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「『赤ちゃんポスト』新生児で無く・・・病院側はノーコメント」(毎日新聞[5月15日付])
熊本市の慈恵病院に国内で初めて設置された「赤ちゃんポスト」への預け入れ第1号は、対象としていた新生児では無かった。10日の開設初日に3歳とみられる児童が預けられていた事が15日判った病院には、早朝から報道陣が詰め掛けたが院側はノー・コメントを繰り返した。
病院はこの日も通常通り午前8時半から外来の受け付けを始めたが、報道陣には「患者が不安がる。」等として取材の自粛を求めた。当初から個別ケースの発表はしない方針を打ち出しており、「新生児以外は想定外のケースか?」等の問い掛けにも、担当者は「守秘義務が在るので御理解戴きたい。」。
敷地内には「ポスト」を利用する前に相談を促す為、入り口近く等目立つ場所に病院や行政機関の電話相談窓口を知らせる看板等が設置されているが、預けたとみられる父親からの相談は無かった模様だ。
設置を許可した熊本市の幸山政史市長も「現時点ではコメント出来ない。」と事実確認に応じなかった。「人権と健やかな成長を見守る観点から、個人を特定する情報は出せない。」というのが理由。今後に付いては、「社会的な関心も高いと思う。一切公表しないつもりは無い。」とも述べた。
「男児、父親の特定進める 『赤ちゃんポスト』で県警」(共同通信[5月15日])
熊本市の慈恵病院が設置した「赤ちゃんポスト」に3歳位の男児が預けられていた問題で熊本県警は15日、男児や、同病院に連れて来たとみられる父親の身元の特定を進める一方、保護責任者遺棄罪に当たるかの検討を続けた。熊本市の担当者は「個人が特定される恐れが在る。」等と、改めて事実関係の説明を拒否。関係機関を集めた会議を17日に開き、今後の公表の時期や方法を話し合う考えを示した。
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「御父さんに連れて来られた。」とこの男児が口にしていたという報道も在る。「三つ子の魂百迄」というが、3歳前後の子供ならば自らの経験を考え合わせても、当時の記憶はそれなりに残っているもの。「どういう理由が在ったにせよ、自身の父親から”捨てられた”という事実がこの子に悪い影響を与えなければ良いが・・・。」と願うばかり。
所謂「赤ちゃんポスト」に関しては、これ迄当ブログで取り上げて来なかった。腹蔵無い意見を言わせて貰えば、”積極的に”この制度に賛意を示す事が出来なかったからだ。しかし同時に、「こんな制度は早急に無くせ!」とも言えない複雑さを伴っている。「強姦された女性が身籠ってしまった。」とか、「結婚した相手からDVを受け、離婚した。」等のケースで、被害者が単独で子供を育てなければならず、且つ経済的に困窮した状況下に在るのならば、子育てを第三者に委ねざるを得ないというのは理解出来るし。
唯、我が子をゴミの如く捨て去る事件や、生みっ放しで子育てを放棄しているかの様な馬鹿親が目立つ昨今に在っては、この「赤ちゃんポスト」を渡りに船とばかり安直に利用する輩が老若男女を問わず、ゾロゾロト出て来るのではないだろうか?という懸念がどうしても自分には在った。「親元で虐待を受けたり殺されたりするよりも、この制度によって幸せな環境が与えられるならば、それはそれで良いのではないか。」、「『赤ちゃんポスト』を無くしたとしても、結局は別の所に赤ちゃんを置き去りにしたり、殺したりするだけ。」という意見が在るのは重々承知しているが、これは理屈だ何だでは無く、感情的に自分は受け入れ難いものが在る。
今回のケース、3歳位の子供で在れば児童相談所に相談するのが普通だろう。「相談員と対面して相談するのは、罪悪感を覚える。」という事なのか?入れられていた時間は短かったのかもしれないが、「ポストに入れられた我が子がどれ程心細かったか、心にどれだけの傷を負うか。」を罪悪感以上に念頭に置いて欲しかった。ましてや「こっちの素性も知られないで、子供を捨てられるなんてラッキー!」とでも思って為した”ので在れば”、少なくとも自分はこの父親を絶対に許せない。
以前、「『売買春』を『援助交際』、『脱税』を『申告漏れ』、『中高年男性への暴行&恐喝』を『オヤジ狩り』といった様に、言葉を面白おかしく表現する事で、その行為が持つ本来の悪辣さを軽いイメージに転化させてしまい、延いては加害者に罪悪感を覚え難くさせているのではないか?」と、”言葉遊び”に興じているマスメディアの下衆さを批判した。慈恵病院のこの制度は「こうのとりのゆりかご」というのが正式呼称なのだが、マスメディアは「赤ちゃんポスト」という呼称を専ら使用している。「赤ちゃんポスト」なる呼称が実態を非常に軽いイメージにさせ、「子捨て」という敷居を低くさせている気がしてならない。
上記した様に「我が子を育てたくても、どうしても育てられない。」という同情すべき状況も在るとは思う。唯、「子捨て=育児責任の放棄」というのは否定出来ないし、何よりも安直に「子捨て」を考える馬鹿親達に少しでも躊躇の念を抱かせる為には、「赤ちゃんポスト」等という軽い呼称では無く、「育児責任放棄ボックス」という重い呼称を用いるのがベターな気がする。
「『こうのとりのゆりかご』によって不幸な子供が救われる。」という意見を頭ごなしに否定するつもりは毛頭無いが、この様な御時世には「性善説に基づく仮定」よりも「性悪説に基づく仮定」で臨んだ方が良い様に自分は思う。
「『赤ちゃんポスト』新生児で無く・・・病院側はノーコメント」(毎日新聞[5月15日付])
熊本市の慈恵病院に国内で初めて設置された「赤ちゃんポスト」への預け入れ第1号は、対象としていた新生児では無かった。10日の開設初日に3歳とみられる児童が預けられていた事が15日判った病院には、早朝から報道陣が詰め掛けたが院側はノー・コメントを繰り返した。
病院はこの日も通常通り午前8時半から外来の受け付けを始めたが、報道陣には「患者が不安がる。」等として取材の自粛を求めた。当初から個別ケースの発表はしない方針を打ち出しており、「新生児以外は想定外のケースか?」等の問い掛けにも、担当者は「守秘義務が在るので御理解戴きたい。」。
敷地内には「ポスト」を利用する前に相談を促す為、入り口近く等目立つ場所に病院や行政機関の電話相談窓口を知らせる看板等が設置されているが、預けたとみられる父親からの相談は無かった模様だ。
設置を許可した熊本市の幸山政史市長も「現時点ではコメント出来ない。」と事実確認に応じなかった。「人権と健やかな成長を見守る観点から、個人を特定する情報は出せない。」というのが理由。今後に付いては、「社会的な関心も高いと思う。一切公表しないつもりは無い。」とも述べた。
「男児、父親の特定進める 『赤ちゃんポスト』で県警」(共同通信[5月15日])
熊本市の慈恵病院が設置した「赤ちゃんポスト」に3歳位の男児が預けられていた問題で熊本県警は15日、男児や、同病院に連れて来たとみられる父親の身元の特定を進める一方、保護責任者遺棄罪に当たるかの検討を続けた。熊本市の担当者は「個人が特定される恐れが在る。」等と、改めて事実関係の説明を拒否。関係機関を集めた会議を17日に開き、今後の公表の時期や方法を話し合う考えを示した。
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「御父さんに連れて来られた。」とこの男児が口にしていたという報道も在る。「三つ子の魂百迄」というが、3歳前後の子供ならば自らの経験を考え合わせても、当時の記憶はそれなりに残っているもの。「どういう理由が在ったにせよ、自身の父親から”捨てられた”という事実がこの子に悪い影響を与えなければ良いが・・・。」と願うばかり。
所謂「赤ちゃんポスト」に関しては、これ迄当ブログで取り上げて来なかった。腹蔵無い意見を言わせて貰えば、”積極的に”この制度に賛意を示す事が出来なかったからだ。しかし同時に、「こんな制度は早急に無くせ!」とも言えない複雑さを伴っている。「強姦された女性が身籠ってしまった。」とか、「結婚した相手からDVを受け、離婚した。」等のケースで、被害者が単独で子供を育てなければならず、且つ経済的に困窮した状況下に在るのならば、子育てを第三者に委ねざるを得ないというのは理解出来るし。
唯、我が子をゴミの如く捨て去る事件や、生みっ放しで子育てを放棄しているかの様な馬鹿親が目立つ昨今に在っては、この「赤ちゃんポスト」を渡りに船とばかり安直に利用する輩が老若男女を問わず、ゾロゾロト出て来るのではないだろうか?という懸念がどうしても自分には在った。「親元で虐待を受けたり殺されたりするよりも、この制度によって幸せな環境が与えられるならば、それはそれで良いのではないか。」、「『赤ちゃんポスト』を無くしたとしても、結局は別の所に赤ちゃんを置き去りにしたり、殺したりするだけ。」という意見が在るのは重々承知しているが、これは理屈だ何だでは無く、感情的に自分は受け入れ難いものが在る。
今回のケース、3歳位の子供で在れば児童相談所に相談するのが普通だろう。「相談員と対面して相談するのは、罪悪感を覚える。」という事なのか?入れられていた時間は短かったのかもしれないが、「ポストに入れられた我が子がどれ程心細かったか、心にどれだけの傷を負うか。」を罪悪感以上に念頭に置いて欲しかった。ましてや「こっちの素性も知られないで、子供を捨てられるなんてラッキー!」とでも思って為した”ので在れば”、少なくとも自分はこの父親を絶対に許せない。
以前、「『売買春』を『援助交際』、『脱税』を『申告漏れ』、『中高年男性への暴行&恐喝』を『オヤジ狩り』といった様に、言葉を面白おかしく表現する事で、その行為が持つ本来の悪辣さを軽いイメージに転化させてしまい、延いては加害者に罪悪感を覚え難くさせているのではないか?」と、”言葉遊び”に興じているマスメディアの下衆さを批判した。慈恵病院のこの制度は「こうのとりのゆりかご」というのが正式呼称なのだが、マスメディアは「赤ちゃんポスト」という呼称を専ら使用している。「赤ちゃんポスト」なる呼称が実態を非常に軽いイメージにさせ、「子捨て」という敷居を低くさせている気がしてならない。
上記した様に「我が子を育てたくても、どうしても育てられない。」という同情すべき状況も在るとは思う。唯、「子捨て=育児責任の放棄」というのは否定出来ないし、何よりも安直に「子捨て」を考える馬鹿親達に少しでも躊躇の念を抱かせる為には、「赤ちゃんポスト」等という軽い呼称では無く、「育児責任放棄ボックス」という重い呼称を用いるのがベターな気がする。
「『こうのとりのゆりかご』によって不幸な子供が救われる。」という意見を頭ごなしに否定するつもりは毛頭無いが、この様な御時世には「性善説に基づく仮定」よりも「性悪説に基づく仮定」で臨んだ方が良い様に自分は思う。
父が会社勤めをしていたのは週休1日、つまり1週間の休みが日曜日だけというのが一般的な時代でした。毎日帰宅するのは遅い時間でしたし、唯一の休みで在る日曜日も出勤する事がまま在りました。昔気質な父からは「緊急事態を除いて、女子供が仕事場に電話して来ては駄目だ。」ときつく言い渡されていましたが、休日出勤の時には何度か父が工場長を務めていた工場に連れて行って貰い、事務所の外から父が働いている姿を見たりしていました。
「親の背中を見て子供は育つ。」と良く言いますが、家族の為に必死で働いている父というのを強く感じましたし、恐らくマヌケ様の御子様達も御父様の背中をしっかり見ながら成長されたからこそ、きちんとした人間になられた今が在るのだと思いますよ。
学生時代に父親を病気で亡くしたりと、これ迄に歩んで来た我が人生は必ずしも平穏無事なものでは在りませんでした。しかし両親からは愛情深く育てて貰ったと思っておりますし、父親を亡くして以降も幸いにして周りの人達に恵まれた為、然して嫌な思いをせずに此処迄来た気がしております。自身が恵まれた環境に在ったからこそ逆に、不幸な環境に置かれてしまった子供達に対してどうしても心が行ってしまうし、”身勝手さから”子供を捨てたとしか思えない親には必要以上に感情が激してしまう傾向がどうも自分には在る様です。この手の記事は冷静に書かなければいけないと頭では思っているものの、ついつい感情が先走ってしまい、皆様に御不快の念を与えてしまった事は大変申し訳無かったと思っておりますし、Spa supernova様が謝罪される必要は全く無いですよ。
自分も含めて多くの方が、どうしても感情が先んじてしまう程、今回の一件は根が深いとも言えますよね。りさ・ふぇるなんです様も書かれている様に、「子供達を他者に託さなければならない環境」というものを国(国民)が真剣に考え、ベストでは無いにしてもベターな方向へと環境を変えて行かなければ、結局は「誰が悪い。」といった不毛な犯人探しに終始してしまうだけでしょうし。
一家心中に付いては、かなり以前に当ブログでも賛否両論出ました。「例え親とはいえ、子供の未来を勝手に閉ざす事は許されない。」といった否定的な御意見や、「自分達が亡くなった後に、子供(達)だけが残された事でどれだけ苦労を背負わすかを考えると、親としては忍びない気持ちが在ると思う。」といった、積極的な賛成という訳では無く「致し方無い。」、「気持ちは理解出来る。」という肯定的な御意見等。
自分の場合どちらかと言えば後者、即ち「親という後ろ盾を無くし、生半可な苦労を背負わされるで在ろう我が子の将来を考えると、子供(達)だけを残してあの世には旅立てない。」という考えになると思います。
勿論、両親を不測の事態で亡くされても、立派に生きて行った(ている)子供達も居るのは頭では理解しているし、もし自分の近しい人間(子供)が一家心中で亡くなったとしたら、Spa supernova様も書かれている様に「子供達が生き残っていたとしたら、今はどんな大人になっただろうか・・・。」という思いが自分も湧く事でしょうね。
「育てられない事情がある子供を社会が引き受ける」というのがこのポストの趣旨だと思いますが、その「社会」がまた複雑です。
>「預けられてから」の方が遥に問題
ところでジャイアンツさんのふぇるなんですさんへのレスポンスで思い出したのですが、部活の先輩の一家が崖から飛び降り無理心中するということがありました。中二のときです。先輩は中三、彼の妹は小学生でした。低学年だったかも。ショックでした。今、彼の年齢の倍、多分彼の妹の約4倍以上の年齢になって思うのですが、彼らがもし生きられたら、生き延びられたらどうだったのだろう、と。やはり貧困から進学は出来なかったのだろうか?そうなると未来の選択肢は限られてしまう。多分彼の両親はそれがわかっていたし、責任も感じていた。だから子どもたちの背を押してしまったのだろう、と。
もちろん、心中は肯定できませんが。
そんなことを思うと、熊本の3歳の子のケースが気にかかります。
子どもの頃ってやたら親の表情にびくびくしていたものです。
そう思うと何も分からない乳児があの場所に置かれるよりも深刻なのかもしれません。
長文大変失礼いたしました。
今回の件でこれだけ多くの方々から御意見を頂戴するという事は、それだけ今回の件、否、子供達を取り囲む環境に付いての関心が深い証拠だと思います。「こうのとりのゆりかご」の様な制度及び今回の件に付いては賛否両論在りましょうが、心に「遣り切れなさ」が残ってしまうという面では多くの方が同じなのではないでしょうか。
何度も書いていますが、この制度に関しては積極的に100%賛成は出来ないものの、だからと言って「絶対に駄目!」と否定も出来ない自分。前者はやはり「身勝手さ”だけ”から子供を”捨てて”しまうアホ親が少なからず出て来るのではなかろうかという懸念。」で在り、後者は「育てたくても、経済面を含む諸々の理由&環境から、子供他に”託さざるを得ない”人達も居る。」という思いから。
教育基本法改正の話を今回の記事とリンクさせてしまったのは不適切だったかもしれませんが、どうにも現政権及びその取り巻きには、「原理原則だけを打ち立てれば、それで物事は全て上手く運ぶ。」といった安直さが見え隠れしている様な気がしてならないんです。人間社会ってそんな簡単なものじゃないと思うんですよ。まあそれを言ってしまうと、「呼称を変えた所で、身勝手な連中の歯止めになんかならないよ。」と言われてしまいそうですが。
舞台裏を明かしますと、普段は記事のタイトル付けに悩む事は殆ど無いのですが、今回の記事は結構悩んだ末に付けました。ハッキリ言って、「刺激的過ぎて、誤解を生じる可能性も在るだろうな。」とは思いました。しかし、それを踏まえた上で敢えてこのタイトルとした次第です。
書き込みを寄せて下さった皆様方のみならず、こちらを覗いて下さった方の多くが恐らく思われている様に、自分も「子育てをしたくても、経済面を含めた様々な理由から出来ない親達に対して批判をするつもりは毛頭無く、そういった方達の為に『こうのとりのゆりかご』の様な制度が設けられるのは致し方ない。」という風に捉えています。この中にはりさ・ふぇるなんです様やSpa supernova様が例示されている様な「必死で働いているのだけれども、生活が半端ではなく苦しい若い人達。」というのも勿論含まれています。
今回、ここ迄辛辣で誤解を生じかねないタイトルを敢えて選択したのには、つい先だって自身が耳にした若いカップルの会話が少なからず影響しているのも事実。
「子供出来ちゃったら、下ろせば良いじゃん。」(男)
「まあねー。最悪、赤ちゃんポストに入れちゃえば良いし。なーんてね、ハハハ。」(女)
冗談半分の戯言なのでしょうが、耳にして心が寒々しくなりました。別の方へのレスでも書かせて貰いましたが、「どんな状況下で在れ、生まれて来た子供には罪が無い。」と自分は思っています。ですから上記した様な「他に選択肢が無く、苦渋の決断の上で子供を”託した”親達」は別ですが、「重責を負いたくないから、面倒だからという身勝手極まりない理由”だけ”で子供を”捨てた”親達」に付いては、自分は絶対にそんな良い加減さを納得出来ないし、納得しようと努力もしたくないというのが本音です。
ですから「こうのとりのゆりかご」を利用した全員が「育児責任放棄」としてしまうのは言い過ぎという思いは正直この記事を書いていても自覚しておりましたが、何よりも身勝手さだけで子供を”捨てる”アホ親の抑止力に”少しでも”為り得るので在れば、辛辣な呼称を選択するというのも在りなのではなかろうかという気持ちが正直心の中に残っております・・・。
ただし、今回の件と教育基本法の改正をリンクさせるのはいかがなものかと思いますが・・
正直安倍とそのお友達(山谷やらああいうの)には辟易します。児童相談所の雰囲気もよーくわかります。
しかし今の20代前半~30代半ばの世代の現状はホント心配なのです。日本再生とか言っている連中はどうもこの世代の苦境に関心がないようです。りささんの書かれてるとおりです。正直今幼稚園~小学一年生の親というのは昔とは違いだいたい24歳~50歳ぐらい。ある程度の収入があればいいですが、本人の収入が低くとも親がお金を出してくれているわけです。では本人もダメ、親も収入が低かったら?正直若くして親になった場合、現在であれば20代の親たちは本当にしんどいやろなあとよく思います。地方の中都市なんかはそういう追い詰められた親が多いんでないかなあ。
そういえば先週の木曜の日経夕刊の赤ちゃんポストの設置の記事の横には石川県小松市で赤ん坊と2歳かそれぐらいの子の腐乱死体が発見されたという記事がありました。
個人的にはちょっと今回のジャイアンツさんの題のつけ方は「子育てに関係も興味も実はないのにやたら政治的な」おじさん(≒アベちゃん)チックだなあ、と思いましたね。仰りたいことはよくわかるのですが、誤解を生むよと。
教育関連の記事もそうですが、子供に纏わる記事により多くの方が御意見を御寄せ戴くのは非常に嬉しいし、それだけ皆様の関心が高いのだと思っております。「子供は国、否、国民全体の宝物。」、「どういう理由や状況が在るにせよ、産まれて来た子供達には一切罪が無いし、不幸な子供達を少しでも減らして欲しい。」という思いが多くの皆様に在る証拠なのではないでしょうか。
マヌケ様へのレスでも書かせて貰ったのですが、「人口と同じだけの家庭の形」が存しているというのは全くその通りだと思います。部外者の目からすると無責任で好い加減な親と見えるケースが、実態は必死で子供と向き合っていたり、逆に理想的な親子関係と見えていたケースが、取り繕われた寒々しい人間関係だったりという事も在り得、実情を知り得ない人間が物知り顔でどうこう指摘してしまうのはどうだろうか?という忸怩たる思いが正直無い訳では在りません。ましてや今回のケースは、病院側が諸々を慮った上で情報を開示しておりませんので、あくまでもマスメディアが報じたほんの僅かな部分しか我々は知り得ず(果たしてそれも、100%事実かどうかも判らないですし。)、仰る様にどの様な思いで当該する父親が子供を置いて行ったかは、部外者の自分達が軽々しくどうこう言えるものでは無いでしょうね。
「子供を有している人間は偉い。子供を有していない人間は駄目。」という考えは全く無いし、そんな画一的な考えは全くナンセンスだと思っております。唯、子供を有していない自分からすると、「子供を育てるという事は重責”も”伴う。」事と解しており、その意味で素直に育児をされている方々に敬意の念を持っております。育児とはそれ程重責を担うものだからこそ、仰る様に高みからどうこう指摘するだけでは無く、「子供を育てたくても育てられない。」という現実及びその根本的な理由に目を向ける可きというのも全く同感。
児童相談所の実態は、そんな感じなのですね。利用した経験が在りませんので、筋論で書いてしまいました事失礼致しました。唯、必死で何とかしたいと取り組んでおられる職員も居られるのでしょうが、個々人の努力では当然限界が在り、抜本的な問題を解決するのは国(国民)の責務と言えましょうね。
我が子を実際に捨てない迄も、「産み捨て&無責任さ」を「放任主義」と勘違い(悪用?)している親達は少なからず居ます。これは老若男女を問わず、育児の重責”面”を理解していないからなのではないでしょうか。
記事でも触れました様に、諸々を考え合わせると「こうのとりのゆりかご」の様な制度に対して100%賛成は出来ない一方で、逆に完全否定も出来ない自分が居ます。「不幸な子供達を増やして欲しくない。」という思いが在り、「こうのとりのゆりかご」がその思いを現実に変えてくれる”一助”に為り得るので在れば、それは言葉は不適切かもしれませんが”必要悪”として仕方ないのかなと思うからです。
御存知とは思いますが、約20年前に今回の制度の原型とも言える様な施設が群馬に存していました。吉川英治文化賞受賞者の品川博氏が発案された「天使の宿」がそれで、プレハブの中に二畳程の空間が在り、其処を上下に仕切った上で、布団を数枚敷き詰められていたそうです。「子どもを置いたら、電気を付けて。」という注意書きが貼られ、明かりが付くと傍の施設で待機している職員が駆け付けて保護するという仕組み。
当時は「コインロッカー・ベビー」や「サラ金苦での一家心中」が新聞紙上を連日の様に賑わわせていた時代で、一人でも不幸な子供を救いたいという趣旨から始められ、約6年間の活動期間中に10数人の乳幼児が預けられたそうです。しかし1992年に病死した乳児が置き去りにされていた事を機に、この取り組みは終わりを告げました。経済的負担が余りにも大き過ぎたという面も在った様です。やはり個人でやって行くには限界が在るのでしょうね。
教育基本法を改正すれば、全ての教育問題が解決するといった御目出度い思考しか無い”様な”何処ぞの首相。問題はそんな簡単な事では無いし、勿論我々国民”も”真剣に考えなければいけない問題でしょうね。
誤解を生じさせてしまってはいけませんので、先に自分のスタンスを明らかにしておきますが、「子供の有無」や「結婚前の妊娠」に関しては、個々人の考えに委ねられる可き事柄で在り、「子供が居ようが居まいが、結婚前に妊娠しようがしまいが、それを部外者が非難したり意見したりするのは余計な御世話。」というのが自分の考えです。それを踏まえて敢えて書きますが、「出来ちゃった婚」という”呼称”に自分は良い印象を持っていません。前記しました様に、「結婚前に妊娠しようがしまいが、それは全く個人の自由で非難される可きものでは無い。」と思っていますが、マスメディアがこの呼称を”言葉遊び”の如く使用しているのがどうかと思っています。この「出来ちゃった婚」という呼称を用いる事で、「子供を持つ事で発生する”重責の部分”」が軽んじられて(見え難くなって)しまっているのではないかと。
子供は国家の宝と思っておりますし、その子供を育てて行くというのは非常に大変な事と自分は捉えています。これは「子供を儲けている人が偉く、そうで無い人は駄目。」という意味では全く無いのは言う迄も在りませんが、子供の居ない自分としては、子供を育てている人達に対して素直に「凄いなあ。」と敬意を覚えています。
この記事の中で書こうかとも思ったのですが、避妊具を買いたくても買えない極貧の国ならば未だしも、そうでは無い我が国に在っては、「子供を育てるという重責を理解し、且つその重責を担える覚悟が無い」人間は、きちんと避妊具を使った上で事に及ぶという認識を広く持って欲しいと自分は考えます。勿論、真剣に考えた上で、避妊具無しを選択した人達を責める気持ちは毛頭在りませんが。
りさ・ふぇるなんです様が書かれておられます様に、「人口と同じだけの家庭の形」が存しているというのはその通りだと思っています。部外者の目からすると無責任で好い加減な親と見えるケースが、実態は必死で子供と向き合っていたり、逆に理想的な親子関係と見えていたケースが、取り繕われた寒々しい人間関係だったりという事も在り得、実情を知り得ない人間が物知り顔でどうこう指摘してしまうのはどうだろうか?という忸怩たる思いが正直無い訳では在りません。
自分の場合、この手の話になるとどうしても「子供の立場」から見てしまうんです。「どういう理由や状況が在るにせよ、産まれて来た子供には絶対に罪が無い。」というのは多くの方が持っておられる考えだと思いますし、不幸な子供を少しでも減らしたいというのも同様なのではないかと。
自分の知り合いで独身時代はしばしば「子供は嫌い。」と口にしていた女性が、いざ結婚して子供を儲け、育児して行く中で子供にメロメロになって行った姿を実際に目にしております。後になって彼女から聞いた話なのですが、彼女自身が幼少期から親と良好な関係になかった為、心の奥底に「自分が親になった場合、子供と上手く向き合えないだろう。」という思いがずっと滓の如く在り、それが「子供は嫌い。」という発言に繋がっていたと。しかし、「実際に子供を育てて行く過程で、自分自身が子供によって育てられて行った。」と彼女は語っていました。彼女の様なケースが全てとも思いませんが、子供によって親が逆に成長するというケースも少なくは無いでしょうね。
我が子を育てたくても、育てられない環境に在る親御さんも少なからず居るで在ろう事は自分も理解しており、その事が記事でも触れた様に「こうのとりのゆりかご」の様な制度を完全否定出来ない所以でも在ります。何故、不幸な子供達、そして不幸な親達が生み出されなければならないのか?大元に在る理由を考えなければならないというのは、その通りだと思います。
それとレスはこちらでつけて下さい。
ちょっとこの話題のレスが合う記事をうちで上げられないと思うので(ふざけたのばっかりですから)
わがまま言ってすみません。いつもありがとうございます。
なので、政治家やマスコミが言うようないい加減な状況ではなかったんじゃないかと推測しています。
ただ、問題はそこじゃないんですけどね。
この問題は「預けられてから」の方が遥に問題なのに、「赤ちゃんポスト」と言う入り口の形の問題、あるいは「親として」と言う現在親である私から見たらちゃんちゃらおかしい「お上から押し付ける親道」の形の問題にばかり固執していて、「現実にそこにある命」の問題が置き去りにされがちなような気がします。
地方の20代から30代の収入の格差は開く一方で、夫の会社でも地方の営業所で雇用している若い彼らの年収を聞くと愕然とします。
しかも彼らはほとんど家に帰らず出ずっぱりでした。
もしそんな彼らに子どもがいて、嫁さんに愛想をつかされ家出でもされたら。。。
児童相談所に相談と言われますが、私も育児ノイローゼで相談した事がありますが、およそ役に立たないですよ(苦笑)もちろん、ちゃんとアドバイスしていただいてありがたい存在の方もいましたが。。
一生懸命頑張っているのに「ああしろこうしろ」と高みからクドクド命令される事の辛い事と言ったらないです。
今の40代の私ならちゃんと言い返せるのになあ・・と。
この事で立派な服を着て高みから若い親へ説教たれてる政治家に吐き気すらします。彼らは今幼い子を持つ親の世代が「失われた10年」の世代だという事に気付いているのでしょうか・・・?
本当に甘いのは私ら世代です。
バブルに踊り、子どもですらブランド扱い。
そう、今17~8の子どもの親です。殺されて当然です。
親の責任がどうこう言う前に、若い世代が余裕を持って子育て出来る政治を実現させてから文句をたれて欲しいです。
それが出来ないのならせめて「今ある命」を救う事に専念してもらいたいです。
我々や政治家より遥に多く「彼ら」からの相談を病院の院長は受けているのだと言う事を肝に銘じて、このニュースを見るべきではないでしょうか。
私の周りにも、本当に色んな親がいます。
どうしようもない親は「赤ちゃんポストに預ける」と言う行動も起こさないものです。
何もしないのが本当に無責任な親だと思います。
「こうのとりのゆりかご」を否定するつもりもありませんが・・・
ただ・・・例えば10歳の女子が子供を産んだとしても
(もし産めるのならですけど)
それ自体は罪になりませんが
産んで育てることが出来なければ
高い確率で罪になる・・・
と言うことを、これから子供を作ろうという方々には覚悟しておいて欲しいですね。
何だかこの問題が、「避妊しないのが本気の証」という昨今の風潮の
是非を問うきっかけになりそうな気がしないでもありませんが・・・。
ただ、あえて逆説を唱えるならば、子どもを捨てることの罪悪感をなくすことは、捨てられる子どもにとっては幸福なのかも知れない、という議論も可能であるように思います。
そもそも子どもを捨てるような親に、育児能力を期待するのは難しいでしょう。となれば、そのような親の元で、子どもが十分な保護を受けることは期待しにくいと思われます。
むしろ、場合によっては児童虐待から最悪の事態に至る恐れもあるわけで、そうなる前に、有り体に言えば「とっとと捨ててもらう」方が、子どもの人権や生命を守れるケースがあるはずです。
「赤ちゃんポスト」というのは、育児能力のない親から子どもを守るためのものとして存在意義がある、こう考えた方がいいのではないでしょうか。
もっとも、私は血縁というのをあまり重視しない人間ですので、これを重視する立場からは、異論があるでしょう。
ただ、「生みの親より育ての親」。子どもは慈しまれ、愛される権利がありますからね。
その権利を教授できるべき環境にいるのが、一番幸せではないかと思います。