外国人力士が少しでも問題を起こすと狂った様にバッシングするのに、日本人力士がそれ以上酷い事(時津風部屋のリンチ致死事件等。)をしても見事な程にだんまりを決め込むという、幕末の攘夷派の如き内舘牧子女史。この手の歪んだ愛国心には辟易としてしまうが、物書きとしての彼女の文章はなかなか面白い。当ブログでも過去に取り上げたが、「週刊朝日」の連載されている「暖簾にひじ鉄」という彼女のエッセーも毎回読ませる内容。12月14日号のタイトルは、「メダルをかじる選手たち」というものだった。
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五輪や世界選手権等の大きな国際協議会の優勝者が、表彰式後に報道陣のカメラの前で、授与されたばかりの金メダルを齧る行為が続いている。何時頃、誰が最初に始めたのか記憶に無い程、定番的な勝者の喜びの表現とされている様に思える。
「食べちゃいたい位に可愛い!」という愛情表現が在るが、最初にこの行為をした金メダリストは、恐らく極自然な感情の発露としての振る舞いだったのだろう。それが「絵になる。」と踏んだ一部の報道関係者が選手達に要求し、選手自身の自然な喜びの気持ちの表れという行為から、次第に演出された喜びの仕草というレベルに変化して行った様だ。
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11月6日付けの秋田魁新報に掲載された、東大大学院の武藤芳照教授の「金メダルかじる演出」というコラムの一部を紹介した上で、「私も『メダルを齧る』というシーンを見る度に、何だか訳も無く『イヤーな感じ』を覚えていたのだが、この文章を読んで『そうか。要求されてやるから見ていて気持ち悪いのか。』と気付いた。」と内館さんは記している。又、「私がもう一つ不気味なのは、優勝した選手がトロフィーやカップにキスするシーンで在る。若くて綺麗な女子プロゴルファーなんかがそれをやるのは好評なのだと思うが、私は『幾ら若くて綺麗でも、やっぱりう何か気色悪いのよねえ。何でだろう?』と思っていた。しかし、これも要求に応じてやるせいかと気付かされた。」とも。
日本人選手が写真撮影で「メダルを齧る」というポーズを取り出したのは何時頃からだろうか?記憶を遡ってみると、北島康介選手乃至は谷亮子選手辺りがオリンピックで金メダルを獲得した際にやったのが初めだった様に思う。メダルを齧ったり、トロフィーやカップにキスしたりというポーズに関して内館さんの様に「気持ち悪い。」と迄は思わないものの、「ワンパターンでオリジナリティーが無いなあ。」と感じていた。定型化されたポーズを誰もが取る事で、「その選手自身の個性が見えなくなってしまっている、その他大勢の選手達の中に埋没してしまっている。」様な思いも。
「トロフィー等にキスする選手達は、大抵ポーズを決めている。目は瞑るべきか否か、唇はどの位突き出したら綺麗か、顎はどの位上向きにすべきか等々を考えている様に見える。無論、それは無意識で在るにせよだ。そしてカメラの放列の中、全てのシャッター音が収まる迄の間、ずっとキスのポーズを取っている訳で在るから、『極自然な感情の発露』では無い。優勝して嬉しさの余り、思わずガリッと齧ったとかキスしてしまったとかの姿からは遠い。」と内館さんは続け、カメラマンから要求されてやってくれたシーンでは感動が伝わり難く、「演出」や「演技」で無い「極自然な感情の発露」をファンは見たい筈と記している。唯、カメラマンからの演出要請を突っ撥ねて、何を言われても何を聞かれても「別に。」とか「特に在りません。」等と沢尻エリカ嬢の様な態度だと叩かれるだろうし、選手にしてみれば優勝直後の喜び&感動でパニック状態で在ろう中では「もう要求されるままに何でもします。」というハイテンション状態だったり、「齧りたくないです。」とか「キスはしません。」等と言い切る事で自分自身の喜びに水を差す気にもなってしまうのかもと同情も寄せている。
武藤教授は「スポーツに於ける報道には両刃の剣が潜んでいる。」事を案じ、上手く報道されれば選手も育つし、社会にスポーツの素晴らしさも伝えられるが、テレビ局等が局の利得を優先させて演出過剰になると選手を駄目にし、ファンを失い、スポーツの地位を失墜させると述べた上で、次の様な文章でコラムを締め括っているのだそうだ。
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世界陸上(大阪)で有力選手を侍姿にして宣伝したり、バレーボールの試合でアイドルグループによる一方的且つ過剰な応援を繰り返したりするのも、そうした危険性を有している。先日のボクシング亀田一家の騒動も、テレビ局の価値観を背景にしてヒール(悪役)を偽装的に演出させたが故の乱暴な振る舞いによる事件と捉えられる。
スポーツがテレビに合わせるのでは無く、テレビがスポーツに合わせるのが基本で在り、選手が主役で在る事を今こそ再認識すべきだろう。金メダルは齧る為に授与されるのではないのだから。
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「選手が主役で在る事を再認識すれば、選手は(妙な演出に対して)『ノー。』と言うストレスから解放される。これは最重要な事だ。」と内館さん。しかし一方で、テレビのスポーツ担当者や新聞のスポーツ記者達と接していると、彼等が「より良い仕事をしよう。」と懸命で、高視聴率や部数拡大を狙う欲以外に、「視聴者や読者を喜ばせたり、驚かせたりしたい。望む物を提供したい。」という報道者としてのプロ意識も理解出来ると。そして、「そうなると何よりも問題なのは、報道者達のセンスだと思う。選手を侍姿にしたり、十年一日の如くメダルを齧らせたり、トロフィーにキスさせたりする事が、視聴者や読者を喜ばせ、視聴率や部数に繋がると思って要求しているなら、それはセンスが無さ過ぎる。何よりもセンスを磨く事が先決だろう。」と指摘。
「選手が主役」という考えは非常に大事だと思う。武藤教授が挙げたバレーボール中継をチラッと見たが、「ジャニーズ事務所の新ユニットの御披露目パーティー?」と思ってしまう内容だったし、亀田兄弟の試合中継も肝心の試合よりパフォーマンスに重点を置いての放送と、主客転倒なスポーツ中継がかなり目立つ昨今。
プロ野球中継も例外では無く、訳の判らないゲストを呼んで自己アピールの場にさせてしまうのはまま見られる事。そして自分が嫌なのは、日本代表チームをやれ「長嶋JAPAN」だ「王JAPAN」だ「星野JAPAN」だと監督の名前を冠する呼称。あくまでも選手が主体なのに、監督名が冠される事で選手の存在がどうしてもぼやけてしまう気がする。故に当ブログでは、この手の監督名を関した呼称は(記憶違いで無ければ)一回も使っていない。これは敬愛する王さんの場合でも例外では無い。あくまでも、主役は選手なのだ。
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五輪や世界選手権等の大きな国際協議会の優勝者が、表彰式後に報道陣のカメラの前で、授与されたばかりの金メダルを齧る行為が続いている。何時頃、誰が最初に始めたのか記憶に無い程、定番的な勝者の喜びの表現とされている様に思える。
「食べちゃいたい位に可愛い!」という愛情表現が在るが、最初にこの行為をした金メダリストは、恐らく極自然な感情の発露としての振る舞いだったのだろう。それが「絵になる。」と踏んだ一部の報道関係者が選手達に要求し、選手自身の自然な喜びの気持ちの表れという行為から、次第に演出された喜びの仕草というレベルに変化して行った様だ。
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11月6日付けの秋田魁新報に掲載された、東大大学院の武藤芳照教授の「金メダルかじる演出」というコラムの一部を紹介した上で、「私も『メダルを齧る』というシーンを見る度に、何だか訳も無く『イヤーな感じ』を覚えていたのだが、この文章を読んで『そうか。要求されてやるから見ていて気持ち悪いのか。』と気付いた。」と内館さんは記している。又、「私がもう一つ不気味なのは、優勝した選手がトロフィーやカップにキスするシーンで在る。若くて綺麗な女子プロゴルファーなんかがそれをやるのは好評なのだと思うが、私は『幾ら若くて綺麗でも、やっぱりう何か気色悪いのよねえ。何でだろう?』と思っていた。しかし、これも要求に応じてやるせいかと気付かされた。」とも。
日本人選手が写真撮影で「メダルを齧る」というポーズを取り出したのは何時頃からだろうか?記憶を遡ってみると、北島康介選手乃至は谷亮子選手辺りがオリンピックで金メダルを獲得した際にやったのが初めだった様に思う。メダルを齧ったり、トロフィーやカップにキスしたりというポーズに関して内館さんの様に「気持ち悪い。」と迄は思わないものの、「ワンパターンでオリジナリティーが無いなあ。」と感じていた。定型化されたポーズを誰もが取る事で、「その選手自身の個性が見えなくなってしまっている、その他大勢の選手達の中に埋没してしまっている。」様な思いも。
「トロフィー等にキスする選手達は、大抵ポーズを決めている。目は瞑るべきか否か、唇はどの位突き出したら綺麗か、顎はどの位上向きにすべきか等々を考えている様に見える。無論、それは無意識で在るにせよだ。そしてカメラの放列の中、全てのシャッター音が収まる迄の間、ずっとキスのポーズを取っている訳で在るから、『極自然な感情の発露』では無い。優勝して嬉しさの余り、思わずガリッと齧ったとかキスしてしまったとかの姿からは遠い。」と内館さんは続け、カメラマンから要求されてやってくれたシーンでは感動が伝わり難く、「演出」や「演技」で無い「極自然な感情の発露」をファンは見たい筈と記している。唯、カメラマンからの演出要請を突っ撥ねて、何を言われても何を聞かれても「別に。」とか「特に在りません。」等と沢尻エリカ嬢の様な態度だと叩かれるだろうし、選手にしてみれば優勝直後の喜び&感動でパニック状態で在ろう中では「もう要求されるままに何でもします。」というハイテンション状態だったり、「齧りたくないです。」とか「キスはしません。」等と言い切る事で自分自身の喜びに水を差す気にもなってしまうのかもと同情も寄せている。
武藤教授は「スポーツに於ける報道には両刃の剣が潜んでいる。」事を案じ、上手く報道されれば選手も育つし、社会にスポーツの素晴らしさも伝えられるが、テレビ局等が局の利得を優先させて演出過剰になると選手を駄目にし、ファンを失い、スポーツの地位を失墜させると述べた上で、次の様な文章でコラムを締め括っているのだそうだ。
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世界陸上(大阪)で有力選手を侍姿にして宣伝したり、バレーボールの試合でアイドルグループによる一方的且つ過剰な応援を繰り返したりするのも、そうした危険性を有している。先日のボクシング亀田一家の騒動も、テレビ局の価値観を背景にしてヒール(悪役)を偽装的に演出させたが故の乱暴な振る舞いによる事件と捉えられる。
スポーツがテレビに合わせるのでは無く、テレビがスポーツに合わせるのが基本で在り、選手が主役で在る事を今こそ再認識すべきだろう。金メダルは齧る為に授与されるのではないのだから。
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「選手が主役で在る事を再認識すれば、選手は(妙な演出に対して)『ノー。』と言うストレスから解放される。これは最重要な事だ。」と内館さん。しかし一方で、テレビのスポーツ担当者や新聞のスポーツ記者達と接していると、彼等が「より良い仕事をしよう。」と懸命で、高視聴率や部数拡大を狙う欲以外に、「視聴者や読者を喜ばせたり、驚かせたりしたい。望む物を提供したい。」という報道者としてのプロ意識も理解出来ると。そして、「そうなると何よりも問題なのは、報道者達のセンスだと思う。選手を侍姿にしたり、十年一日の如くメダルを齧らせたり、トロフィーにキスさせたりする事が、視聴者や読者を喜ばせ、視聴率や部数に繋がると思って要求しているなら、それはセンスが無さ過ぎる。何よりもセンスを磨く事が先決だろう。」と指摘。
「選手が主役」という考えは非常に大事だと思う。武藤教授が挙げたバレーボール中継をチラッと見たが、「ジャニーズ事務所の新ユニットの御披露目パーティー?」と思ってしまう内容だったし、亀田兄弟の試合中継も肝心の試合よりパフォーマンスに重点を置いての放送と、主客転倒なスポーツ中継がかなり目立つ昨今。
プロ野球中継も例外では無く、訳の判らないゲストを呼んで自己アピールの場にさせてしまうのはまま見られる事。そして自分が嫌なのは、日本代表チームをやれ「長嶋JAPAN」だ「王JAPAN」だ「星野JAPAN」だと監督の名前を冠する呼称。あくまでも選手が主体なのに、監督名が冠される事で選手の存在がどうしてもぼやけてしまう気がする。故に当ブログでは、この手の監督名を関した呼称は(記憶違いで無ければ)一回も使っていない。これは敬愛する王さんの場合でも例外では無い。あくまでも、主役は選手なのだ。
ただスポーツ選手の演出、全てが気に入らないわけではありません。
イチローvs松坂大輔の初対決
イチローは3連続三振を食らいました。
最後の三振で、イチローは首を傾げるポーズをします。
これは明らかに判定等の不信感ではなく、イチローが松坂を認めた瞬間の象徴的なシーンとして、僕の心に残りました。
ですが、イチロー自身このポーズを後に、演出であったことを認めています。
また松坂は試合終了後、
「自信が確信に変わった。」
という有名な言葉をヒーローインタビューで発言します。
これも、前々から考えられていた言葉であり、つまり演出であったと松坂自身、発言しています。
だからといって彼等の演出に嫌悪感を抱くかといえば、そんなことはなくむしろ、さすが、一流のプロという感情になります。
報道関係者もこういった演出にクローズアップして報道した欲しいですね。
谷亮子や井上康生などの他のスポーツ選手も、競技は違えどトップアスリートには変わりはなく、感動の瞬間って必ずあると思います。
例えば、谷亮子でいえば、
外国人がすると様になるのですが、日本人がすると全く様にならないポーズって在りますよね。両方の手の平を上に上げて、肩を竦めるポーズなんかもその一つで、これが似合うのは嘗ての宍戸錠氏位でしょうか。
自分が好きじゃないのは、あからさまに流行語大賞を狙って発言したかの様な物。「自然な感情の発露だったら、こんなフレーズは絶対に出ないだろう。」と突っ込みを入れたくなる様なわざとらしい発言にはドン引きしてしまいます。
「選手が主役」というテーマは、3年前にも僕は書いたことがありました。それだけに、giants-55さんの主張には同感です。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/kanchan42195/diary/200505
文中に登場する、「某チームのコーチ」とは、福岡ダイエーホークスのコーチをしていた藤田学さん(愛媛・南宇和高出身)のことです。
書かれておられる内容に全く同感です。もっと踏み込んで言うならば、「プロで在る選手達に対して、一から十迄指導するというのもどんなものか?」という思いが在ります。しばしば使われる喩えですが、プロ入りするというのは東大に入るよりも難しい事。それだけの難関を潜り抜けて来たのだから、皆、かなりのレベルに在るのは間違い無く、先ずは個々人が自らの頭で試みて行くのを見守り、そして壁に突き当たった時に技術的な事も然る事乍ら、精神的なアドヴァイスを的確に出来るのが真の指導者の様に思います。「俺はコーチなんだから偉いんだ。」といった勘違いをしている人物が未だ少なく無い様に見える野球界。こういった点も変えて行かないと、野球の魅力が益々減じられて行く事でしょう。