ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

右で無ければ左、左で無ければ右となってしまうのか?(Part2)

2006年09月27日 | 其の他
又A氏は、「(朝日新聞等の反日報道に怒りを示す人が増えたのは)ネットによって真実に触れる機会が増えた上での、単なる正常な反応。」ともしていた。インターネットの普及によって、確かに”多くの情報”に触れる機会が増したのは事実だと思うし、その事によって今迄は表に出なかった”事実”が明るみになるといった事も当然在るだろう。だが留意しなければならないのは、インターネット上に溢れ返っている情報全てが、必ずしも正しいという保証が無いという事。自分も記事を書く上では出来るだけ複数の、それもなるべく方向性が同じでないメディアで確認してから書く様には心掛けているつもりだが、それでも誤った情報を掴んでしまう事が在る。そういった情報の中には、「明らかに何等かの意図を持っての誤情報。」も在れば、「単なる勘違いといった、”悪意の無い”誤情報。」も在り、種々様々だ。

だから、ネットによって真実に触れる機会が増えた。というのも、果たして様々な方向からの情報を総合的に吟味した上で「真実」と判断したものか否かによって、その中身は大きく異なるのではないだろうか。何よりも思い込みが激しければ激しい程、インターネットに溢れ返った多くの情報を吟味する”目”にかなりのバイアスがかかってしまう事も充分考えられるのではないだろうか。

勘違いして戴きたくないのは、上記した金村投手と同様に此処でA氏を批判したい訳では毛頭無い。そうでは無くて、この所A氏と似た様な言動が世間ではどうにも目立つ気がしており、その事に対して疑問を呈したいだけなのだ。

ブログは、私見を書く場でも在る。それを踏まえた上で尚、自分は記事を書く上で私見に関する部分には出来るだけ「自分は」とか「私見で在るが」といった断り書きを付ける様にしている。あくまでもそれは一個人の意見で在り、他者に強制すべきものでも、「この考え方が絶対無二的に正しい。」なぞと思い上がっている訳でもない事を明示する意思からで在る。しかし時には、「○○は売国奴だ。」といった断言調で書く事も在る。それは自分なりに様々なメディアに当たった上で、「本当にこの情報は正しいのだろうか?」と自らの頭の中で情報整理し、その結果「そうとしか思えない。」といった憤りを持って書く場合で在る。

例えば自身と相容れない主義や人物が居るとする。自分の場合、星野仙一氏等がそういった人物の一人なのだが(笑)、それでも彼の言動が全て誤っているとは思っていない。時には(では在るが。)「その通り。」と拍手喝采したい時も在る。要は、その時々に立ち止まって考え、その是々非々を判断する事が肝要なのではないか。

自分は別段、”右”にも”左”にも与したくはない。そもそも、ベルリンの壁崩壊から20年近くも経とうとしているのに、未だ「右だ左だ。」といった概念”だけ”が主張されているのも何か時代錯誤的な気すらしている。
だが、他者がどんな主義&主張を持とうが、それは全く自由という考えも持ち合わせているつもりだ。色んな主義&主張が無い方が、余程不健全だと思っている。

それだからこそ、過ぎた朝日バッシングに疑問を挟んだだけで、「御前は反日か!」と決め付けられてしまう様な昨今の風潮には付いて行けない。皇室の在り方に対し否定というレベルでは無く、疑問を呈しただけで「それならば日本から出て行け!」と書かれてしまった人のブログも目にした事が在る。議論を全面的に放棄し、自身の主義&主張と相容れないモノに対しては端から排除するというので在れば、それは極めて偏狭ではなかろうか。

中には”釣り”的に、又は冗談半分でこういった書き方をしている人も居るで在ろう。それならば別に疑問を差し挟むのは滑稽極まり無いのだろうが、「この考え方こそが唯一無二で在り、その他の主義&主張は100%嘘。考慮するに全く値しない。」と凝り固まってしまっているならばそれはどうかと思う。

嘗て「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン。」と揶揄された時代が在った。これもかなり偏った方向性の時代だった様に思うが、その揺り返しというか反動が今の世の中に繋がっているのかもしれない。唯、「朝日新聞の購読者や天皇制度に疑問を持っている人=反日」という安直な決め付けが在るとすれば、これは全くおかしなもの。彼等の中にだって、所謂”右”と称されている人よりも遥かに愛国の思いを持っている人が居ないとは誰が断言出来ようか。

偏った考え方を持っている自分だからこそ、敢えて今回は自戒も含めて吼えてみた。

*1 A氏の書き込みにはユーモア漂うものや納得させられるものも在るだけに、余りの決め付けが目立つのは残念でならないし、勿体無いなあと感じてしまう。

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18 コメント

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日本人の思考レベル (マヌケ)
2006-09-27 09:48:19
右と左しか判断の選択肢がない思考こそ考慮に値しない。 右の中にも左があったり左の中にも右があったり、人間の思考や一見筋道が通ったようにも思える理論にも大なり小なり矛盾や気まぐれが存在する。 アラブが嫌いだけどジダンは好きだとか、ユダヤは嫌いだけどテルアビブのナイトクラブは好きだとか、右でも左でも真ん中でも一個しかない地球の上であと2~3度平均気温が上昇すると海面が25メートルも上昇して都市が海没するかもしれないようなことにも直面している。 考えが小さい。 狭い思考範囲のなかで右だとか左だとか馬鹿げている。 争いが好きなのか暇で他に考えることがないのか?頭の中で思うことは自由、しかしメディアによって公言することはより十分な配慮と寛容さと礼節を持ったうえでなくてはならない。 それが社会におけるマナーというもの。 私も金村選手の外国人だからという発言には嫌悪感を感じました。 明らかに一時の怒りにかまけた差別発言で軽率であったと思いました。 スポーツマンとして情けない。
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揺り戻し (Spa supernova)
2006-09-27 13:39:30
確かに大いにいえますね。

同級生で高校の教師をやっているものがいまして、

「週刊金曜日(朝日ジャーナルの後継?)」と

「サピオ」を読み比べさせる授業をたまにやるそうです。彼いわく「どっちもどっち」とか「左と右はけーっきょく一緒やわい」ということを判断させたいため、らしいんですが、今の高校生はキャッチーなサピオに飛びつきそうだが…、効果あるかなー?と思いました。

ただ彼との意見の合致点は「いわゆるネット右翼と称される人々は昔の新左翼の小型版」ということでした。手法がとにかく似ていること、思考の幼さ含め。

「ユダヤ陰謀論が大好き」だったりするのは新左翼どころかナチにまでつながってしまいますが(笑)。

で、二元論思考しか出来ない。朝日新聞をとっていたら左翼なんていうのはかなりばかげた思考ですよね。新左翼が好む「電通に勤めている=右翼」(中島らものお師匠さんは電通の人でした。らもも電通に出入りしていたんですから右翼になってしまいます)ぐらいアホです。

まあ若い人(とは限らないようだけど)にありがちなのかなあ…。数年住んだドイツ、デンマークでは自分は被害は幸い受けなかったけれど、ネオナチ(暴走族的な人々)とトルコ系のギャング(ネオナチよかよっぽど怖い)の抗争、あるいは反米・反イスラエルのインテリ左翼若者の運動というのはそれなりによくニュースのネタになっていました。



>金村選手の外国人だからという



日本人らしくて泣けてくる…

結局鎖国をしたいわけで。でも金村君、その言葉は仲間のひちょり君、マイケル君、果てはダルビッシュ君をも傷つけてしまうのでは?と思います。
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既存の価値観にとらわれない。 (アラメイン伯)
2006-09-27 14:05:25
ブログが流行しておかげで皆が立場にとらわれず自由に意見を交換できるようになったのは大変意義あることです。

今までは所属している職場や組合、職場のつながり縁故で思想信条が影響を受けることが多かったのですが、そういうしがらみなしで自由に思想を構築していければよいと思います。
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民主亭右翼左翼 (破壊王子)
2006-09-27 20:19:45
元々フランス革命時の国民議会の議席配置に由来したものです。議会の右側に座った人々が右翼、左側に座った人々が左翼。で、右翼側は革命も程ほどにと言い、左翼側はもっとやれ!と言ったわけで、どちらにしても軸足は同じ位置にあると言えます。故に極左と極右の行動・思考パターンが似るのも当然ですね。

新聞についていえば、朝日が読みたい人は朝日をとるし、産経が読みたい人は産経をとるだけ。いやいや新聞の主張が購読理由にはなりますまい。洗剤の数とは巨○戦のチケットとかで決めてる人々も多いはずです(赤○や聖○新聞はともかく)。だって内容で吟味し出すと漢字の間違いや文法的なミス、慣用句や引用文の誤用なんか朝毎読産、山ほどありますから。
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Unknown ( oumo)
2006-09-27 20:42:57
giant-55さん コメントありがとうございます。

 世の中なんか生きづらくなったような気がします。景気云々ではなく、人を許容するという姿勢があまり見えなくなってきたと思うから。他人を批判するのはいいけど、すべてを否定するのはあまり面白くないですね。



日本人って、もっと謙虚な民族だと思っていましたよ。
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決めつけられてますよww ((まめ)たぬき)
2006-09-27 22:19:31
そりゃあ私だって左ですよ(ビジター観戦のときは、ね)

…しかし今回の一連の騒動で「左」と決めつけられることや、イデオロギーを持ち出される事にはうんざりです。

一部の考え方に共感できたら、それでもええやん。

ノンポリであろう、というのが新人類(1960年代生まれ)には多く(ちょっと前の「左」が格好良い、ちうのに対する反発でしょうね)、『右』を良しとするちょっと若い世代には冷めた目を向けてしまいます。、
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オモイヤリ (マヌケ)
2006-09-27 23:27:11
知識や道徳水準が低下した若者向けなのか漫画によるアピールがココ最近の流行なのでしょうか。 心の中で思う事は自由ですが、見境なくズケズケものを言うことが自己主張であるとか正しいことであるかのような風潮は嫌いですね。 私も先のコメントに同感で人を思いやる心が欠けた人が目立つ世の中になってきてはいまいかと心配です。 相容れない意見をもつ人に対しては心無い発言で人を傷つけてもかまわないとでも思うのでしょうか? それがまるで勇ましいとか毅然としているとか大きな勘違いを若者がしてしまうことも心配です。 悲しいかな有名大学を卒業して難関を突破して入社してきた若者たちの教養レベルの低さにホトホトあきれている昨今ですから。 グローバリズムによりふところの深い多様性が求められる時代かと思えばそうでもない、おかしな時代ですね。
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ファッションとファッショ (o_sole_mio)
2006-09-27 23:56:42
仰る通り、各紙共に思い入れを持った表現があるのだと思います。私も各社共にそういった拘りが鼻につくことがしばしばありますが、個人的には産経の「思い入れ」を最も強く感じます。



私もいわゆる新人類世代ですが、まめたぬきさんご指摘の通り前の世代から比べるとノンポリで、前の世代は左翼思想を語ることがインテリとしてのステーータスと言いますか、ファッション(昔「ファッション」と「ファッショ」の区別がつきませんでした)だったように思えます。それに比べ今の若い世代は、愛国や朝日バッシングを語ることがファッションのように思えます。



一点気になりますのが、インターネット等で情報が氾濫している時代にそれに対するリテラシーが低下してうることと、コミュニケーション、特に人の意見を理解する能力が低下しているように思われることです。それこそ「ファッショ」に利用されなければよいのですが(笑)。
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>マヌケ様 (giants-55)
2006-09-28 00:58:17
書き込み有難うございました。



記事でも書きましたが、自分もかなり偏った考え方をする人間と自覚していますので、本来はこんな偉そうな文章を書く資格は無いんですよ。個人的に宗教観が薄いという事も在りますが、気持だけでは無く金銭迄入れ揚げてしまい、一家離散という最悪な結果を迎えてしまった人間を知っていますので、○価学会と聞くと眉間に皺が寄ってしまう様な人間ですので、或る意味朝日嫌いの人間と同根の部分は在るかもしれません。唯、だからと言って、その対象が全てに於いて駄目だと言い張る程の狭量さでも無いと思っておりますが(苦笑)。



アンチ・ジャイアンツ、それもその度合いが著しく強い人間は、或る意味ジャイアンツの動向を非常に注視しているという意味で、一般のジャイアンツ・ファンよりも熱狂的なファンとも言えると指摘している人が居ました。その意味で言えば、極度な朝日バッシングを続けている人は、裏返せば熱狂的な朝日ファンという事になるかと。極右or極左、結局は極端という意味で、同じ位置に立つとも言えますね。



「見境無くズケズケ物を言う事が自己主張で在るとか正しい事で在るかの様な風潮が嫌い。」というのは、自分も全く同感です。物事をハッキリ言うのは決して悪い事では無いけれども、相手の主義&主張に全く耳を貸さないどころか、端から排除しようとする姿勢は民主主義国家の一員としてどうかと思います。又、言いっ放しで良いので在れば、こんな事は誰でも出来る事。相手の立場も慮った上で、自分の主義&主張を理路整然と明らかにする。それが出来ないのでは、単なるゴロツキと同じではないでしょうか。
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Unknown (右打ち職人)
2006-09-28 01:00:58
わたくしも右とか左とかすぐ決め付ける人、嫌いですね。

というか、人生損していると思いますよ。



例えばブログの中には人気ランキングで1、2位を争うブログから泡沫ブログまで「特定アジア」をこき下ろすブログが数多くみられます。



まあこき下ろすのは人の勝手ですが、こき下ろしているうちに「特定アジア」の美味とか文化とか(それがたとえパクリと呼ばれるものであってもパクリなりの味がありますしね)人とのふれあいなどを知らずにすごすことになるわけで、人間やっぱり日和見主義と言われても偏見を持たずにいろいろ味わっているほうが、この世の中、楽しく生きられるのではないですかね。
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