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「<阪神大震災>遺体無き母に会いたい 行方不明、猶3人」(1月7日、毎日新聞)
6,434人が亡くなった阪神大震災(1995年1月17日)では、行方不明者が3人居る。其の内の1人が兵庫県加古川市のパート従業員、佐藤悦子さん(51歳)の母・正子さん(当時65歳)だ。遺体や遺骨は見付からず、既に失踪宣告を受けて法律上は死亡扱いだが、佐藤さんは「気持ちの整理が付かない。何の様な最期だったのか。」と考え続けている。
他の行方不明者は、神戸市長田区の男性(当時71歳)と西宮市の女性(同63歳)。総務省消防庁は、失踪宣告を受けた場合も含め、「災害が原因で所在不明となり、且つ死亡の疑いの在る物」を行方不明者としている。
震災発生の1月17日、佐藤さんは加古川市の自宅で被災。18日朝、正子さんが1人で暮らす神戸市須磨区の実家のアパートが倒壊し、焼けた事を知った。避難所や病院、焼け跡を何度も捜した。腕時計や焼けたベッドは在ったが、遺体や遺骨は見付からなかった。
震災の約3日前、電話で「京都を旅行したから、御土産を取りに御出で。」と言われたのが最後の会話だった。
情報提供を呼び掛ける散らしを配り、親族に連絡がないか尋ねて回った。其の際、自分に12歳年上の姉が居る事を初めて聞かされた。福岡県出身の正子さんは神戸に来る前に離婚し、娘を養子に出していた。1995年の春先に姉と初めて会い、「母ちゃんが引き合わせてくれた。」と喜び合った。母の記憶が殆ど無いという姉に「優しくて穏やかな母だった。」と伝えた。
佐藤さんは1991年に離婚し、震災当時はシングル・マザーとして10歳と7歳の娘2人を育て乍ら、飲食店等で働いていた。正子さんは娘達の面倒を良く見てくれ、「今日は、何食べたい?」と喜んで実家に迎えてくれた。
震災の半年後、佐藤さん等は葬儀を営み、裁判所に失踪宣告を申し立てた。以来、辛くても「母ちゃんが、不満を言う事は無かった。母ちゃんの分も頑張ろう。」と奮起して来た。一方で「どういう経緯で亡くなったのか?苦しんだのか?」と考え続けた。
2008年には次女(27歳)が娘を出産。自分も祖母になり、20年前の正子さんの愛情を改めて噛み締めている。17日には母の名前が刻まれた神戸市の「慰霊と復興のモニュメント」を訪れ、母に伝える積りだ。「親孝行出来なくて御免。助けて上げられなくて御免ね。色んな事が在ったけれど、会いたい気持ちは何年経っても変わらない。」。
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阪神・淡路大震災発生から、今日で20年。当日、TV画面を通して目にした恐ろしい光景は、今も明確に覚えている。
4年前に発生した東日本大震災では、1万6千人近い方が亡くなられ、未だに2,594人もの方が行方不明の儘となっている(2014年12月10時点)。
何度か書いた事だが、自分が学生だった時分、父親は心筋梗塞で急死した。何日か前から体調は優れなかったものの、病院では「風邪でしょう。」との診察を受けており、父本人もそうだろうが、家族も「急死」なんて事態は、頭の片隅にも無かった。
近しい人間が、唐突に亡くなる。身内としては、“現実”を中々受け容れられない物だ。自分の様に、父の亡骸を眼前にしたケースですら受け容れるのに長い年月を要したし、未だに「現実では無く、夢だったのではないか?」と思いたくもなってしまう。況してや、行方不明状態が続いている御家族の場合は・・・。
合掌。