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・被害者のデザイナーは、目と指と舌を失っていた。彼は何故、こんな酷い目に遭ったのか?(「見ざる、書かざる、言わざる」)
・孤絶した山間の別荘で起こった殺人。然し、論理的に考えると、犯人は此の中に居ない事になる。(「籠の中の鳥たち」)
・頻発する虐め。だが、或る日、虐めの首謀者の中学生が殺害される。驚くべき犯人の動機は?(「レミングの群れ」)
・俺は、彼奴を許さない。姉を殺した犯人は、死を以て裁かれるべきだからだ。(「猫は忘れない」)
・或る日、恋人が殺害された事を知る。然し、其の恋人は、存在しない人間だった。(「紙の梟」)
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1つ1つが独立した、5つの短編小説から構成されている「紙の梟 ハーシュソサエティ」(著者:貫井徳郎氏)を読了。「賛否が何れか一方に偏りそうな重いテーマを取り上げ、深く切り込んで行く作風の物が多い。」のが貫井作品の特徴だが、今回の作品は「死刑制度」をテーマとしている。
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ここに至り、判決の傾向は大きく変容した。疑わしきは罰する。しかもただそれだけではなく、厳罰化を望む声がその傾向に乗っかった。そもそも、厳罰化は裁判員制度が始まる前から望まれていたことだった。そうした市民の“素朴な感情”に、裁判員は実直に応えるようになったのである。(中略)試行錯誤を経た結果、死刑判決の揺らぎはなくなった。人ひとり殺したら死刑。このルールはわかりやすく、市民に歓迎された。
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「見ざる、書かざる、言わざる」に記された文章からの抜粋だ。5つの短編小説に共通するのは、「人を複数人殺害しなければ、原則的に死刑にはならない現在。」では無く、「人1人殺したら死刑になる世界の話。」を舞台にしている事。
「人を国家が、合法的に殺す。」のが「死刑」という制度で在る。“人の死”が関わっているので、賛否両論在って当然だし、何方の立場を取るにせよ、「其れは、絶対に間違っている。」と指摘する気も無い。其れ程、死刑制度というのは重いテーマだから。
とは言え、我が国に在っては、死刑制度を支持する人が圧倒的多数。斯く言う自分も、過去に何度か書いて来た様に、死刑制度には賛成の立場を取り続けている。反対の立場を取る方々の主張には“納得出来る部分”も少なく無かったけれど、其れでも「自分の近しい人間が殺害されたら、加害者を絶対に許せないし、死刑にして欲しい。」という考えを変えさせるには到っていないのだ。
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「復讐という概念は難しい。素朴な感情は、復讐を是とするからだ。特に日本人は、仇討ちに思い入れがある。それがどんなに理不尽な行動であっても、仇討ちされる側ではなくする側に肩入れする。吉良上野介は名君だったと知ったところで、赤穂浪士に感情移入することは止められない。」。「ああ、そうか。いじめっ子を殺した犯人は、赤穂浪士と同じ立場なんですね。」。そう指摘されると、腑に落ちる。客観的には赤穂浪士は治安を乱すテロリストたちであり、だからこそ切腹を免れられなかった。しかし世の人々は、死を覚悟して討ち入った浪士たちに快哉を叫ぶ。まして今度の場合、いじめっ子は名君ではない。復讐される側の事情など、推し量る必要はなかった。「素朴な感情は、ルールを超越する。ルールに従って切腹を強要されても、人はそこに美学を見いだす。いじめっ子を殺した男が賞賛されるのは、言ってみれば伝統的に避けがたいことなのだ。」。
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「人1人を殺したら、加害者は死刑にすべき。」等、死刑制度賛成の立場を取る自分が持つ思いと同じ主張が、作品の中で“死刑制度賛成派の立場の人間の主張”として記されている。(自分の場合、「全部が全部を死刑にしろ。」という訳では無く、「永山則夫元死刑囚の様な情状酌量の余地が在る場合は、死刑を求めないケースも在る。」と考えているけれど。)
其の一方、恐らくは著者の貫井徳郎氏がそういう立場だと思われるけれど、「紙の梟 ハーシュソサエティ」では「死刑制度は、本当に犯罪抑止力になっているのか?」、「犯行を悔い改め、心からの反省をする加害者も居ないとは言えないので、死刑で命を奪うのでは無く、反省の思いを持って行き続ける道を与えるべきでは?」等、死刑制度反対という考えが色濃く出ている。此れ等の主張、判らなくも無いけれど、矢張り自分の考えは変わらなかった。
「籠の中の鳥たち」という作品は、犯行動機が全く理解出来なかった。杓子定規な考え方ならば、そういう動機も在り得るのだろうが・・・。
「レミングの群れ」という作品は、早い段階で結末が見えた。「人は色んな“顔”を持っており、『こうだ。』と信じ込んでいた“顔”が、実は“本当の顔”では無かった。」というのは良く在る事。背筋が寒くなる結末では在るが、100%想定内の結末だった。
一方で「猫は忘れない」という作品は、“或る物”が記された時点で、「此れが、謎解きの物証になるんだろうな。」と想像が付いたけれど、「どういう形で、謎解きに使われるのか?」が判らなかった。「そういう事か!」という驚きは在る。
一番印象に残ったのは、表題にもなっている「紙の梟」。話が進んで行くに連れ、「とんでもなく不快な結末になるのだろうな。」と予想していたけれど、豈図らんやホッとさせられる結末だった。最後に登場する或る人物の意外な正体には、遣られた感が。
副題の「ハーシュソサエティ」とは、英語で「harsh society」と記し、「厳しい社会」と訳される。現在の日本は、「只管に重罰化を望み、息苦しくも厳しい社会。」という思いが、著者には在るのだろう。「度が過ぎた重罰化はどうかと思うが、或る程度の重罰化は仕方無し。」と考える自分なので、完全に同意は出来ないけれど、判らないでも無い面は在る。
総合評価は、星3.5個とする。