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南方の前線、トラック島で句会を開催し続けた金子兜太(俳人)。輸送船が撃沈され、足にしがみついて来た兵隊を蹴り落とした大塚初重(考古学者)。徴兵忌避の大罪を犯し、中国の最前線に送られた三國連太郎(俳優)。ニューブリテン島で敵機の爆撃を受けて左腕を失った水木しげる(漫画家)。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻を生き延びた池田武邦(建築家)。戦争の記憶は、彼等の中に、どの様な形で存在し、その後の人生にどう影響を与えて来たのか?
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我が国が敗戦を迎えた昭和20年、兵士として戦地に在った5人の若者達。過酷な戦いを潜り抜け、後に各界で功成り名遂げた彼等は大正8年~15年の間に生まれている。詰り「『昭和』という時代を丸々生き抜いて来た人達」と言える。「そんな彼等が戦地で何を見聞きし、そしてそれ等が彼等のその後の人生にどう影響を与えたか?」に付いて、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」の著者・梯久美子さんが彼等に実際に会って取材&纏めたノンフィクションが「昭和二十年夏、僕は兵士だった」だ。
*********************************【金子兜太氏の項】
・ あんたは男色の話を聞いて驚いていたが、爆撃が激しくなって、島にいる慰安婦がみんな内地に帰ってしまったら、恐るべき勢いで男色が広まった。若い男の取り合いでケンカが絶えなかった。わたしはそれを見ていて、そうか、人間というものは、こういうものなんだと思った。
・ 戦争でこの貧しさがなんとかなるんじゃないか、少しは救われるんじゃないかと、一縷の望みをかけていたんだな。それほど貧乏がつらかったということです。トラック島の、わたしの部下たちも似たようなものだったと思う。内地にいられなくなって逃げてきた者も、南洋ならもうちょっと稼げるんじゃないかと思って来た者も、心のどこかで戦争を頼みにして、南へ行けばなんとかなるんじゃないかという、かれらなりの希望みたいなものを持って来たんじゃないか。大義とか何とか、そんなものはないんだ。
・ 「かつて埋葬した地面を掘り返すと、椰子の木の根が、遺骨にからみついているんです。椰子は死者の血を吸って成長し、かれらはこの島の木や土になってしまった。それを目の当たりにすると、そっとしておいてやりたいという気持ちになります。骨には根が複雑にからんでいますから、全部は掘り出せない。そうすると、頭蓋骨や大腿骨などの大きな骨だけを掘り出すことになります。残りはそのまま土の中で、掘り出した骨は、焼いて灰にして日本に持って帰る。ひとつの身体をばらばらにしてしまうわけで、それはなんとも忍びないものがありましてね。だからわたしは、少なくともあの島に関しては、遺骨収集に反対なんです。」
【大塚初重氏の項】
・ すると、わたしの足に、他の誰かがすがりついてきたんです。二人だったか、三人だったか。その重さで、ずるずると下に落ちていきそうになります。そのまま落ちれば、下は燃えさかる船底です。わたしはどうしたか。しがみついてくる者を、蹴り落とし、振りほどきました。必死でした。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説がありますが、まさにあれと同じです。(中略)わたしが蹴り落とした兵隊は、おそらく死んだはずです。そう、わたしは人を殺したんです。(中略)よじのぼった甲板で、大塚氏は何人かの戦友を助けている。命がけの行為である。理性を働かせる余裕のあるときは、人は、理性に従って行動することができる。しかし、とっさの場合には、生きる方へと反射的に身体が動く。それは仕方のないことだろう。しかし、自分が助かるために他人を蹴落としたという思いは、大塚氏の中から消えることはなかった。
・ 10人くらいが4斗樽につかまって流れてきました。そんな数の人間がつかまるには四斗樽は小さくて、みんな片手でつかまっている状態です。そこに若い兵隊が「お願いしまーす。」と言いながら泳いできた。疲れきっているのがわかりました。すると将校らしき人が「だめだ、いっぱいいっぱいだ。」と怒鳴るんです。若い兵隊は素直に「ハイ。」と言って、そのままブクブクと沈んでいきました。ああ、軍隊っていうのはこういうところなんだとわたしは思いました。そんな極限の状態でも、上官の言うことは絶対なんです。
【池田武邦氏の項】
・ 軍部が勝手に戦争を始めたという人たちがいます。戦争指導者たちがすべて悪いんだと。本当にそうでしょうか。戦前といえども、国民の支持がなければ戦争はできません。開戦前の雰囲気を、僕は憶えています。世を挙げて、戦争をやるべきだと盛り上がっていた。ごく普通の人たちが、アメリカをやっつけろと言っていたんです。真珠湾攻撃のときは、まさに拍手喝采でした。なぜ無謀な戦争を避けられなかったのか。その理由は、日本人一人一人の中にあるはずです。辛くてもそれと向き合わないと、また同じことを繰り返すに違いありません。
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マスメディアの報道に関し、“自身に不都合な事柄に関して”は「『マス“ゴ”ミ』は好い加減で、全く信用が置けない。」等と声高に叫ぶ人が居るが、そういう姿勢、個人的には非常に怖く感じる。自身に好都合な事柄だけを信じ、不都合な事柄に関しては十把一絡げで「マス“ゴ”ミの捏造!」と断じる人の数が増えて行けば、マスメディアは“耳に優しい事柄”しか報じられない環境になって行くだろう。その状況に疑問を持つ人が出て来ても、その環境下では力づくで彼等の声は黙殺される。世の中には様々な考えが在って然る可きなのに、一方向だけの思考が唯一無二とされてしまうのは非常に危険な事。
近・現代史に興味が在るというのも然る事乍ら、この本は“キョンキョン”こと小泉今日子さんが書評で絶賛されていたという事で手に取った次第。
頭の中で「元兵士の方達は“皆”、異国の地に取り残された戦友達の遺骨を祖国に持ち帰って欲しいと願っている。」という思い込みが在ったのですが、中にはそうではない方も居られるという事実に驚きが。でも、その理由を拝読して、「そういう考え方も在るのだなあ。」と理解出来ました。こういうのは実際に体験された方では無いと、なかなか判らない部分かもしれません。
不快に思われる方も多いかもしれないがあえて触れると、
米軍の'(この人はゲイあるいはレズビアンか?と思ってもDon't tell Don't ask'という対策は批難されることもあるのだが、例えば「刑務所における男色」「プロレス・格闘技界とゲイ」「北米の女子スポーツとレズビアン」(この辺はカミングアウトしやすいからで、男子のチームスポーツの場合はカミングアウトしづらいから実際の数は分からない)という事象や昔からのことを考えても「どう考えても多い」ことは間違いないし、「そこには触れたくない」「触れてほしくない」という体制側の考えは理解できる。前線に近いエリアでは平時にはストレートの者もその感覚を失う可能性があるかもしれない。なんていうかうまく言えないけど、生への強い欲求と食欲・性欲は表裏一体だと思うので・・・。ゆえに他者、例えば一般民に対して強奪が繰り返されたりしてしまうし、軍内部でも同様のことが起きるのだと思います。
大塚氏
同じようなことは満員電車の中や祭りの群集で起きているような気がする。東京圏の人なら夜の帰りの電車で隣の酔っ払いに肘鉄されたとかそういう経験ある人いるはずだ。
平時でも起こるのだから・・・戦争の最前線では・・・
半藤さんも東京大空襲のときの隅田川での体験を告白されていますしね。
池田さんの項
今、ネット上ではそういうの多いですね。
単に反民主のみならず、民主側の人でもそういう人がいる。
オリンピックを見れば分かるがあれを戦争のように捉える人がいる。石原慎太郎なんか好例だと思うし、プーチンやブッシュもそうだろう。
昔、大学でベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典美の祭典」見たのですが、当時の人気競技がエリート軍人が多数出る馬術や十種競技だったことに驚いた記憶がある。これはナチオリンピックだったからというより、当時の列強国なら普通だったのだと思います。
当時人気のあったポロなんかも貴族・王族(当時ならほぼ確実に軍人でもある)を見る競技であったから、当時人気があって、戦後には社会の変化と共に上流階級だけのものとみなされるようになった(これは馬術もそうだな)、というのも同様。
自分に火の粉がかからなかった昭和17年以前の日本ではまるで今、オリンピックやサッカーを見る感覚で戦線からのニュースを聞いていたとしても別に不思議ではなかったと思います。
興味深い本、紹介ありがとうございました。
世の中には自身の考えだけが唯一無二的に正しいと、他の主張を一顧だにしない人が少なからず居たりします。それは仰る様に、右翼だ左翼だ、親自民だ親民主だといった区分け無しに。実際に経験した事も無い人間が、経験者の証言を「自身の主義&主張に都合だから。」という理由で(としか思えないのですが。)「そんな事は在り得ない。」と否定する。具体的な証拠を挙げての反論ならば理解出来るのですが、そうで無い場合は全く理解出来ない。
又、実際に体験した方が「それはおかしい。」と反論する場合でも、「確かにその人が居た場所ではそういった事が無かったにしても、他の場所でも同様に全く無かったとは100%言えない。」という観点が抜け落ちている様に感じます。特に「戦争」という一般常識が通じない異常な空間では、どういった事態が起こってもおかしくないし、例えば“通常世界では”許されない出来事で在っても、同じ事を戦時中に為したからと言ってそれを必ずしも痛罵出来ないという面も在ると思うし。
自身が生き残る為に戦友を蹴落として死なせてしまったというのも、“平時では”許されない行動かもしれないけれど、“極限の状態”に在っては少なくとも自分は非難出来ない。自分が同じ状況に在ったならば、やはり同様の事をしていたと思うし。
自身の主義&主張に相容れない現実が在ったとしても、それをきちんと含めて総合判断しないと、同じ過ちを繰り返す可能性は出て来る。それを再認識させられる“証言集”でした。