20日付けの東京新聞(夕刊)に「日本の貧困率15.7%」という記事が載っていた。「全国民の中で生活に苦しむ人の割合を示す『相対的貧困率』」を厚生労働省が初めて発表したが、それによると2007年時点では15.7%と、6.4人に1人が貧困状態という結果に。
政府は1960年代前半迄「消費水準が生活保護受給世帯の平均額を下回る層を『低消費水準世帯』と位置付け、その増減等を調査していた。」が、それ以降は貧困に関する調査は行われていなかったと言う。我が国が高度経済成長期に入ったのは1955年とされるが、その翌年の経済白書には「もはや戦後ではない。」という言葉が使われ、流行語にもなった。それから10年近く経った1960年代前半、「我が国に貧困なんぞ存在し得ない。」という事で貧困に関する調査は行われなくなったいう事なのだろうか?
格差社会の到来が言われて久しいが、その現状がなかなか数値として把握し辛い所が在った。政権交代を受けて厚生労働大臣に就任した長妻昭氏が、「経済協力開発機構(OECD)が採用している相対的貧困率方式での計算」を事務方に命じていたが、厚生労働省で3年毎に実施している国民生活基礎調査のデータを使用し、過去に遡って今回の結果は算出されたとか。
全体の貧困率は1998年が14.6%、2001年が15.3%、2004年が14.9%、そして2007年が15.7%と推移。この数値だけを見ると、10年以上前から15%前後の貧困層が存在していたという事になる。(「一億総中流時代の終焉」が言われ始めたのは、1998年頃だったと記憶しているけれど。)2004年から2007年にかけて貧困率は0.8%高まってはいるが、紙面で書かれている様に「急上昇」という感じでは無い気も。とは言え、この数字が決して低くないのも確かだろう。又、17歳以下の子供の貧困率に関しては、1998年が13.4%、2001年が14.5%、2004年が13.7%、そして2007年が14.2%とか。
こちらに書かれている様に、「貧困率」は「絶対的貧困率」と今回の「相対的貧困率」とに大別されるとか。「絶対的貧困率の場合は相対的貧困率よりも実状を反映し易いという特徴が在る反面、『生活して行ける水準』をどの様に設定するかによって様々な基準が存在し得、設定者の主観が入り易い。」、そして「相対的貧困率の場合は数学的な指標なので主観が入り難い反面、絶対的貧困率と異なり国によって『貧困』のレベルが大きく異ってしまう。」という性格の違いを有する。どちらの指標も一長一短在る訳だ。
当ブログでこれ迄にも何度か書いて来た事だけれど、「資本主義社会で在る以上、経済格差が生じるのは当然の事で、自堕落な生き方を望んでしている者を社会で救済する必要は無い。」と思っている。唯、必死で働いている者が貧困に喘いるという状況は、社会で改善を取り組んで行って貰いたいとも。自身に見える部分(表層的な部分)だけを取り上げて「世の中に貧困なんぞ存在しない。」と、救われなければならない人迄をも面白おかしくバッシングする事に、何の意味合いをも感じ得ない。
政府は1960年代前半迄「消費水準が生活保護受給世帯の平均額を下回る層を『低消費水準世帯』と位置付け、その増減等を調査していた。」が、それ以降は貧困に関する調査は行われていなかったと言う。我が国が高度経済成長期に入ったのは1955年とされるが、その翌年の経済白書には「もはや戦後ではない。」という言葉が使われ、流行語にもなった。それから10年近く経った1960年代前半、「我が国に貧困なんぞ存在し得ない。」という事で貧困に関する調査は行われなくなったいう事なのだろうか?
格差社会の到来が言われて久しいが、その現状がなかなか数値として把握し辛い所が在った。政権交代を受けて厚生労働大臣に就任した長妻昭氏が、「経済協力開発機構(OECD)が採用している相対的貧困率方式での計算」を事務方に命じていたが、厚生労働省で3年毎に実施している国民生活基礎調査のデータを使用し、過去に遡って今回の結果は算出されたとか。
全体の貧困率は1998年が14.6%、2001年が15.3%、2004年が14.9%、そして2007年が15.7%と推移。この数値だけを見ると、10年以上前から15%前後の貧困層が存在していたという事になる。(「一億総中流時代の終焉」が言われ始めたのは、1998年頃だったと記憶しているけれど。)2004年から2007年にかけて貧困率は0.8%高まってはいるが、紙面で書かれている様に「急上昇」という感じでは無い気も。とは言え、この数字が決して低くないのも確かだろう。又、17歳以下の子供の貧困率に関しては、1998年が13.4%、2001年が14.5%、2004年が13.7%、そして2007年が14.2%とか。
こちらに書かれている様に、「貧困率」は「絶対的貧困率」と今回の「相対的貧困率」とに大別されるとか。「絶対的貧困率の場合は相対的貧困率よりも実状を反映し易いという特徴が在る反面、『生活して行ける水準』をどの様に設定するかによって様々な基準が存在し得、設定者の主観が入り易い。」、そして「相対的貧困率の場合は数学的な指標なので主観が入り難い反面、絶対的貧困率と異なり国によって『貧困』のレベルが大きく異ってしまう。」という性格の違いを有する。どちらの指標も一長一短在る訳だ。
当ブログでこれ迄にも何度か書いて来た事だけれど、「資本主義社会で在る以上、経済格差が生じるのは当然の事で、自堕落な生き方を望んでしている者を社会で救済する必要は無い。」と思っている。唯、必死で働いている者が貧困に喘いるという状況は、社会で改善を取り組んで行って貰いたいとも。自身に見える部分(表層的な部分)だけを取り上げて「世の中に貧困なんぞ存在しない。」と、救われなければならない人迄をも面白おかしくバッシングする事に、何の意味合いをも感じ得ない。
バブル前と後って、大きく変化しましたよね。
ちょうどそのころ、関西大震災があったんですよね。
あの時代は「泣きっ面に鉢」でした。
「アメリカの乞食は自動車持ってるんやて」
「ほんまかいな」
「テレビかて持ってるらしいで」
「そんなん持ってても乞食なんか?」
「日本の乞食とえらい違うな」
それが事実だったかどうかは分かりません。でも、考えてみれば今の日本では低所得層、いわゆる貧乏人でも車を持ち、カラーテレビを持ち、と一見豊かなモノに囲まれていても、その実態は決して豊かな生活をしているわけではないですね。
昭和30年代から40年代初めにかけての我が国の光景って、少し前の中国のそれと同じだった様な感じがします。彼の国では半端じゃない金持ちが居る一方で、極貧生活に喘いでいる人々も少なくない。と言って、農村地帯では政府の政策も在って、自家用車を持つ人が増えて来ているとも。
記事でも書いたのですが、資本主義社会に居る以上は格差が存在する事自体は仕方ないと思っています。否、共産主義社会は資本主義社会以上に経済格差が著しいという話も在りますし、人間に「欲望」が在る以上は格差が生じないのは不可能と言えるかもしれません。「能力を有した者が高い対価を得、努力を怠っている者は低い対価しか得られない。」、これも全く否定はしない。でも、必死で頑張っている者が困窮に喘ぐ一方で、端末を叩いて金を右から左に動かしている“だけ”で莫大な利益を得ている者が居るというのは、どうしても健全な社会には思えない。過ぎたアンバランスさは地道に勤労する意識を減じさせ、結局は社会全体を収縮化させる一方ではないかと。
「組織に在っては、個人の存在なんぞ単なる1パーツに過ぎない。」とは言い古された表現ですが、そのパーツにも「利用される側」と「利用する側」という色分けが昔から存在していた。その色分けの格差が、以前よりも大きく開いて来たとも言えるのでしょうね。
又、「極めてシンプルな見方しか認めない風潮」が広まって来たのも、格差社会の推進に大きく影響したのではないかとも。「格好良い仕事orみっともない仕事」、「楽な仕事orきつい仕事」といった単純明瞭な見方しか認めない様な風潮。世の中なんて様々な価値観が存在し得る筈なのに、それを許さない風潮が台頭して来たというのは、為政者乃至は組織のトップにとって、それらしい大義名分を持ち出せば、地震に都合の良い形でコントロールし易い環境に為り得るのではないでしょうか。
>必死で働いている者が貧困に喘いるという状況は、社会で改善を取り組んで行って貰いたい。
全くそのとおりですわ。
今回の「相対的貧困率」が絶対的な指標という訳では無いけれど(「有している資産は考慮されない。」という事ですし。)、少なくとも貧困に喘いでいる人達が一定数居るというのは確かで、又、仰る様にこの層に入らなかったからと言って、残りの全てが裕福という訳でも無い。能力を有した者がその能力に見合った高給を得るのは全く悪い事では無いけれど、それが中間搾取的な物で在ったり、又、必死で働いている者が普通の生活すらも送れないという現実が在るならば、日本全体を考えた時それは決して良い方向には向かわないと思います。
「日本に貧困など存在しない。」
とおっしゃるのも、ある面では正しいと思います。
その方がなんと、僕の勤める会社の社外取締役に就任しました。
これでは、昇給も賞与アップも見込めませんな。