座している国民が多く見られたが、中には割腹して果てた者や、今正に割腹しようとしているのを周りから止められている者等も居たと言う。騒然とした中、関根氏も「陛下に申し訳無い。」と土下座し、それから呆然と彷徨い歩いていたそうだが、やがて銀座方面が異なった雰囲気なのに気付き、銀座に向かう事に。
到着した銀座で、関根氏は驚くべき光景を目にする。洒落た格好の人々が、華やかに闊歩。男女が睦まじく歩いている姿も見受けられ、「男女七歳にして席を同じゅうせず」という教えが徹底されていた戦時中には考えられない状況だったと。「今後を儚んで、自ら果てる者が続出していた。」という現実が在った一方で、「戦争が終わった事に歓喜する者が居た。」という現実も在った訳で、同じ日の同じ日本とはいえ「別世界」といった感が在った事だろう。我が国の国民性の一つとも言われる「柔軟性」が感じられるし、個人的には後者のケースの方が健全の様に思うけれど。
話は変わるが、此処数日のNHKの番組には見る可き物が多かった。時には批判される事も少なくないNHKだが、遣っ付け仕事としか思えない様な民放番組が目立つ中で、「流石はNHK!」と唸らせてくれる力の入った番組の数々には目が釘付けに。昨日放送された番組で言えば、先日当ブログで紹介した「NHKスペシャル 『ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる』」(BS hi)、そして「あの日 昭和20年の記憶」(BS2)は実に見応えが在った。
「NHKスペシャル 『ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる』」は奥アマゾンに住むヤノマミ族の生活を、150日間に亘って追い続けた内容。ヤノマミの女性達は赤ん坊を産み落とした際に「人間として育てる。」か、それとも「精霊として天に返す。」かの二者択一を迫られる。精霊として天に返される事になった赤ん坊はバナナの皮に包まれた上、白蟻の蟻塚に放り込まれて食べ尽くされる訳だが、「我が子をどうするか?」を決断する女性の姿が印象的だった。「文化の違い」というよりも「死生観の違い」を痛感。又、最後に流れたナレーション「森に生まれ、森を食べ、森に食べられる。」は、ヤノマミの姿を的確に表していたと思う。
敗戦を迎えた年で在り、同時に復興に向けて動き始めた年でも在る「昭和20年」。この激動の年を“目撃”した各界の著名人達が様々な証言をしているのが「あの日 昭和20年の記憶」で、この番組自体は敗戦から60年目を迎えた2005年、1年間に亘って放送されたのだそうだ。昨日は「8月15日」、「1月~3月」、そして「4月~6月」という総集編が放送されたのだが、体験者の証言だけにどれも生々しさが感じられた。
何方の証言だったか失念してしまったが(男性だったのは覚えているのだが。)、玉音放送(動画)が流れた日、子供だった彼は「ギャー!」という叫び声を耳にしたと言う。「何だ!?」と思って2階から外を覗くと、軍刀を抜いて上官を追い回す下士官の姿が。軍隊では常軌を逸した陰惨な虐めが少なくなかったと言われているけれど、恐らくそれ迄に散々虐めに在って来た下士官が、敗戦を迎えた事で一気にその恨みが爆発したと思われる。「上意下達」が徹底され、下が上に反抗するなんて在り得なかった軍隊組織。その光景を見て彼は、「嗚呼、軍隊組織は完全に崩壊したのだな。」と子供心に感じたとか。
“フォークボールの神様”と呼ばれる野球解説者の杉下茂氏は19歳で召集され、昭和19年12月に宇都宮の部隊に入隊。暫くして彼は、兵舎の一画に6人の兵隊が暮らしているのに気付く。「目も虚ろで、死者の様な彼等は一体何者なのか?」と不思議に思っていた彼は、その6人がニューギニアからの帰還兵で在り、「彼等は軍旗を守って帰って来た神様だ。」と言われている事を知る。しかし彼等を「神様」とする割には、明らかに人目を避ける生活を強いており、「『同じ部隊の兵隊達が全滅する中、彼等だけが戻って来たとなると、他の兵隊達の士気が下がる。』と懸念した上層部が、体良く『隔離』しているだけ。」と杉下氏は感じたとか。
最も印象に残ったのは、やはり野球解説者の関根潤三氏の証言。昭和20年8月15日、18歳だった彼は玉音放送が流れた後に宮城(皇居)前の広場に向かった。其処には御所に向かって土下座している国民が多く見られたが、中には割腹して果てた者や、今正に割腹しようとしているのを周りから止められている者等も居たと言う。騒然とした中、関根氏も「陛下に申し訳無い。」と土下座し、それから呆然と彷徨い歩いていたそうだが、やがて銀座方面が異なった雰囲気なのに気付き、銀座に向かう事に。
到着した銀座で、関根氏は驚くべき光景を目にする。洒落た格好の人々が、華やかに闊歩。男女が睦まじく歩いている姿も見受けられ、「男女七歳にして席を同じゅうせず」という教えが徹底されていた戦時中には考えられない状況だったと。「今後を儚んで、自ら果てる者が続出していた。」という現実が在った一方で、「戦争が終わった事に歓喜する者が居た。」という現実も在った訳で、同じ日の同じ日本とはいえ「別世界」といった感が在った事だろう。我が国の国民性の一つとも言われる「柔軟性」が感じられるし、個人的には後者のケースの方が健全の様に思うけれど。
4年前に「あの日自分は・・・」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/fd5cc9507239c8128c9908ad93ea73e5)という記事を書きましたが、1995年1月17日の朝に「関西地方で大きな地震が在った。」というニュースをテレビで知ったものの、今一つ詳細が判らないままに、打ち合わせの為工場に向かいました。一通り打ち合わせが終わって昼食を取ろうと食堂に向かった所、据え置かれたテレビの前には大勢の人が。其処で初めて現地の映像を目にして、未曾有の大災害で在る事を知りました。被災者の方々には本当に申し訳無いのだけれど、「とても同じ日本で起こった出来事とは到底信じられない。」というのがその時の思い。
それから3ヶ月後に神戸に出張しましたが、実際に被災地(と言っても激震地からは離れていたのですが。)を目にした時には映像で見ていた以上のショックを受けました。ですから今回マヌケ様が書いて下さった体験談を拝読させて貰い、その時の御気持ちが非常に判ります。
大災害に遭った直後のショックも然る事乍ら、それから月日が経って行き、他の地域に住む人々の脳裏からその大災害の記憶が徐々に薄れて行く過程の方が、より取り残されて行く様な思いを感じられた事だと御察しします。
あの阪神大震災、私は神戸は東灘の自宅で被災しました。死にかけました。
震災の翌日、家族を避難所の小学校に残し、東灘から甲子園まで歩きました。
甲子園から電車に乗りました。車窓の風景はマヌケ様のいうとおりでした。
大阪は北区にある当時の勤務先に行きました。門の前で部長が立っていて、非常にびっくりしていました。私は死んだと思っていたようです。部長は総務に「雫石くん、生存確認」と報告してました。
会社を基点に、必要な物を集めて、家族の待つ避難所に戻りました。
メジャーでは松井稼頭央選手、松坂大輔選手、松井秀喜選手が好きですよ。^±^ノ
玉音放送、聴いた人はさまざまでしょうけど、戦争は常軌を逸する行為だということは間違いないですよね。
「地震」にどうしてもなりますね・・・
当時、神戸市中央区に住んでおりました。
その日のお昼、商店街のほうに火の手が上がるのが見えました。
(住んでいる地域まで来ませんでしたが)
まるで映画のセットの中にいるような感覚で
現実感が全くありませんでした。
翌日、西宮北口まで歩いて
阪急電車に乗りました。
梅田は腹が立つくらい、いつもどおりでした。
只一つ、コンビニの冷蔵庫から2リットルの飲料が姿を消していたこと以外は。
「アメリカ同時多発テロ」の第一報を伝える映像を最初に目にした際、音声を絞っていた事も在り、映画の1シーンと信じて疑いませんでした。超高層ビルに航空機が突っ込むなんて事は、全く想像だにしていなかったからです。それから一寸して、その光景が“作り物”では無い“実際に起きた事”を知ってビックリした訳ですが、それでも心の何処かに現実味を感じ得なかった。平和な日本という「対岸」に身を置いている事も在りますが、それに加えて「アメリカ国内で、大掛かりなテロは起こり得ない。」という“常識”が頭の中に出来上がっていたからです。
阪神淡路大震災の場合も、映像でその悲惨さを目にして「少しでも多くの方が助かってくれれば良いが・・・。」という思いを持ちつつも、自身が身を置いている関東圏では普段と何等変わらない日常が存在している訳で、「同じ日本で在り乍ら、何処か別世界の話の様な感覚」も正直在りました。
実際に体験された方々の御言葉には、頭の中だけでは想像し得ない生々しさが在り、「阪神淡路大震災が、やはり未曾有の出来事だったのだ。」と痛感させられました。
あの当時は、携帯電話も普及していなかったんですよね。今回の書き込みを拝読して、ふっとその事が思い浮かびました。大事な人達と連絡が全く取れないというのは、本当に遣り切れない状態だったと思います。
ホワイト・ヘブン・ビーチは実際に行きましたが(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/aa3edb1af5033441f04a9845a8e00a17)、此処は良い意味で「別世界」でした。記憶違いで無ければブルック・シールズさんが主演の「青い珊瑚礁」や、煙草のCM(セーラム・ライト?)等の撮影舞台も此処だったかと。