20代の頃、田原坂周辺をずっと歩いた事が在る。歴史大好き人間故、「日本最後の内戦」とも言われる「西南戦争」、即ち「西郷隆盛率いる薩軍」と「有栖川宮熾仁親王率いる官軍(実質的には「大久保利通率いる官軍」と言っても良いけれど。)」との戦いには以前より強い関心が在り、同戦争の主戦場で在る田原坂にはずっと行きたいと思っていたのだ。
田原坂では2週間強、薩軍と官軍が戦った。此の戦いでは両軍合わせて13,000人を超える戦死者が出たというが、驚いてしまうのは「1日辺り32万発もの銃弾が使われた。」という点。飛び交う銃弾の余りの多さに、空中でぶつかり合った銃弾同士が、くっ付いた儘で地中から掘り出される程だとか。想像を絶する激戦だったのだろう。
田原坂周辺を歩いたのは平日だったので、人の姿を見掛ける事は少なかった。山中に入ると、聞こえて来るのは鳥の囀り許り。物寂しさ、そして物の怪の存在を感じさせる様な雰囲気を覚えつつ歩いていると、急に降って来た雨。「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂♪」で始まる民謡「田原坂」を思い出してしまった。
薩軍と官軍が激戦を繰り広げる戦場で、一際異彩を放っていたのは、薩軍の村田新八ではなかったかと想像する。幼少より西郷隆盛に兄事し、最後の最後迄西郷と行動を共にした男。西郷自決を見届けた後には進撃を続け、そして戦死したのが村田新八だ。
【村田新八】
岩倉使節団の随員として欧米諸国を訪れた経験の在る村田は、「芸術をこよなく愛する人物だった。」と言われている。特に音楽を愛し、良くアコーディオンを弾いていたとか。西南戦争従軍中もアコーディオンを常に持ち歩いていたそうで、テレビ・ドラマ「田原坂」では戦場でアコーディオンを弾く村田の姿が描かれていた。
其れだけでも異彩を放っている訳だが、更に驚かされるのは「戦場での彼の衣装」だ。洋風にせよ和風にせよ、軍装の武人が犇めき合う中、カイゼル髭の村田は、シルクハットにフロック・コートという出で立ちで戦っていたと言われている。余りにも粋過ぎる此の出で立ち、戦場では嘸や目立った事だろう。
「戦場にて、異彩を放っていた。」と言えば、先々月に放送された番組「歴史秘話ヒストリア」(動画)で取り上げていた立花千代や吉岡妙林尼も、そうだったに違いない。日本史上、男性よりも女性が“強かった”時代が無かった訳では無い。古くは女王・卑弥呼が挙げられるだろう。
矢張り20代の頃、岐阜県を旅した際に、「岩村城」という城を訪れた。全く知識が無い儘に訪れたのだが、其処で初めて「此の城が嘗て、女性によって治められた城だった。」事を知った。織田信長の叔母・おつやの方が其の人で、故に岩村城は「女城主の城」とも呼ばれている。戦に敗れた彼女は結局、甥の信長によって逆さ磔で処刑されてしまう事に。
淀殿もそうだったが、おつやの方も権力は握っていたものの、実際に戦場で自らが戦った訳では無かったろう。だから「ジャンヌ・ダルクや王異等の様な“実戦経験の在る女性武将”は、少なくとも戦国時代以降の日本には居なかった。」と無根拠に思っていた。だからこそ、立花千代や吉岡妙林尼という“実戦経験の在る女性武将”が居た事に吃驚。
同番組によると、「戦場で戦った女性」というのは決して少なくなかったとか。此れも又。意外な話。今回の記事を書くに当たって色々調べた所、「意外と知らない戦国時代の女性武将」及び「マイナー武将列伝番外編・女性列伝」というサイトを発見。「下っ端の兵士として戦った女性も居た。」という話も在るそうだし、彼女等は嘸や戦場で異彩を放った事だろう。