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「人質テロの犠牲者氏名公表求めた内閣記者クラブに批判殺到」(1月23日、J-CASTニュース)
プラント大手「日揮」の日本人社員7人の死亡が確認されたアルジェリア人質事件。内閣記者会が事件の犠牲者7人の氏名公表を政府に申し入れた事を巡り、マスコミへの批判が相次いでいる。
遺族への配慮等を理由に公表を避けた政府に対し、記者会側の申し入れの根拠は「国民の関心の高さ」等だ。多くのネット・ユーザーからは「遺族宅に押し寄せて、人権侵害する積りなのか。」、「実名に拘る意味が判らない。」と厳しく突っ込まれている。
アルジェリア人質事件に関して政府は2013年1月16日の発生以来、無事が確認された「日揮」の社員や、21日に死亡確認された7人に付いて氏名等一切を公表していない。菅官房長官は「御家族は大変哀しみ、動揺しており、日揮と相談して氏名の公表は避けて欲しいという事だった。」と述べている。
国は2005年に閣議決定した「犯罪被害者等基本計画」を機に、事件被害者を実名・匿名の何方で発表するかに付いて警察側に委ねている。近年は匿名発表のケースも増えており、政府は人質事件に付いて遺族感情を優先させて身元情報を伏せて来た。
此れに対し、内閣記者会は1月22日、首相と官房長官宛に7人の氏名や年齢の公表を求める申入書を提出した。同会は首相や官房長官を中心とする首相官邸の動きを主な取材対象とし、全国紙やブロック紙、各テレビ局が加盟する記者クラブの一つで在る。
其の内閣記者会は公表を求める理由として「①事件への、国民の関心が高い事。」、「②政府が公的に、安否確認を行っている事。」、「③政府が情報収集、救出、帰国支援に、全面的に関与している事。」を挙げている。加えて2004年4月と10月にイラクで起きた人質事件の際、当時の政府は日本人被害者の名前を公表している、と指摘した。
ところが、記者会側の思惑とは異なり、大いに反発を買っているのだ。「政府に、犠牲者情報の公開を要求した。」というニュースが流れると、ネット上には、「遺族を晒し者にして、御涙頂戴記事を書きたいだけだろ。」、「遺族への労りとか、節度という物は、マスコミに無いのか。」、「国民の関心が高いとかは、余計な御世話。実名が必要な意味が判らない。」といった意見が多く寄せられた。
又、「政府の発表に頼らず、自社の責任で取材して、遺族の了解取って実名報道すれば良い。」、「メディアは本当に、報道被害対策をどうにかしろ。放置した儘だから、『情報非公開』の言い訳が説得力を持ってしまう。」等のコメントも在った。
此の問題を巡っては、毎日新聞のヴェテラン記者のツイートにも批判や反論が殺到した。「亡くなった方の御名前は発表すべきだ。其れが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しは、其の名前に在る。人生の重さとプライヴァシーを勘違いしてはいけない。」。こうした記者の呟きに対し、リプライの多くは「こういう報道の方針が、一日も早く改まります様に。」、「実名じゃ無いと、弔いにならないのか。勝手な理屈、勘違いとしか思えない。」、「御遺族が嫌なら、そっとして上げて欲しい。抑、伝える側が判断する事なのか?」といった内容だった。
極めて少ない乍らも、ネット上にも内閣記者会側の姿勢を擁護する意見は在る。「亡くなった人がどんな人で、どんな思いで仕事をしていたのか、多くの人に知って欲しいと思う遺族も居る筈だと思うけど。」等の声が寄せられている。
メディア研究の専門家にも公表すべきだという意見は多い様だ。1月23日付産経新聞朝刊では上智大の田島泰彦教授(メディア法)が、「遺族への配慮は大事だが、(中略)身元が判らなければ、会社や政府の対応に問題が無かったかを検証する事も出来ない。此の先もずっと名前を出さないという対応には疑問が残る。」と主張している。
毎日新聞の同日付夕刊では報道・人権問題に詳しいとされる田中早苗 弁護士が「日本中が注目している事件で在り、親族の他にも心配している人は居る。政府は余程の事情が無い限り、氏名を公表すべきだと思う。」と述べ、青山学院大の大石泰彦教授(メディア倫理法制)は「遺族の意向は尊重すべき。」として生存者に限定した公表を求めた上で、「現場で何が起きたのか。政府や会社は、対策を講じていたのか。其れは、生存者にしか語れない。」と話している。
毎日新聞によると、人質事件に関してイギリスでは、イギリス人の死亡者の遺族が国を通じて、実名でコメントを発表している。フィリピンでは、フィリピン人の生存者が報道機関の取材に、写真付きで実名で答えていると言う。
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今回の人質事件で犠牲になった人達に対しネット上で、「自分の意思で危険な地域で仕事をしていたのだから、犠牲になったのも自己責任だ。」と書いているアホが居た。会社から業務として海外で働くを命じられ、必死で働いていたで在ろう人達が、何の罪も無く殺害された事を「自己責任」という一言で片付けるのは、単に「自己責任」という言葉を錦の御旗にし、甚振りたいだけとしか思えない。こういう人達は「自分の愛する人間が、同様な目に遭った場合。」でも、同じ事を言えるのだろうか?否、そういう人間に限って、自分の愛する人間が同様な目に遭った際には、狂った様に「亡くなった人間の正当性」を訴えるという身勝手さを見せるのではないか。
話を本筋に戻すが、最近でこそ露骨なシーンは見掛けなくなったけれど、昔は「事件や事故に巻き込まれて身内を亡くした遺族に対し、目の前にマイクを突き付けて、『今の御気持ちは?』なんぞと下種な質問を浴びせる記者やレポーター。」というのが少なからず居た。「『今の御気持ちは?』って、哀しいに決まってるだろ。傷口に更に塩を塗り込む様な真似が、良く出来るなあ。」と腹立たしく思ったもの。だから犠牲者の個人情報公表を求める内閣記者会に対し、「報道被害」を挙げて批判する人達が居るというのは理解出来る。
唯、安倍政権発足以降にネット上で顕著な「安倍首相の言動は全て正しく、少しでも批判や疑問を呈する者は一切許さない!」という妄信的なムーヴメントには危うさしか感じ得ず、今回の場合も“巨大掲示板”等では「安倍首相が決めた事に反対する売国奴達には、~という形で抗議しよう!」といった“具体的な嫌がらせ方法”を記した書き込みが散見され、「抗議した人達の中に、果たして何れだけ煽りに乗せられたのでは無く、“自分の頭”で確り考えた上、“自分の言葉”で抗議した人が居るのかなあ?」という懸念は残る。
「遺族が望まないのならば、無理に犠牲者の個人情報を公表するのは好ましくないだろうな。」と思う。でも「知り合いが事件や事故に巻き込まれた可能性が在る人」にとっては、犠牲者のみならず生存者の個人情報迄もが一切公表されないとなると、心配は募るだろうし、其れ其れが“個人”で確認する様になると、会社や遺族等が其の対応に却って翻弄されてしまうという問題も出て来るのではないか?
又、事件や事故が発生した際、“時の権力者達”が其れ等に対して“負の影響”を与えていたとしても、犠牲者等の個人情報を公表しない事で、其の責任や問題点を闇に葬り去る危険性も否定出来ない。「自分及び自分にとって好ましい対象に対する批判は、全てネガティヴ・キャンペーンと決め付け、ネット上の“信者達”を煽り立て、悪質な嫌がらせ行為で批判を封じ込める事を黙認している様な人間が権力を握っている場合は、特に其の危険性を憂える。
「生存者に関しては“一定の”個人情報を公表し、犠牲者に関しては遺族が公表を望まない場合は、其の人間に関しての公表を控える。」というのが“原則”として良いのではないかと考える。十把一絡げにして「非公表」というのでは無く、個々で判断すべきではないかと。
其処で、皆様にズバリ聞きます。「事件や事故が発生し、政府が情報収集、救出、帰国支援に、全面的に関与した場合、犠牲者や生存者の個人情報公表。」は、どういう形が好ましいと考えますか?
「遺体&生存者関係無く、公費を使って帰国なら実名報道。」、1つの指標としては在りだと思います。血税を投入している訳ですから、其の血税が有効に費やされたかどうかというのは、国民として知る権利が在ると言えますし。
唯、「国民の命を守る。」というのは国家として当然の事で在り、「公費を使ったのだから、実名報道は絶対にしなければいけない。」となってしまうと、報道被害の面で問題が出て来る事も在りましょうし、何よりも「自己責任バッシング」の様な筋違いのバッシングも起り兼ねない不安も在ります。難しい問題ですね。
一方で亡くなった人々の「名もなき英雄」としての報道のされ方には悪い印象はない。例えば淵田さんのような方に興味を持つ人間、共感を持つ同世代は多いのでは。
ただ、「大手企業の人間だから美化されすぎ」という変な嫉妬を持つ人間はいると思う。3つ昔前なら「日本企業の海外進出=経済侵略」と言う者もかなりの数でいた。今もその当時と同じ感覚の人はその世代に意外といる。
ただ、マスコミに対するバッシングに実は微妙な違和感を持っています。この人たちは単にマスコミをたたきたい、マスコミを憎んでいるだけのように思うので。
「熱し易く、冷め易い。」というのが日本人の特徴と良く言われますが、ネット上では特に其の特徴が顕著になる様に感じています。全てがとは言わないけれど、「深く考える事無く、表面的な部分だけを捉えて、面白おかしく叩く。」というのは、とても生産的な事とは思えない。
何事に於いても言えると思うのですが、「自分が他者からされて嫌な事は、自分も他者に対しては絶対に行わない。」という最低限のルールを守れないというのは、分別の無い子供なら話は別なれど、良い年をした人間がすべき事では無い筈。
マスメディアをバッシングする事で、自らの存在意義を示したいだけだったり、ストレスを発散したいだけだったりというのは、結構在ると思います。其の主張に「論」を全く感じ得ない(感情を剥き出しにしているだけの)ケースや、ネット上に“コピペ”されている文章を其の儘論っているだけのケースなんかは、そういう類い。
一方、マスメディアの側に問題が在るケースも、少なからず在る様にも思っています。バブル期、面白おかしく狂乱状態を煽っていたのもマスメディアならば、「其の後の経済低迷は、バブルに浮かれていた人達が悪いのだ。」と詰っていたのもマスメディアだし、そんな経緯が在り乍らも「アベノミクスでこんなにも儲かる!」と、“再び”煽っているのもマスメディア。一部のメディアとは言え、其の厚顔無恥さには呆れ果ててしまいます。
日航機の事故もそうでしたが、豊田商事事件で永野会長が刺殺された事件も、マスメディアの対応は酷かったですね。目の前で殺人が行われているのを、嬉々として取り上げていた様にしか思えなかった。センセーショナリズムを100%否定する気は無いけれど、センセーショナリズムから報じてはいけない事柄というのは在る。TPOを弁えず、「人々の耳目を惹き付けられるならば、何でも在り。」というのでは、マスメディアにとって自殺行為以外の何物でも無いと思います。