所謂「極左」とか「極右」と称される人達の意見に共感を覚える事は殆ど無く、寧ろ嫌悪の思いを抱く事が殆ど。其の理由は「『自身の考えこそが唯一無二的に正しく、少しでも異なる考えは全て誤り。』とする狭量さ。」も然る事乍ら、「少しでも異なる考えを、力尽くで“抹殺”しようとする姿勢。」を露骨に感じてしまう事が多いからだ。
「左」にも「右」にも与したくない自分だが、「左」や「右」と称される人達の中にも、其の主張に共感を覚える人も居る。「右」で言えば、民族派政治団体「一水会」の最高顧問・鈴木邦男氏も其の1人で、「是々非々で物事を判断出来る。」という点を評価している。
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「ネット右翼 頭の中で仮想敵を作り『反日』と名指しして罵る」(8月13日、NEWSポストセブン)
ネット上で発生し、一部は街頭に出て活動する「ウヨク」(ネット右翼=ネトウヨ)達を、“本家”の「右翼」はどう見ているのか。民族派団体、一水会顧問の鈴木邦男氏は、嘗ての自分の姿を重ね合わせた上で、彼等は言論の場に出て戦うべきだと提言する。以下、鈴木氏の主張で在る。
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ネット上だけで活動しているネトウヨは勿論、「主権回復を目指す会」(目指す会)や「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の一人一人は、寄る辺の無い人間だと思う。だからこそ、「強くなりたい。」と願うのだ。しかし、集団で「我々は日本を背負っている。」と言った途端に、人間から巨大ロボットに変身した様な気がしてしまう。其れに加え、「北朝鮮に攻め込め。」、「韓国、中国を許すな。」等と発言すると、其の錯覚は更に強まる。此れは怖い事だと思う。
又、彼等はそうした運動の場に、「日の丸」を沢山掲げ、自分達は「日本」だと言う。しかし、外国人に「出て行け。」と言う偏狭さが日本と言えるだろうか。
日本の歴史は、中国や西欧等、あらゆる文明を殆ど無制限に受け容れ乍ら続いて来た。そうした咀嚼力、自由さ、鷹揚さは日本的で在り、素晴らしい。だからこそ、「此れこそが日本で、其れ以外は許さない。」という姿勢は“日本的で無い。”、と私は思う。彼等には、もっと「日の丸」を大事にして欲しい。
もう一つ、気になる事が在る。彼等が運動する切っ掛けの多くがネットで在るせいか、敵と戦う事に免疫が無いという事だ。
私は、学生運動当時に、対立する左翼学生達としょっちゅう激論を交わし、時には殴り合った。其れでも、敵にも優秀な人間が居る、良い奴が居るという事は御互いに判っていた。
しかし、ネット右翼は頭の中で架空の敵を作り、其れを「反日」だと名指しして罵る。しかし、本当は、ナマの敵を知らないのではないか。
私は、言論の場に出る事で“良い敵”と出会う機会を得た。其処では失敗もしたし、却って馬脚を露わした事も在ったと思う。唯、敵と沢山戦うという経験を経たからこそ、自分を冷静に客観視出来る様になったのだ。
例えば、弁護士の遠藤誠氏(故人)の様に、思想は100%違っても、尊敬出来る敵は何人も居る。反対に、思想は同じだが尊敬出来ない人間も居る。一体感を原動力に運動している間は気付かないが、軈て時間が経つと、仲間の中にさえ、陸でも無い人が居る事を知る時が来る。今後、彼等には、そうした試練が待っているのだと思う。
「自分達を批判する相手とは会いたくない。」、「同じ考えの集まりが心地良い。」と感じるのは、ネット右翼だけでは無く、ネットで知りたい情報だけを読み、気の合う仲間とだけ集まる様な、日本社会其の物でも在る。
そして、在特会や目指す会を支えているのは、名前や顔を出さずに拍手喝采を送る大勢の人間だ。ネット右翼達には、考えの異なる敵と討論する事に挑んで欲しい。仮令仲間から追い出されたとしても、言いたい事が言えるかどうか。一人一人が強くなる為には、どうしたら良いのか。
其の為には、集団での単なる弱い者虐めを止め、ネットという「安全地帯」を飛び出して、国の事を考え、発言する勇気を持って貰いたい。
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全く同感だ。「常に仮想敵を作り上げ、其れを叩く事でしか、自身の存在感を示し得ないのは愚かしい。」とか、「『御前の言動は、全て許せねえ!自分は、そんな卑怯な真似はしねえ!!』等と“目の前の人物”を口汚く罵り捲った挙句、善く善く“目の前の人物”を見詰めたら、其れは“鏡に映った自分”だった・・・というのでは、とんだ道化だ。」等々、過去に当ブログで色々書いて来たが、“中心に在る思い”は、此の“鈴木氏の思い”と一緒と言える。
「日本の良い点を全て否定し、悪い点許りを論う連中。」は嫌いだが、「日本の悪い点は全て否定し、良い点許りを論う連中。」も同様に嫌い。所謂「自虐史観」は受け容れられない自分だが、「“明らかに”日本が行った悪い事柄は全て『事実では無い!』と言い張って否定する一方、“嘘も含めて”日本に都合の良い事柄だけを『事実で在る!』と主張する連中。」も受け容れられない。全て「同じ穴の貉」と言えるから。
「『自身の考えこそが唯一無二的に正しく、少しでも異なる考えは全て誤り。』とする狭量さ。」から、諍いは起こる事が多い。国家間の諍い、最悪のケースで言えば「戦争」になる訳だが、其れも例外では無いだろう。
今日は、67回目の「終戦の日」。「平和な生活を送れる“今”を感謝し、同時に其の身を犠牲にする事で“今の礎”を築いてくれた戦没者達を、“静かに”悼む日。」だと考えている。「自身の存在感をアピールする為」や「自己陶酔の為」等の理由“だけ”で大騒ぎしている様な連中は、戦没者に対して失礼。此れは、「右」も「左」も無関係にだ。
「戦争」という愚行を二度と繰り返さない為にも、我々は「歴史」から多くを学ばないといけない。「歴史」から何も学ばず、愚行を繰り返すのは、愚の骨頂と言える。戦没者を静かに悼み乍ら、「過去の戦争」に付いて其れ其れが“様々な方向から”の情報に当たり、“自身の頭”で考える。「終戦の日」は、そんな日で在って欲しい。
鎖国を止めた明治以降、世界に対して日本は被害者でもあり加害者でもあったのに、どちらか側だけの視点で歴史を捉えようとするから歪んでしまう。
いわゆる「自虐史観」が本当に自虐史観なのかどうか、疑問に思っています。
ある歴史上の出来事に関し、片方は事実だと主張し、もう一方はでっち上げだと主張する。ただ言い募るだけで、どちら側も証拠・証言の積み重ねで徹底的に真実を解明しようとする「本気」が見えてこないから。
領土問題と一緒。
鈴木さん、若い頃のことは記憶が美化してくれるんですね。あなたがいた時分の早稲田は内ゲバで死者も出たろうに。
私が憧れた大学も中は本当に陰惨でした。自治会(某過激派系)の暴力支配の実態。瀕死の重傷の者がキャンパスに転がっていることも何度なんて物ではなかった。彼らの仮想敵は米帝でも資本家でもなく他セクトだった。他大学からの殴りこみ、共産党が学校前で街宣車で「暴力学生は出て行け!」と演説。そして校門前にはいつも機動隊がスタンバイ。でも彼らはアカ同士の潰しあいの内ゲバは放置。これは昭和43年のことではありません。それよりずっと何年も後の話です。
最初は憧れていたが、ロボットのような自治会側兵士には違和感ばかりだった。同じような話し方、顔…。怖いからあまり表立っては言っていなかったが一般学生の共通認識だったと思います。彼らへの嫌悪感、「シラケ」がネトウヨを生む素地だったのかもしれないと思います。時折ネトウヨさんのブログ等見ますと同年輩だな、ちょっと年上の方かな、と感じることが多い。私だけの錯覚でしょうか?ですので「ネトウヨ=団塊ジュニア前後世代以下の歳」とされるのは違和感を感じることが多いのです。もっとも鈴木邦男からすれば私も「若い人」かもしれませんけど。
>到って馬脚
東アジア反日武装戦線を統一教会って書いちゃったことかな。自決する覚悟でやっていた=右翼、首謀者たちが北海道出身多い=知り合いの原理にはまって北海道行った人を連想
鈴木氏や私の子供の時代は「戦後20年」とか言っており、戦争経験者が多数派だった時代でした。あの時代の空気は遠くなりました。
自分も所謂「右翼と称される人達」と「左翼と称される人達」の“多く”は、「排除の論理を振り翳す。」という点では同根だと感じています。以前にも触れた「All-or-Nothing Thinking」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/7fd2adfb1ff8e95eb8ce73bfc5bfb4f5)というのも、両者の“多く”に見受けられる傾向ですね。
確固たる証拠を積み上げ、其れ等を以てして主張する事柄には見聞する価値が在るけれど、単に「感情」だけで捲し立てる様な主張は見聞するに値しない。
「『個人』が真に戦没者を悼みたいが為に、靖国神社を参拝する。」というのは、自分も良い事だと思っています。しかし「単にイデオロギーを振り翳したいが為だけ。」とか「自身の存在感をアピールしたいが為だけ。」に、著名人が靖国神社を訪問するというのは、戦没者に対する冒涜だと感じています。「8月15日」に参拝する事に固執している人達の中に、果たして“其れ以外の日”にも参拝している人は何れだけ居るのだろうか?真に戦没者を悼む気持ちが在るのならば、靖国神社以外でも手を合わせたりしているのだろうか?“集団”で靖国参拝をしている政治家達の姿を見ると、「個々に参拝すれば良いのに。」と感じてしまう。自分には、集票目的の嫌らしさが透けて見えてしまうのです。
今年は居たのかどうか判らないのですが、日本軍の軍服を態々着込んで参拝するという人(実際に戦地に赴いた年配の人ならば、話は別ですが。)が過去にニュース映像等で見受けられた。此れなんかは、目立ちたいが為だけの“コスプレ”ではないかと、自分は感じました。こういう格好で参拝される事が、果たして戦没者の気持ちに沿う事なのだろうか。
自分は学生運動が盛んな頃を記憶している世代では無いのですが、内部抗争が激しかった事は書物等で見聞しております。日本赤軍もそうですが、仮令何れだけ崇高な主張をしていたとしても、遣っている事の多くが「理不尽な犯罪」。「あいつは気に入らないから。」という理由だけで“仲間”を粛清したりと、とても許される事では無い。
自身も認めている様に、鈴木氏も嘗ては滅茶苦茶な事をしていたと思っています。唯、其のおかしさに気付き、全く主張を変えるという事は、人間誰しも在る事で在り、其の変わった方向性が「他者に迷惑を掛けない。」という物で在れば、其れは悪くないと考えるのです。
汚職塗れの政治家等がのさばっている現状を見聞すると、「こんなとんでもない連中に、何故“天誅”が下されないのか?」と“嘗ての”自分は思ったりしていました。しかし年齢を重ね、様々な情報に触れて行く中で、「『正義』という言葉を振り翳して、暴力行為に訴える事の危険性。」というのを強く認識する様になった。「明々白々な独裁者を倒す為に、暴力行為に訴える。」というのは未だ看過出来るけれど、そうじゃないケースで在れば、「個人が考える正義感によって、暴力行為に訴える。」というのは、其れも或る意味「独裁的な遣り方」だから。
もはや無視できない勢力になっている→?
便利に使ってきたのに、制御できなくなっている→○
かつての連合赤軍みたいな感じ?(日本赤軍と紛らわしいけど、母体は一緒だけど途中で分かれた別の派閥で、日本赤軍には左右問わず徳間康快とかどういうわけかかなりの大物のシンパがいたらしいが、連合赤軍のほうは例の身内大量殺人で見放されてしまった)
サピオ同様にネトウヨ御用達だったはずのサンケイすら敵にしたのがカオスですね。利用してたはずが制御できなくなったというのは決して良い意味ではなくて、トンチンカンなことになってしまい、飼い犬のはずがこちらに刃を向けに来るようになってしまった、という感じでしょうか。鈴木邦男氏はもともとネトウヨより「ネトサヨ」になぜか人気だから(右翼がコッチの味方をしているってのが箔付けになるのかな。靖国問題でのナベツネの利用のされ方みたいに)、ネトウヨからは嫌われ者だけど、小林よしのりだの櫻井よしこだの山本一郎についてはちょっとね…。昔の左翼でもそういう手合い結構いたらしいですけどね。
どういう方向の主義&思想で在れ、其れを個人の中に抱えている“だけ”ならば全くの自由。又、其の主義&思想を主張するのも、同様に自由なのだけれど、他者に無理強いしたり、他者の主義&主張を抹殺しようとするのは許されない。所謂「ネトウヨ」や「ネトサヨ」と称される人達に、そういう傾向が見られ勝ちなのは本当にウンザリしてしまうし、そういうスタンスが“開かれた賛同”を得られない事に気付くべきではないかと思うのです。
「自身と相容れない主義&主張をしている者が、もし自身と同じ様な無理強いや抹殺行為をしたならば、自分はどう感じるか?」、そういう第三者的な視野が、彼等には必要でしょうね。
学生運動も然り。末端、それもピークを過ぎた時代にいた人間には高揚感よりもただただ陰惨さの記憶だけが残っています。運動をしている者の中での暴力の応酬の陰惨さ、デモでの機動隊やどこからか集められたゴロツキからの激しい暴行。これは同世代でもあまり運動が激しくない大学に行った者や高卒後社会に出た者には完全に理解できないようで、私が当時感じた恐怖や傷に対し、「そんなデモに行くからだ」「お坊ちゃんの戦争ごっこ」と心無い言葉をかけられた事も多々ありました。
おそらく戦争世代の方に「侵略者」と言った少年期の自分とて、その方々にはその言葉が苦痛でしかなかったでしょう。
戦時中に育ち盛りの年頃だった父は、疎開先で食べる者が本当に無く、蛙やザリガニ、芋虫、挙句は蟻を取って食べていたという話を聞きました。ひもじくてひもじくて、眠れない夜も珍しくなかったとか。父もそうですが、父と同世代に早世する人が多いのは、少年期の栄養不足が大きく影響しているのは、先ず間違い無いでしょう。
戦争もそうですが、学生運動も実際に其処に身を置いた者ではないと、「現状」をきちんと把握するのは難しい事でしょう。否、実際に其処に身を置いた人達で在っても、「全ての現状」を知る事は出来ない。或る人にとっては「A」という側面しか見れなかったとしても、別の或る人にとっては「B」という側面が見えたかもしれない。「歴史は其れを伝える人によって、如何様にも変わってしまう。」という面が在りますけれど、同様なのでしょうね。
ただ、大抵の場合「まさかこの人が」よりは「あ、何だか腑に落ちた」と感じるんですよね。
そういう人って、モンスターペアレントの発想法だと思うのです。
「うちの子は悪くない。常に悪くない。100%悪くない」
「いつでもうちの子が脚光を浴び続けるのでなければならない。よその子が褒められることなどあってはならない」
「うちの子に味方しない者はこれ全て敵である。私はその敵を絶対に許さない」
贔屓チームの選手をずっと大絶賛し続けていたのに、その選手がFAやポスティング(つまり自分の意志での移籍)を決めた途端、史上最低の人間性劣悪な裏切り者であるかのように言い立て、激怒する。
何でここまでと思っていたら、別の時に「ネトウヨ」そのままの言辞を目にし、ああそうかと思ったものでした。この人は「相対的に見る」ということができないんだ、と。
「普段より感じていた事を、其の儘表現して下さった。」、そんな感じがする青空百景様の書き込みでした。「自分が贔屓している対象がしたならば全く問題は無いが、其れ以外の対象、特に好ましく思っていない対象が全く同じ事をしたならば、絶対に許さない。」という思考が露骨に見えてしまう人が、特定のプロ野球チームや政党支持者には結構見受けられますが、そういう人達は「ネトウヨ」や「ネトサヨ」と同じ穴の貉で在るケースが非常に高いと感じています。そういった矛盾点を然り気無く指摘するとすっ呆けたり、答えずに論点を逸らすというのも似ている。
誤りを、誤りとして認められない。少しでも誤りを認めてしまうと、自分の存在感を全否定されたとでも思うのか、稚拙な誤魔化しに終始するというのは、余りに情けない事。本当に困った物です。