「三宅久之v.s.堀江貴文」や「無責任」等、“ホリエモン”こと堀江貴文氏に関する記事を、過去に何度か書いて来た。彼の言動には興味を惹かれる部分も無くは無いけれど、其の多くには疑問を感じる事が多く、少なくとも「友達」になりたいという部類の人間では無い。
現在収監中の彼は、週刊朝日誌上で連載中のコラム「ホリエモンの『獄中記』」を始めとし、メディアを通して様々な“情報”を発信している。興味深い内容が結構在り、ついつい読んでしまうのだが、其の根底に「嫌な事や面倒な事は、一切しなくて良いじゃん。」、「効率の良さだけを考えれば良いじゃん。」といった考えが支配している様な“ホリエモン的思考”には、正直抵抗を覚えてしまう。
手元に当該誌が無いので、記憶に頼って記すが、「虐め」に付いて書いた記事では「虐めを根絶するのは無理。だったら虐めを無くそうと努力するのでは無く、新しいライフスタイルを作り出せば良い。」と主張していた。「発想の転換」という意味では面白いと思ったが、其の内容には疑問が。
「先ず義務教育を、根本から設計し直す必要が在る。学校の様な狭いコミュニティの中にずっと閉じ込められるのが、虐めから逃げられない原因となっている。集団生活なんて学ばなくても人は生きていけるし、協調性と言ったって、気の合わない奴と合わせ様としてもストレスの元になるだけで在る。」とし、「学校に通う必要なんか無い。」と主張するホリエモン。「学校でしか学べない事も在る筈。」という反対意見に対しては、「義務教育はネットもスマホも無い時代に、知識を学ぶ為に仕方無く作られた仕組み。」と反論していた。
「社会に出たって、人と直接触れないで済む仕事は在る。」という事なのだろうが、こういう思考ってどうなのだろうか?「手書きするのは面倒だし、時間も掛かる。文章は全て、端末で“書き上げる”様にすれば良い。」といった趣旨の主張も目にしたが、「嫌な事や面倒な事は、一切しなくて良いじゃん。」、「効率の良さだけを考えれば良いじゃん。」という思考が最優先というか、絶対視されている様に感じる。
ホリエモン的思考が世の中で一般的になったとしたら、果たして其れは住み易い世の中なのだろうか?唯々無機的で、潤いを感じ得ない世の中の様な気がするのだけれど・・・。
自分もそうですが、金銭的に恵まれていない状況に在ると、大なり小なり「金持ち」に対する僻みというのを有してしまい、其れが故に「努力もしないで金を稼ぎやがって!」という思いが湧いてしまう面は在りますね。「右から左に金を動かすだけで、莫大な金を得る。」というスタイルにシンパシーは全く感じ得ないし、そういうスタイルは全く好きじゃないけれど、でも傍目から見ると「安直に金儲けをしている。」と思われるケースでも、内実は心身共にとてもしんどい思いをしていたり、見えない努力をしているケースも在るのかもしれない。
一寸した判断ミスで、全てを失ってしまう事も在る。御入力で莫大な損をさせてしまった証券関係者のニュース(逆に、其れで大儲けをした人も居る訳ですが。)を見聞した際、「此の人は今後の人生で、思い荷を背負って行く事になるのだろうなあ。」と同情する面も在りました。仮令対価は良くても、こういうしんどいビジネスは、自分には務まりません。
「汗水垂らさず、安直に金儲けするのは・・・。」という思いは、正直自分にも在ります。でも「汗水垂らさず」という部分だけで言えば、確かに棋士等も当該はしますね。又、「汗水たらさず」という考え自体も、或る意味「根性論」に繋がるとも言える。
唯、個人的にはどうしても「安直さ」というのが引っ掛かる点では在りますね。右から左に金銭を動かすだけで利益を得ている人達も、我々には見えない「安直で無い部分」が在るのかもしれないけれど・・・。
確かにフジTV買収当時のホリエモンは好きになれないタイプだったけど唯一ホリエモンを応援した時が有ります
それは知識人達の「金は・・・」を耳にする度に「棋士や囲碁を打つ人も額に汗をかかずに金だけで無く名誉も手に入れてるだろ」とテレビ画面にツッコミを入れてました
棋士や囲碁を打つ人達てよく考えたらゲーセンで格ゲーやシューティングゲームをプレイしてる人と同じだからゲーマーでは?
将棋や囲碁てゲームですよね
羽生ゲーマーに「何が羽生名人だ!いい大人が毎日ゲームなんかやってて恥ずかしくないのか!」とツッコミたいですf(^^;
ホリエモンと橋下市長って、似ている部分が多い様に感じます。効率性という物を最優先させ、情緒的な物を切り捨てて行く。又、物議を醸す様な極端な主張を好んでするのも、似ていますよね。唯、両者共に“計算尽く”で極端な主張をしている節も在る。自身の主張で世論を喚起し、自分の存在感をアピール。そして“風向き”を見て、自分に利が在ると見ると主張を押し通し、利が無いと見るや主張を変える。期を見るに敏と言えます。