「乗客が誰も知らないバスの中、オナラをしても迷惑がられるだけだが、其の乗客が全員友達なら笑いに変わる。」
東京新聞(6月22日付け朝刊)のコラム欄「言いたい放談」で、放送作家の水野宗徳氏が紹介していた言葉だ。緊張克服に役立つ考え方として、御笑いタレントの千原ジュニア氏が掲げる「バスの屁理論」とか。「オナラ(失敗)をしても笑って許してくれる仲間を作る事が、思い切ったプレーに繋がる。」という解釈を、水野氏はされている様だ。「一般的な話」では無く、飽く迄も「御笑いタレントとしての心構え」という観点で考えた時、千原ジュニア氏の「バスの屁理論」を皆様はどう解釈されるだろうか?
千原ジュニア氏のファンの方達には申し訳無いのだが、自分は彼の笑いというのが好きでは無い。「好きでは無い。」と書くのは正確さを欠き、「面白さが理解し難い。」というのが正確な所。“欽ちゃん”の様に「全く面白くない。」と迄は思わないし、時にはニヤッと笑ってしまう発言も在ったりするが、総合的に言えば「面白さが理解し難い。」のだ。「何故、面白さが理解し難いのか?」というのを考えると、其の答えが「バスの屁理論」なる考え方の中に見出せる様な気がする。
「バスの屁理論」を「誰も知らない環境下でも、御笑いタレントが『芸』によって『場の空気』を温めて行き、全員を『一体化』させた所で仮に『失敗』したとしても、其の『失敗』が寧ろ『笑い』に転化出来る。」と解釈出来なくも無い。非常に“好意的”で且つ“苦しい”解釈とは思うが、「腕の在る御笑いタレント」ならば、そういった事も出来よう。
上記したのが“好意的な解釈”とするならば、自分場合は“悪意的な解釈”とは言わない迄も、“斜めから見た解釈”とされてしまうかもしれない。「誰も知らない環境下で笑わすのは非常に難しい。けれど、良く知った連中が揃った中では、些細な事でも笑って貰える。」というのが、自分の解釈だから。
5年前の記事「軍団やらファミリーやら」という記事で指摘したが、御笑い大好き人間の自分が所謂「御笑い番組」に幻滅を感じる様になったのは、「身内ネタが多くなった。」(とんねるずが出始めた頃より、此の傾向は強くなった気がする。)事や「笑わせるのでは無く、笑われるだけの御笑いタレントが増えて来た。」事が原因で、そういった“素人の乗り”を許してしまう様になったのは、「軍団」やら「ファミリー」やらといった“御友達”で周りをバッチリ固めた番組作りが増えた事に起因している様に思うのだ。
ピンで遣っていた頃は未だ面白味が判ったタモリ氏も、今じゃあ本当に面白く無い。特にファミリーに囲まれた番組では、ワンパターンで全く面白くない事を口にしても、「もうタモさんったらあ、面白いんだから~!」とか「流石タモさん、超面白い!」等と御追従笑いし乍ら褒め称えるファミリーの姿にはウンザリさせられる。千原ジュニア氏の場合も親しい後輩やら先輩、即ちファミリーで固めているケースが多く、タモリ氏と似た様なシーンを見掛けては、「何だかなあ・・・。」と思う自分。
でも、子供のころからの落語ファンで、高校生の頃から桂米朝師匠のファンで、落語会に行きレコードを集めていました。また6代目笑福亭松鶴師匠も大好きで、ご存命中は何度か生で拝見しました。いまも落語好きで、テレビでこまめに観て、時々落語会に行きます。
思うのですが、いわゆる「お笑いタレント」は芸はないが「笑われる」だけ。修業を積んだ落語家は「笑わせる」芸を持っているということではないでしょうか。
Giants-55さんの記事をきっかけに、千原ジュニアをググってみたら、結構、犯罪と紙一重の発言が多くてびっくりしました。
まぁこの頃は芸人の番組も変化していて。
ほとんど派閥というか、とりまきで作られたものが多いですね。
最近、いちばん見ていられなかったのはダウンタウン×ナイナイの「アカン警察SP」かな。
ワタシのブログでバラエティものを取り上げることが、今後減ると思う。
どんな芸人にも、自分にとって都合のいい、持ち上げてくれるとりまきは必要だけど、この頃は露骨ですもんね。
ホリエモンこと堀江貴文氏が週刊朝日にコラムを連載していますが、其の主張に「同感だなあ。」と思う事は在ったりする。既得権益を死守せんが為に跋扈する連中への批判なんぞは特にそうなのだけれど、どうしても彼にシンパシーを感じ得ないのは、旧態依然とした連中を全て「悪」とする事で、彼自身に問題が在る様な事迄も正当化、乃至は矮小化する様な姿勢。どう考えても不当な事をも、面白おかしく茶化して誤魔化す様なスタンスはどうしても認められないし、又、其れを矢張り面白おかしく正当化しようとする“シンパ”にも違和感を覚える。
先日、他の方が「ネット上で特に顕著なのだけれど、世界の破滅を期待する様な主張を繰り広げる人達に懸念を覚える。」といった書き込みをして下さったのですが、「面白ければ何でも良い。」的なホリエモンのシンパ(全員が全員そういう訳では無いけれど。)には怖さを感じてしまう。
御笑いの世界も同様で、「面白ければ何でも在り。」的な姿勢はどうかと思う。御笑いに抑「露悪的な部分」を否定はしないけれど、「露悪的な部分だけ」だったら、其れは御笑いでも何でも無い。ファミリーで周りをバッチリと固め、そういった事すらも「此れは笑いなのだ!」とする様な遣り方は、御笑い自体を駄目にして行くだけだと思っています。
ビートたけしは好きな「芸人」(「御笑いタレント」というと、個人的には「芸の無い連中」も含んだ意味合いを感じているので、「御笑いタレント」と「芸人」という用語を自分は使い分けています。)だけれど、近年は「芸人としての技量が落ちたなあ。」と残念乍ら感じてしまう。明らかに「外した笑い」すらも、スタジオ内のゲストが無理笑いしているのを見ると、「何だかなあ。」と感じてしまうし。