「“太平洋戦争の痕跡”をリアル・タイムで目にする機会が在った。」というのは、恐らく自分達の世代辺りが最後だったのではなかろうか。“辺り一面焼け野原”という光景を目にした事は勿論無いが、「幼い頃に行った渋谷駅周辺で、座してアコーディオンで軍歌を奏でる傷痍軍人の姿。」というのは、自分よりも若い世代だとリアル・タイムで目にする事は無かったろう。
手や足を失った傷痍軍人の姿を見る度、子供心に戦争の恐ろしさや悲惨さを感じた。自分が近現代史に強い関心を持つ様になったのは、傷痍軍人を実際に目にした事が、大きく影響していると思う。特に太平洋戦争開戦から戦後間も無い頃に関する文献は、意識して読んで来た。
「戦争では子供や女性、老人等、社会的に立場の弱い者達も多く犠牲になる。」と言われる。(一定年齢以上の)女性や老人ならば、何とか自立する事も出来様が、幼くして戦争で親を失った“戦災孤児”が自立して生きて行くというのは、非常に困難だったと思う。
太平洋戦争で戦災孤児となった子供達は、12万人以上とも言われている。2年前に「浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち」という本を紹介したが、大人ですら生き抜く事が困難だった時代なので、社会から見捨てられ、そして亡くなって行った戦災孤児は少なく無かった。生きて行く為に物を盗り、大人から殴り殺された戦災孤児も居たと言う。“時代の違い”が在るとはいえ、何とも遣り切れない話だ。
11日にTBS系列で放送された「終戦スペシャル『子どもたちの戦争』」で、「東水園」という施設が存在していた事を知る。1946年9月に戦災孤児の収容を目的とし、現在の「品川埠頭、旧品川第1・第5台場」辺りに設立されたのだとか。
上記リンク先(「東水園」)や此方の証言を読んで貰えれば、「東水園」が“親を失った子供達を優しく育む施設”というのとは程遠い、“子供達にとって過酷な施設”だった事が御判りになろう。「社会にとって厄介な戦災孤児を、“島流し”にする為の施設。」という感じで、大人による不条理な暴力や搾取が、珍しく無かった様だ。
「東水園」に限らず、戦災孤児達に対する社会の目は、非常に冷たかったと言う。「好んで親を失った訳では無い、社会的に非常に弱い立場の彼等を冷たく扱う。」というのは、人間の持つ本質なのだろうか?
この施設の事は知りませんでしたが、戦災孤児を邪魔ものとして扱った時代があったということは、戦後をテーマにしたドラマやドキュメンタリーで承知しています。
野坂昭如氏の「火垂るの墓」もそうした現実を背景にしていますね。
衣食足りて礼節を知る、と言いますが、大人でさえ生きていくのに必死だった時代、相手が子供だろうと、生存競争の相手とみなされたのでしょう。
武器をもって戦場で戦うことだけが戦争ではないと、そういう現実を知っている世代は年々少なくなり、戦争ゲームで戦争を知った気になり、仮想敵とみなす国に対し、軽々しく実力行使=戦争を語る世代が増えている現実を憂います。
そういう私自身も戦争を知らない世代ですが。
「戦前は『カヨちゃん。』と可愛がってくれた叔母(伯母?)が、東京大空襲で家族を失った事で叔母宅に身を寄せる事になると、非常に冷たく扱われた。」、初代・林家三平氏の妻で在る海老名香葉子さんが話していた事です。悠々遊様が書かれている「火垂るの墓」もそうですが、自分が生きるのに必死な時代故、“身内”ですら“鬼”に変わってしまうのですから、況や“他人”では・・・悲しい現実ですね。
自分にとって不都合な事柄には目を向けない様にする・・・そんな人が増えている感じがします。想像力の欠如も加わって、“現実”をきちんと把握出来ない。そうなると、戦争をゲームの様に捉えてしまうのも、当然の事かも知れません。