仏教一人間改造の超技術
「苦行」と「瞑想」
仏教とはひとことでいうならば、人間改造の方法である。まさに仏教こそ、人間改造の超技術であ
った。人間を、人間以上の存在I仏陀11・に改造するための技法である。
こういういいかた、こういう仏教のとらえかたは、神聖なる仏教を冒涜するものだとふんがいされ
る向きもあるかも知れない。
しかし、それは大きなあやまりである。
わたくしは、この時代、こういう視点に立っての仏教の把握と提唱こそ、まさに仏陀の理念に添う
ものであると確信するのだ。
なぜならば、いまほど、人間の改造、社会の改造が要望される時代はないからである。そうして、
仏教ほど、すぐれた人間改造の技法はなく、仏陀ほど、高い理念に立って社会の改造をねがわれたお
かたはないからである。
いまや、われわれの世界は行きづまっている。世の中が、このままでいいとは、だれだって思って
いやしない。あなた自身、そうであろう。あなたは、あなたの周囲を見まわして、これでいいと思っ
ているであろうか。この社会がこのままでいいとはだれだって思っていやしないのだ。しかし、社会
の改造は、まず、ヒトの改造からはじめられなければならないのである。制度をどのように変え、機
構をどう変えてみたところで、ヒトが変わらぬかぎり、社会は、結局、もとのすがたにかえってしま
う。それは歴史が証明している。ヒトが改造されねばならぬのだ。そうして、仏教ほどすぐれた人間
改造の技術はないのである。
人間改造のシステムとしての仏教は、二つの技法から成り立つ。
それは、
「苦行
「瞑想
である。
仏陀が説き、かつ実践された原始仏教はこの二つから成り立つ。それはこの上なく高度に完成され
た人間改造の方法であった。
しかし、初期大乗仏教の出現で、この二つは仏教から消滅した。「信心」と「陶酔」がこの二つに
とってかわったのである。仏陀の教法はこの時点で消滅した。
この過失をただしたのが、「密教Lとよばれる後期大乗仏教であった。仏教はふたたび苦行と瞑想
をとりもどしたのである。いや、それだけではない。密教は、あとで説くように、苦行ど瞑想をみご
とに一体化した特殊な技法を生み出したのである。
しかし、その密教もまた、間もなく、様式化し、左道化して、没落した。以後、仏陀が説かれ、示
された人間改造の教法は、消滅して世にない。
ヒトはいま、すみやかに改造されなければならない。それは、活火山のごとくはげしい構造変化を
つづける現代社会が、人間にたいしてつきつけた最後通牒である。それをなさぬかぎり、ひとも社会
も、破滅と崩壊の道を歩むよりほかないであろう。
いまこそ、仏陀が示された人間改造の原理と方法が、真摯に探求されねばならぬときである。
では、
仏教は、人間の「なにを、「どのように改造するのであろうか?
わたくしは、いま、仏教こそ人間改造の超技術であり、仏教は、「苦行」と「瞑想」によってそれ
をなすといった。では、「苦行」と「瞑想Lで、仏教は、人間の「なにLを、「どのように」改造する
というのか?
『スッターニパータ』
人間とはなんであろうか?・
改造さるべき素材としての人間をみてみよう。
いったい、人間を人間として成り立たせているものはなんであろう?
ここに、『スッターニパータ』とよばれる最も古い仏教の経典がある。ここに、人間を人間として
成り立たせているものへのふかい考察がある。つぎの詩句を見てみよう。`
生まれによってバラモンなのではない。
生まれによって非バラモンなのでもない。
業によってバラモンなのである。
業によって非バラモンなのである。(六五〇偶)
業によって農夫なのである。
業によって職人なのである。
業によって商人なのである。
業によって伎芸者なのである。
業によって奴僕なのである。(六五一価)
業によって盗賊でもあり、
業によって武士でもあり、
業によって祭官でもあり、
業によって王でもある。(六五二偶)
賢者たちはこのように、
この業を如実に知る。
かれらは縁起IPaticcasamuppadajを見る者であり、
業)とその果報)とを熟知している。(六五三偶)
世間は業によって存在し、人々は業によって存在する。生きとし生ける者はすべて業に縛されて
いる。あたかも進み行く車が轄に結ばれているように。(六五四俣)
以上の詩句を、たとえばつぎのようにあらためてみたらどうであろうか?
生まれによって大天才なのではない。
業によって大天才なのである。
生まれによって知能が低いのではない。
業によって知能が低いのである。
生まれによって金持なのではない。
業によって金持なのである。
業によって高い地位につき多くの人に尊敬されるのであり、
業によって手もつけられない凶悪な犯罪者なのである。
業によって成功者なのでもあり、
業によって一生転々とする落伍者なのでもある。
業によってよき夫を得るのであり、
業によって夫に苦しめられ、夫に先立たれるのである。
業によってよき息子にめぐまれ、
業によって子供たちに苦しめられるのである。
業によって健康で財運に恵まれ、長命を楽しむのであり、
業によって難病に苦しみ、若くして死に、あるいは事故に遭うのである。
だれにせよ人間であるかぎり一応考えこまざるを得ぬ主題を、『スッターニパータ』は提起してい
ることに気づくであろう。
詩句のなかの「生まれによってLというのは、「家柄」という意味ではないこともちろんである。
それは、「生まれつき」という意味にとったらいいであろう。たとえば、大天才に生まれついたこと
がかれを大天才にさせた最大の原因ではなく、最大の原因は「業Lなのだという意味である。
大天才というすぐれた才質は、もちろん「生まれつき」であるよりはかないであろう。しかし、そ
れではいったいなにがかれをそういう「生まれつきLにさせたのか? その答が「業」だというので
ある。それは大天才だけにかぎらない。『スッタ・ニパータ』は、農夫も職人も官僚も政治家も、王
から盗賊にいたるまで、かれがそうなったのは、すべて「業」によるものだというのである。つまり
「業が人間のすべてを決定しているというのだ。いや、それどころか、社会(世間)すらも、
業によって存在するのだと『スご
とするとI、
人間の改造とは、つまりは「業の改造Lだということになるのではなかろうか。業の改造こそ、人
間の改造であり、社会の改造だということになるのではないか。
ではいったい業とはなにか?
人間のすべてを決定するものは業だと最も古い経典『ス″ターニパータ』はいう。
だが、現代人であるあなたは、そのことばに大きく首をかしげるかも知れない。
『スックーニパータ』はいう。
「生まれによって……なのではない」と。
わたくしは、さきに、この「生まれによって」ということばを、「生まれつき」という意味にとっ
たらいいであろうといった。とすると、「生まれつきLは「生まれつき」であって、それ以外にいっ
たいどういう原因があるというのか? 生まれつきは生まれつきである。それ以外になにが考えられ
るか。
一人の大天才が大天才に生まれつくためにはそう生まれつくためのいくつかの条件がみたされねば
ならず、それはたしかに稀れなことであろう。けれども、その条件をみたして大天才として生まれる
ためにかれ自身の意志も力もいっさいかかわりはないのであって、かれ自身は、「なにも知らぬうち
にLただそう生まれついたに過ぎず、してみれば、要するにかれがそういうすぐれた才質を持って生
まれたのは、いうなれば「運がよかった」というよりはかないことである。そうして、その反対の場
合は、「運がわるかったLということになろう。
「運Lということばも甚だ曖昧なものではあるが、この場合そういうよりほかないのであり、つまり
は、「運Lによってそういうすぐれた「能力Lを持って生まれただけのことに過ぎない。それ以上、
原因を求めることは無意味である。要するに、運と能力(素質)の問題だ。そういわれるかも知れな
い。
だかI、
その運と能力(素質)を決定するのが「業Lなのだと、原始仏教経典の『スッターニパータ』はい
うのである。
では-、「業Lはいったいどのようにして人間の運と能力を決定するのであろうか? どのよう
にして、業は人間の運と能力を決定するのか? 原始仏典はどう説明しているか、それを見ることに
が、そこへ行く前に、ひとつ、運と能力と、人間とのかかわりについて、もう少し掘り下げてみよ
うではないか。「業Lというきわめて解きがたい人間の秘密を解くためには、「運」というこれまたき