この年に開催された第3回先進国首脳会議(サミット)の顔触れを挙げると、「ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領(フランス)、ジミー・カーター大統領(アメリカ)、ジェームズ・キャラハン首相(イギリス)、ヘルムート・シュミット首相(西ドイツ)、ジュリオ・アンドレオッティ首相(イタリア)、ピエール・トルドー首相(カナダ)、そして我が国は福田康夫氏の実父・福田赳夫首相」が出席している。ロシアの前身で在るソ連は当然ながら出席対象では無かった時代だ。ダッカ日航機ハイジャック事件が発生し、アップルコンピュータが設立され、日本プロ野球界では王貞治選手がホームラン世界新記録(当時)の756号を放ち、第22回有馬記念ではトウショウボーイにテンポイント、グリーングラスという3強馬、所謂”TTG”が出走し、テンポイントが優勝を決めた年。街中では沢田研二氏の「勝手にしやがれ」やピンク・レディーの「渚のシンドバッド」、キャンディーズの「暑中お見舞い申し上げます」、ビューティ・ペアの「かけめぐる青春」等が流れていた年。今から30年前の1977年の事で在る。そしてこの年の9月27日、横浜に於いて惨事が起きてしまった、横浜米軍機墜落事故で在る。
1977年9月27日、厚木基地から飛び立ったアメリカ海軍の戦闘機が離陸直後にエンジントラブルを起こし、乗員2名全員はパラシュートにて緊急脱出して無事だったものの、機体はそれから凡そ5km離れた横浜市緑区(現青葉区)荏田町の住宅地に墜落。その際に発生した火災によって周辺住民9名が死傷する惨事となった。
この9名の中に2人の幼い兄弟が居た。長男の土志田裕一郎君(3歳)と次男の康弘君(1歳)だ。全身を包帯で包まれた裕一郎君は「痛いよ・・・熱いよう。」ともがき苦しみ、「御水頂戴・・・ジュース頂戴。」とうわ言の様に繰り返したという。そんな孫に「今は上げられないんだよ・・・御水飲むと、もっと苦しくなるのよ。」と言わなければならかった祖母は、如何に辛かった事か想像するに余り在る。事故発生から約11時間後、収容先の病院で「パパ・・・ママ・・・バイバイ・・・。」の言葉を最後に、裕一郎君は息を引き取った。そして、ようやく片言で話せる年頃になっていた康弘君は兄が息を引き取った約4時間後に、「ポッ・・・ポッ・・・ポ・・・。」と鳩ぽっぽの歌を口ずさみながら永遠の眠りに就いた。
彼等の母親で在る土志田和枝さんも全身に約8割の大火傷を負い、病院に収容されていた。当初は精神的なショックを与えない様にとの配慮から、息子達の死は彼女に伏せられており、彼女が2人の死を知らされたのは事故発生から1年4ヶ月後の事だったという。
「私の胸の中へ抱いてやりたいと思っていたのに、その夢も破られてしまった。」
愛する息子達の死を知らされて以降、皮膚移植等の闘病生活を送る中で、彼女が綴っていた日記の一文。どれ程の苦しみを感じていたか、痛い程伝わって来る。皮膚移植手術を繰り返す長期入退院の末、事故発生から約4年4ヵ月後の1982年1月26日、彼女は心因性の呼吸困難により息子達の待つ天国へと旅立って行った。享年31歳。*1
「この様な事故が起こってしまったのは、誰某の責任だ!」といった責任の所在を此処で論じ様とは思わない。唯、こんな悲惨な事故が30年前に起こっていた事を、多くの人に知って(思い出して)欲しい。
*1 「パパママバイバイ」(著者:早乙女勝元氏)及び「『あふれる愛』を継いで 米軍ジェット機が娘と孫を奪った」(著者:土志田勇氏)より一部引用。
1977年9月27日、厚木基地から飛び立ったアメリカ海軍の戦闘機が離陸直後にエンジントラブルを起こし、乗員2名全員はパラシュートにて緊急脱出して無事だったものの、機体はそれから凡そ5km離れた横浜市緑区(現青葉区)荏田町の住宅地に墜落。その際に発生した火災によって周辺住民9名が死傷する惨事となった。
この9名の中に2人の幼い兄弟が居た。長男の土志田裕一郎君(3歳)と次男の康弘君(1歳)だ。全身を包帯で包まれた裕一郎君は「痛いよ・・・熱いよう。」ともがき苦しみ、「御水頂戴・・・ジュース頂戴。」とうわ言の様に繰り返したという。そんな孫に「今は上げられないんだよ・・・御水飲むと、もっと苦しくなるのよ。」と言わなければならかった祖母は、如何に辛かった事か想像するに余り在る。事故発生から約11時間後、収容先の病院で「パパ・・・ママ・・・バイバイ・・・。」の言葉を最後に、裕一郎君は息を引き取った。そして、ようやく片言で話せる年頃になっていた康弘君は兄が息を引き取った約4時間後に、「ポッ・・・ポッ・・・ポ・・・。」と鳩ぽっぽの歌を口ずさみながら永遠の眠りに就いた。
彼等の母親で在る土志田和枝さんも全身に約8割の大火傷を負い、病院に収容されていた。当初は精神的なショックを与えない様にとの配慮から、息子達の死は彼女に伏せられており、彼女が2人の死を知らされたのは事故発生から1年4ヶ月後の事だったという。
「私の胸の中へ抱いてやりたいと思っていたのに、その夢も破られてしまった。」
愛する息子達の死を知らされて以降、皮膚移植等の闘病生活を送る中で、彼女が綴っていた日記の一文。どれ程の苦しみを感じていたか、痛い程伝わって来る。皮膚移植手術を繰り返す長期入退院の末、事故発生から約4年4ヵ月後の1982年1月26日、彼女は心因性の呼吸困難により息子達の待つ天国へと旅立って行った。享年31歳。*1
「この様な事故が起こってしまったのは、誰某の責任だ!」といった責任の所在を此処で論じ様とは思わない。唯、こんな悲惨な事故が30年前に起こっていた事を、多くの人に知って(思い出して)欲しい。
*1 「パパママバイバイ」(著者:早乙女勝元氏)及び「『あふれる愛』を継いで 米軍ジェット機が娘と孫を奪った」(著者:土志田勇氏)より一部引用。
その頃はただ「かわいそうだな」と思うだけでしたが、2児の父親になってこの話を思い出すと、また違った感想を持ちます。最近では風見しんご氏の娘さんの事故も、他人事は思えないほど心が痛いです。
人間は永遠の命を持っているわけではないですから、年齢がいって命を落とすことはある程度仕方のないことだと思います。でも、子供が命を落とすのは明らかに順番が違います。高齢化社会だからこそ、子供たちを保護する施策を設け、子供たちをないがしろにして欲しくないものです。
この記事は9月27日の直近になって書こうと思っていたのですが、先だって「日本はアメリカの州ではない!」にゆう様及びマヌケ様が書き込みして下さった事で、早く多くの方々に知って貰いたいという思いが強くなり記す事に致しました。
知り合いに当時この事故現場からそう遠くは無い学校に通っていた者が居り、事故に付いて話を聞いた事が在ります。授業中に物凄い爆発音がし、「一体何が起こったのだろうか?」と教室内が騒然としたそうです。窓から外を眺めると、遠くに黒煙がもくもくと立ち上っており、「何か判らないが、とんでもない事が起こったんだ。」と思ったとか。都内に住んでいた自分もこのニュースをTVの報道で知り、大きなショックを受けました。
「事故直後、海上自衛隊のヘリコプターは、アメリカ兵の救助を最優先に行い、土志田さん親子を搬送する救急車が現場に到着したのは一番最後だった。」、「アメリカ軍は、事故原因の証拠品で在るエンジン等を真っ先に自基地に持ち帰った。」等、色んな話が在りますが、もし事実ならば許し難い事だと思います。
題材にした合唱「ファントムより鳩を」も歌ったことがあります。
港を望む公園に和枝さん親子の像があったですよ。
その像を建てるにあたって説明のプレートとか一切許されなかったんですって。理由は・・アメリカへの配慮かな?
あと、「和枝のバラ」というバラも春になると咲くはずです。
横浜を訪れたら立ち寄ってこういう悲惨なできごとがあったと、知ってほしいと思います。華やかな観光スポットだけでなく。