何時もの如く、朝食をかっ食らいながらTVを漠然と見ていた。その日は、客を交えたミーティングが予定されていた為、本社ではなく工場に直行する事になっていた。何時もの朝よりも早く家を出ないといけないと焦る気持ちで、TVに表示される時刻を目で追っていた。TVでは、神戸で大きな地震が起こった事を伝えてはいたが、その被害に付いては確認出来ていないという事だった。マグニチュードの数字が半端じゃなく大きくはあったが、淡々とニュース原稿を読むアナウンサーの姿には、それ程の悲壮感は漂っていなかった。現地の映像もなく、自分を含めた多くの人間はどれ程の事態が起こっているかに思いを馳せていなかったと思う。その時点では・・・。
工場に着き、会議室に缶詰状態で打ち合わせを行ない、早い昼食をとる為に工場内の食堂に赴いた。広い食堂内は何故か何時も以上にざわめいていた。目に飛び込んで来た映像。それは、食堂に置かれたTVが伝える被災地の模様だった。あらゆる物が崩れ去った中心に、火の海が存在していた。その時初めて、この地震がとてつもない悲劇を生み出している事を思い知らされた。
それから3ヶ月程経った頃、自分は神戸に居た。仕事で訪れた街は、被害が少ない場所に位置していたが、それでも震災の傷跡を多く見て取る事が出来た。その後、何度か神戸を訪れる機会が在ったが、その度に震災当時の写真や被害の跡を目にし、未曾有の大地震が与えた悲惨さが深く心に刻まれて行った。
あれから昨日で10年を迎えた。表面的には嘗ての賑やかさを取り戻した神戸の町並み。しかし、被災者の心に深く刻まれ傷跡はまだまだ癒えてはいない。否、癒える日等来ないだろう。一生彼等はその傷跡を負いながら、生きて行くのだと思う。
被災者向けの災害復興公営住宅では、高齢者の孤独死が今も続いているという。その数は、この10年で560人を越えたのだとか。入居住民の約4割が65歳以上の高齢者という現実も在る。
愛する家族を震災で失った者の中には、「何故自分だけが助かってしまったのだろう・・・。」と自分を責めるトラウマに悩まされている人も少なくないという。
大地震直後から多くの支援が寄せられた。しかし、それは一時的な解決に成り得ても、根本的な解決には成り得なかった。物心の喪失は、結局の所、被災者自らが全てを背負い込み、全てを自己解決していかなければならないという厳しい現実が厳然と存する。その事を心に刻み、後世に伝えて行く。それが、非被災者である自分にとっての義務であると思っている。
工場に着き、会議室に缶詰状態で打ち合わせを行ない、早い昼食をとる為に工場内の食堂に赴いた。広い食堂内は何故か何時も以上にざわめいていた。目に飛び込んで来た映像。それは、食堂に置かれたTVが伝える被災地の模様だった。あらゆる物が崩れ去った中心に、火の海が存在していた。その時初めて、この地震がとてつもない悲劇を生み出している事を思い知らされた。
それから3ヶ月程経った頃、自分は神戸に居た。仕事で訪れた街は、被害が少ない場所に位置していたが、それでも震災の傷跡を多く見て取る事が出来た。その後、何度か神戸を訪れる機会が在ったが、その度に震災当時の写真や被害の跡を目にし、未曾有の大地震が与えた悲惨さが深く心に刻まれて行った。
あれから昨日で10年を迎えた。表面的には嘗ての賑やかさを取り戻した神戸の町並み。しかし、被災者の心に深く刻まれ傷跡はまだまだ癒えてはいない。否、癒える日等来ないだろう。一生彼等はその傷跡を負いながら、生きて行くのだと思う。
被災者向けの災害復興公営住宅では、高齢者の孤独死が今も続いているという。その数は、この10年で560人を越えたのだとか。入居住民の約4割が65歳以上の高齢者という現実も在る。
愛する家族を震災で失った者の中には、「何故自分だけが助かってしまったのだろう・・・。」と自分を責めるトラウマに悩まされている人も少なくないという。
大地震直後から多くの支援が寄せられた。しかし、それは一時的な解決に成り得ても、根本的な解決には成り得なかった。物心の喪失は、結局の所、被災者自らが全てを背負い込み、全てを自己解決していかなければならないという厳しい現実が厳然と存する。その事を心に刻み、後世に伝えて行く。それが、非被災者である自分にとっての義務であると思っている。
いただいたコメントへのお返事は、
私のblogの方に書かせてもらってます
私は今は兵庫県民。震災当時は大阪府民でした。
震災のあの激しい揺れは今でも忘れることが出来ません。
変な話、私が子供の頃などは地震が少ない関西では、
たまの地震があると、ちょっとハイテンションになり、
子供達など「地震だ!地震だ!」とはしゃぐ感じでした。
それが震災以後は、ちょっとした揺れでも、
ものすごい恐怖を感じるようになりました。
私の友人の中には下宿が全壊した子や、
自宅が全壊し、生き埋めになり、
丸一日以上経ってから助け出された子など、
色々経験した人たちがいます。
今でも、忘れられません。
10年、そんなに経ったなんて信じられないくらい、近い記憶です。
まなりんは、生まれも育ちも兵庫で被災者でもあります。
私以上にいろんな思いがあると思います。
さて、まなりんですが、、、毎日遅い帰宅が続いています。
遅い日は、仕事が終わるのが11時前。
通勤時間が2時間の遠方に会社が移転したので、
終電に間に合わず、私が車で迎えに行ったり、、、
そして、帰宅後も仕事。
と言う日々が続いています。
blogは本人も楽しんでいたようですが、
今、再開しても中途半端になってしまうからと言う思いで
更新はしていないのだと思います。
いつか再開できる状況になれば、またお知らせに伺います。
その時はよろしくお願いいたします。
わたしがマイホームを持った年ですね。
そろそろ関東に大震災がきそうですね。
どんなになってしまうのでしょう。
防災対策は関心あります。
貴重な体験談、じっくり読ませていただきました。
この10年、被災された方、また地震を体験された方、そうでない方・・・それぞれに阪神淡路大震災の起きた1995年の1月17日に対する想いがあると思います。
私は実家が大阪にあるので、「最初は地震のあと大火事になっている」というTVの情報から実家に連絡を入れたところ、さほど被害がないことを知り、安心するもつかの間、被害がだんだん大きくなり、阪神高速の折れたところにバスがとどまっている姿や湾曲した道を見ると怖くなりました。
実際に目にするとなおさらですね。
この日は毎年、地震に対しての認識を再度確認するような重要な日として、そして震災のことも、ずっと語り継がれていくのでしょう。
自分の実家も、当時、東灘区にありました。
岩の積み上げられた阪急高架の真下にあった
マンションの入り口は崩れ去った岩で埋められて・・・。
西宮北口から徒歩で駆けつけなければ行けなかった
あの日の光景は一生忘れられないでしょう。
>全てを自己解決していかなければならないという厳しい現実が厳然と存する。その事を心に刻み、後世に伝えて行く。それが、非被災者である自分にとっての義務であると思っている。
深い共感と感銘を受けました。