向かない、といわれてきた。しかし、製造工業も商業と同じくらい資本回収期間が短く
なった今では、どっと工業分野に進出し始めている。彼らは、その信用力と情報力を利
用して国際的に流動する資金を取り入れ、日本やアメリカでつくられるエレクトロニク
スを利用した設備を設置し、自らの経営ノウハウとアジア諸国の広範な低賃金労働を活
用して、大量の工業製品を生産している。
ペーパーマネー・ソサエテイ、規制緩和、エレクトロニクス化という三つの条件が、
東アジアの低賃金諸国の工業を、国際競争の場に押し出した。その結果、きわめて安い
賃金の人々が、工業製品の分野での競争に参加するようになった。これが「大競争時代’
を生んだ最大の要因である。
価格破壊と職場共同体の崩壊
この世界的な大競争時代は、われわれになにをもたらすか?
それは、「価格破壊」と「職場共同体の崩壊」だ。
前にのべたように、東アジアにおいて工業製品が非常に安価に製造され、アメリカはもち
ろん、日本にも大量に輸入されてきている。それは当然、日本に「価格破壊」をもたらす。
しかも、それは、工業製品にとどまらず、日常用品にまで及んでいる。
たとえば、生鮮食料品である。
長谷川慶太郎氏は、新著『常識の大逆転』でつぎのようにのべている。
現在、日本の生鮮食料温、たとえば伝統的に国内でしか供給できないと考えられてきた「青果類」も、驚くほどのテンポで輸入品が日本の国内市場に氾濫してきている。そ
の「青果類」の輸入実績を見れば、すでに平成六年の実績で五十三万トンと、一年前に
比べて実に五〇八Iセント以上の大きな伸びを記録した。輸入「青果類」のなかには、日本産を完全に駆逐し、それにとって代わるだけの地位
を占めるものがけっして少なくない。たとえばニンニクや生シイタケなどはもっとも典型的な例と言ってもよく、そのほかカボチヤ、タマネギ、ニンジン、ゴボウ、さらに昨
今ではレタスその他の葉石のにいたるまで、海外から大量に、しかも円高を利用した著しい低価格で、日本国内に供給される品目が相次いで出現している。
このことは、日本国民の消費生活に直結しているスーパーにとって、あらゆる屁呈の仕入れ先を日本の国内から海外に移転しなければ、企業そのものの存立すら危ぶまれるという厳しい状況が発生したことを意味している。(さらにこれは、いわゆる高級品を中心と
する「ブランド商品」にも波及し、そのため、海外の「ブランドメーカー」も、急速に経営戦略の
転換を迫られはじめてい亘こうした転換を行なうことによって、より多くのマーケットシェアを獲得できるとい
う見通しに、どの「ブランドメーカー」も全力を挙げて「価格破壊」に努力を払わざるをえないという経営環境が成立しつつある。(傍点とカッコ内は桐山)
ニンジンータマネギなどの生鮮食品から、ブランド高級品まで、円高による価格破壊の波に襲われているわけである。
その「価格破壊」の大波は、わが国の経済界に、どういう影響をもたらしたのであろうか?
「職場共同体の崩壊」だ、と堺屋太一氏はいう。
その際、われわれの身辺で確実に起こることの一つは、終身雇用の崩壊、つまり閉鎖
二十一世紀へ仏教の常識を破壊せよ
型雇用慣行の消失である。そしてそれは、取りも直さず、職場が全人格的に帰属すべき共同体ではありえなくなることをも意味している。
今、終身雇用が崩れだした、年功賃金が変わるなどといわれているが、これによって職場共同体が崩壊するという実感は、まだ乏しい。今も学生の多くは、経済機能体とし
ての将来性よりも、帰属する共同体としての格好のよい職場を選ぼうとしている。中高年の間に、なお、転職に対する心理的抵抗感が強いのも共同体意識のためだ。
戦後を生きてきた日本人にとっては、転職とは、自分が属している共同体から抜け出し、まったく見ず知らずの共同体に入ることを意味している。四十歳を過ぎた大企業の
従業員にとっては、離婚と転宅と職業替えと改宗とをいっぺんにするほど深刻な事態だ。家族以上に堅固な絆で結ばれた職場共同体の人間関係から脱退するという思いが強いか
らである。
しかし、本人がどのように考えていようと、しょせん職場は職場、労働力を販売して
給与を受け取る経済機能体でしかない。給与を支払うことが理にかなわなくなれば解雇するのが当然である。
組織の経済基準は、常に組織を守ることであって、組織の構成員を守ることではない。
経験的にも理論的にも実証されているこの事実を率直に容認し、それ以上のロマンを職場に持たないほうがよい。経済機能体としての企業は、機能体としての存続をまず考え
るからである。
そうだとすれば、職場に対して忠誠心を持つことの意味は急速に低下する。また、職場、特に企業のほうでも、忠誠心を評価しなくなっていくだろう。日本の企業が能力よ
りも忠誠心を重視してきたのは、先行投資が有利に作用する右肩上がりの経済を前提とした結果、共同体的結束が有利に作用したからにすぎない。
株式会社は、人格の高潔さや犬馬のごとき忠実さに対して給与を支払っているのではないし、支払うべきでもない。収益を上げる能力に対して給与を支払っているのだ。高
潔と忠実さは能力を発揮するための要素ではあっても、給与を支払う対象ではありえない。自由競争が進み、ローコスト化が迫られるにつれて、この単純な事実が、より鮮明
になるだろう。したがって、われわれは現在の職縁社会から精神的に離脱し、職縁共同体に代わる新しい人間的なつながり、く心のよりどころを探し求めなければならない。
日本人は宗教心の薄い民族だ。千数百年間にわたって神とのつながりではなく、現世における人とのかかわりに心のよりどころを求めてきた。つまり、共同体の中での評判
を大切にしてきたのである。その共同体とは、何よりも村落共同体、つまり同じ水の流れによってコメをつくる生産的結合の地域社会であった。
この慣習が、村落共同体の崩壊、高度成長による都市集住に伴って、職場共同体への単属をごく自然に行わせた。生産共同体に単属することへの抵抗感がなかったからである。
一つの共同体に単属する日本人は、共同体での評判をにする。それは太平洋戦争中の軍隊を見ればよくわかる。
戦争中の特攻隊を見て、「日本人は死を恐れぬ民族だ」と考える外国人がたくさんいる。いや日本人にさえ少なくない。これは今も尾を引いていて、日本の時代劇といえば、す
ぐに切腹やチャンバラの場面が出てくる。しかし、本来日本人はきわめて死を恐れる民族である。たとえば、医学界のある調査によれば、ガンを告知された患者が気を病んで
死期を早めてしまう例は、日本人においてもっとも著しいという。
では、それほどに死を恐れる日本人が、なぜ特攻隊に志願したかといえば、軍隊という共同体の中で仲間に嫌われるのが恐ろしかったからだ。特攻隊に予定されていて、幸
出撃前に終戦を迎えた人々にアンケートを試みた例かると、応募しなければ
周囲がやかましくいうものだから仕方がなかった」という答えが非常に多い。日本人にとっては、仲間が「やかましくいう」ことは、恐ろしい死よりももっと恐ろしいことな
のだ。
帰属する共同体をそれほどまでに気にする日本人の多くが、単属的に帰属して来た職場共同体は、今や崩壊しようとしている。少なくとも、全人格的に帰属しうる対象でな
くなろうとしている。この事実を、われわれは真っ向から見すえる必要があるだろう。
では、どうしたらよいのであろうか?
「売れる自分」を考えるとき
これまでの閉鎖的雇用慣行では、学校を卒業して就職すれば、必ず永年勤続になった。少なくとも、それを前提とした給与体系が、労使双方に認められていた。ここでは、若
年期は働きよりも低い賃金で会社に貸しをつくり、中高年期には働き以上の給与を得ることで貸しを取り返す仕組みになっている。いわば従業員自身が若年期の給与受け取り
不足分を企業に出資し、中年以降に返済を受ける、最後の清算を退職金で行う、という
あまただったという。
これに対して、先祖伝来の重臣といわれた人々は、帰属した大名の滅亡とともに就職
先を失い、長く浪人することになる。家系や血筋という過去の蓄積だけに頼った者は、
自分を売れなかったのだ。
それだけではない。時とともに「売れる才能」も変わった。関ヶ原の合戦の後では、
戦乱も終わり、戦闘技術に長けただけの人材は働き場所を失い、不遇の生涯を送った。
戦乱がおさまった元和の時代、ある寺の境内で独りの見すぼらしい老人が焼身自殺をしハガ尭け浅っていたという説話が
た。その跡には数々の戦場における戦功を賞讃した感状が焼け残っていたというある。これこそ、その時代にふさわしい技能を持だなかった人物、かつては有能であったけれども時代に合わなくなった人材の悲劇を表徴している。それに比べて、理財文治
の才能かおる者は非常に優遇されたし、商才技能に秀でた者は豪商への道を進んだ。
今はまさに、馬力と忠誠が重んじられた乱世から理財文治の才が尊ばれる泰平に変わった時期に似ている。秀吉の天下取りまでの成長時代が終わり、全国統一後の水平飛行に入るとともに、必要な才能も評価される徳性も変わったのである。
この大きな変化の中での一つの生き方が、どこででも「売れる自分」をつくること、
自分をつくることに幸福を感じるなら
ば、これからの時代に要請される技能と感覚を大いに身にっける気にもなるだろう。
(堺屋太一『大変な時代』)
企業は「非価格競争力」、個人は「個性的能力」同様のことを、長谷川慶太郎氏が、つぎのようにのべてぃる。
個性のないビジネスマンははじき出される
いわば自己の市場価値を高めることだ。「売れる自分 これはなにも企業にだけあてはまる話ではない。企業が、いま述べたような「非価格
競争力」を身につけるための経営努力を必死になって展開する以上、それはすなわち、これまで日本の企業というものを支えてきたビジネスマンたちに対してもまた、これか
らは同じ要求がなされることを意味する。
企業における「非価格競争力」に相当するもの。それはビジネスマンにとって、月並みな言葉ではあるが、「個性」とでも言うべきものであるで個性のないビジネスマンは
駄目だ」、ということは、バブル景気のとき、いやそれ以前からもさんざん言われてきたことではある。だが、超円高が当たり前となったいまの時代ほど、このことが重要性を
待ったことはなかった。
これまでの好景気の世の中から、早い話が会社に入ってさえしまえば、一生食いっぱぐれることはなかった。「個性」を見事発揮し、順調な昇進を果たしたものと、そうでな
いものとの間に多少の待遇の差こそ発生すれ、いわゆる出世争いに敗れたものに対しても、日本の企業はけっして首切りなどせず、定年まで勤めあげさせる「余裕」があった。
ところが、世界経済の構造的要因に基づく超円高が定着してしまい、近い将来一ドル=五十円もけっして絵空事ではなくなってしまった現在、もはや企業にその「余裕」の
維持を求めるのは酷である。企業が自らの生き残りをかけて全力で「非価格競争力」を身につけるための努力を始めなければならないいま、その構成員である個々のビジネス
マンに、それにふさわしい能力の発揮を求めるのはごく当たり前のことである。そして、
企業に「余裕」のない状況下で「個性」「能力」を発揮できぬビジネスマンを待ち受けるのが「首切り」であるのは自明の理である。
答えは出ている。企業もビジネスマンも、己れの生き残りをかけて、最大の努力をし
今日でもヽ小中学校胞なったことは重要である。
で算数のできない子には作生は不得手な科目のほうを熱心に教えてくれる。体育が上手には、国語の甜習をやっ算数の宿題を出してくれる。理科が得意で国語のできない子
たちは、欠点もなければヽくれる。これがいい先生なのだ。その結果、すべての子ども欠点もないということは{所もない、まん丸な相似形の能力を持つようになる。長所も
性を発揮させないことで゛性がないことであり、相似形の能力を持つということは独創 この方針です校教育をにある゜
人間誰しも不厚手なものぐっと、不得手な科目の時間が増え、得意な科目の時開か減る。
の苦痛と屈辱だ長く耐えz嫌いであり、不得手なことをやらされるのは苦痛である。こ最大の目的な汐だ゜ 辛抱強さと協調性を身につけることこそ、日本の学校教育の
しかし、日すの教育官椿
ると、「まだ個だのある子茫ちは、それでもまだ満足できなかった。昭和五十年代になれ、そこから於則主義が出しもが残っているのではないか」という強烈な「反省」が生ま
髪形や服装に個性があ゜現する゜
てはいけない、そんなところに自己表現の意欲を持ってもい
けない。自己表現をしようというのは規格大量生産の枠をはみ出し、多様化を求める選択の意欲と創造力を持つことに通じる。それはいけない。したがって、みなが定められ
た同じ髪形で、同じ服装で、同じ歩き方、同じ手の上げ方をする。そんなクローン人間を大量に養成するのが理想だとされている。
今日の日本でも、教育の面では、規格大量生産を目指した人材養成がかつてないほど強烈な統制によって進められている。そして、それに疑問を持つ教員や教育官僚はほと
んどいない。彼ら自身が個性と創造性を喪失した戦後型教育の優等生だからだろうか。
(『大変な時代』)
いまは、こういう教育制度で育てられた人間は、まったく役に立だない時代となっている。
すくなくとも、企業や社会から求められない時代になっているのである。
長谷川慶太郎はこういっている。
新卒者に求められる高い付加価値
こういう時代になって、新卒者が厳しい入社試験を突破する方法はたった一つ。自分
二十一世紀へ仏教の常識を破壊せよ
個人に高い付加価値をつけるしかない。たとえば文科系の学生なら、絶対にバイリンガル。これは最低限。語学に才能がある、語学で役に立つと言いたいならトリリンガル。
英語は当たり前。それにマレーシア語とか中国語とかスペイン語が使えなければダメ。英語だけだとしたら、パソコンが自由自在だ、簡単なソフトなら自分でも組めるとか、
特殊なデザインの能力があるとか、そこまでないとダメ。一般教養だけでは、企業がまた訓練しなければならない。法学部を出たというなら、司法試験を通って弁護士資格ま
で持つ。
今年、東京のあるキー局では、アナウンサーを三人しか取らなかったが、たった一人
入った男性は弁護士資格を持っていた。司法修習も終わっていて登録すればすぐ開業できるというのが、アナウンサーでテレビ局に入った。そこまででないと、もう特殊技能
として評価されな
弁護士になるのでも、一般的資格だけではもう足りない。いま一番求められているのが、特許裁判がこなせる弁護士。当然、弁理士の実務にも通じていなくてはならない。
特許はもともと弁理士の仕事なのだが、弁理士は特許の出願しかできない。裁判までは
やれない。特許に通じた弁護士が足りなくて困っている。それもアメリカの特許法に通
じた弁護士が足りない。こういう特技があるといくらでも仕事がある。
特許というのは、法律上のテクニカルな面が強い上に、対象とする科学の範囲がべ{ぼうに広い。特定の専門分野に特化しないとやっていけない。それほど中身が深い。
しかもバイオでも、電子技術でも、日進月歩で進んでいる。それをこなして行く力(ある弁護士が足りなくて、どこでも引っ張りだこだ。
だからトリリンガルと一緒で、農学部の大学院でバイオをやってから、法学部の大之院で国際特許法を勉強するといった、アメリカ式の勉強が必要不可欠になる。アメ?
ではもう以前から、これが当たり前になっている。
そういう学歴を見ただけで、この人間は百八十度違う分野のことでも、短い時間に‘中的に研究できるタイプだなと判断される。そうでなければ雇ってもらえない。日半
そういう時代になった。
『21世紀が見え
じた弁護士が足りない。こういう特技があるといくらでも仕事がある。
特許というのは、法律上のテクニカルな面が強い上に、対象とする科学の範囲がべ{ぼうに広い。特定の専門分野に特化しないとやっていけない。それほど中身が深い。
しかもバイオでも、電子技術でも、日進月歩で進んでいる。それをこなして行く力(ある弁護士が足りなくて、どこでも引っ張りだこだ。
だからトリリンガルと一緒で、農学部の大学院でバイオをやってから、法学部の大之院で国際特許法を勉強するといった、アメリカ式の勉強が必要不可欠になる。アメ?
ではもう以前から、これが当たり前になっている。
そういう学歴を見ただけで、この人間は百八十度違う分野のことでも、短い時間に‘中的に研究できるタイプだなと判断される。そうでなければ雇ってもらえない。日半
そういう時代になった。
『21世紀が見え