太平洋戦争に敗れてから3年経った1948年。其の年の1月12日の夜中、東京都新宿区の弁天町をパトロールしていた警官2人が、蜜柑箱を運ぶ葬儀屋に不審さを感じ、事情聴取を試みた所、其の箱の中に4体の嬰児の死体を確認。3日後の15日、新宿区柳町で「寿産院」を経営する主犯の石川ミユキ(当時51歳)と夫の猛(当時55歳)が殺人容疑で逮捕された。「寿産院事件」と呼ばれる事になる、嬰児の大量殺人事件が発覚したのだ。
戦争の傷跡が残る当時、日本ではベビー・ブームの最中で、寿産院にも大勢の嬰児が居た。石川夫婦が「嬰児を貰い受ける。」と新聞広告等呼び掛けた為で、200人以上の嬰児が集められたと言う。親から1人当たり4千円から5千円の養育費を、そして東京都からは補助金と配給品を受け取り乍ら、配給品を闇市に横流しする等して、嬰児達には満足に食事を与えていなかった。又、嬰児に対する虐待が常態化しており、凍死、餓死、窒息死等、様々な死因で亡くなっていて、其の総数は正確に判明していないが、85人から169人の間とされている。蜜柑箱に入れられていたのは、そんな被害者の内の4人だったのだ。
石川ミユキは東大医学部産婆講習科を経て産婆となり、牛込産婆会の会長を務めていた他、新宿区議会の議員選挙に出馬(結果は落選)という経歴を、又、猛は憲兵軍曹から警視庁巡査も務めたという経歴を有しており、共に“地元の名士”と言って良い存在だった様だ。
蜜柑箱を運んでいた葬儀屋は釈放されたが、石川夫婦と助手の3人は起訴され、診断書を偽装していた医師の中山四郎も、同様に起訴された。東京地方裁判所は、「殺人罪に付いては証拠不充分の為、無罪。」とした上で、ミユキに懲役8年、猛に懲役4年、助手は無罪、中山には禁固4年の判決を言い渡した。判決に不服だった事で控訴されるも、1952年4月に東京高等裁判所が言い渡した判決は、「ミユキに懲役4年、猛には懲役2年。」。