システムとしての求聞持法
「変身の原理」で、私は、カナダの著名な神経外科学の大家、W・ペンフィールドの発見 密教の持つすぐれた知能開発法寺聴法」のメカニズムの一端を解説した。 私はそのとき、「ひとたび修身するや、目はカメラになり、耳はテープレコーダーに変化し て、ひとたび目にし、ひとたび耳にしたことは永久に忘れなくなる技術である」と説明した。 たしかにその通りであるが、そのためにこの法を、一種の記憶力増強法、いわゆる記憶術の一 のようにうけとったひともあるようである。ページ数の関係その他の事情から十分に説明でき ず、それも無理のないことであったが、この技法が単なる記憶術のようなものであるのなら、た いした価値のないつまらないものといわればならない。なぜならば、ただ単に記憶がよくものお ぼえがよいというだけでは、ひとはよい仕事をすることができない。 ただたんにもの知りだけで はすぐれた業績をのこすことはできない。問題は、多量に持っている知識(情報)を、いかに活 用してあたらしいものを生み出すかというところにある。
い子とのよい子のちがい
ギャラップは、そるべき技術である。 知能とはなにか。 ごく大ざっぱに分けるならば、二つの
であろう。記憶と創造である。 特聡明法は、この二つのはたらきをするメカニズムに、あた らしいメカニズムをつけくわえて、あたらしい力と効果を発揮する。
この技法が、ジョージ・ギャラップや、オルダス・ハックスリーのいうように教育にとり入れ られたならば、人類のうける利益は想像することもできないほどのものである。 ギャラップのい うように、ヒトは、まさに、未来に向かって数百年の飛躍をすることができるであろう。 そういうと、そんなすばらしい技術がどうして今まで世のなかにあらわれなかったのかと、あな たは疑問に思うかも知れない。
これほどの技術が、なぜ密教寺院の片すみに埋没してしまったのか、いくつかの理由があげら れるだろうが、その最大の理由はこうである。
すぐれた古い方法がまったく見落とされてきたということは奇妙なことだ。 それに、あと になって全く忘れ去られてしまっている非常に重要な技術を発達させた個人、あるいは文化がよ くあるのだ。しかし、それらはやはり大きな価値を持ちつづけているのだ』(
といっているが、この大きな価値を持ちつづけているすぐれた方法が忘れられてしまったわけ は、それにつづくギャラップのおなじ文章のなかに見出すことができる。
システムとしての間あって、思い出される記憶と、思い出せない記憶の二つがあることを、私は、「変身の原理」 で説明した。脳の記憶のメカニズムはたいへん複雑で、それはまだ脳生理学でも十分に解明され ていないのだが、一応、その仕組みを見てみよう。
経験というのはひとつの刺激である。その刺激が記憶になるまでには、だいたいつぎのような 段階を経る刺激を感じるのは、俗にいう「五感」である。 五感とは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚をい うが、こまかくかぞえればまだ多くの「感覚」があり、おなかが空いたとか、なんとなくけだ るく気分がよくない、とか、そういう身体の内部におこっていることを知ることもできる。つま り、われわれの身体の内部、外部におきていることがわれわれ自身にひとつの影響をおよぼす。 これが、「刺激」である。
こういう刺激があると、身体にある「感覚器」または「受容器」というものがこれに反応し電気的パルスを送り出す。 たとえば、 赤い花があれば、そこから反射された光が目のレンズ を通して受容器としての視神経を刺激し、視神経がパルスを送り出す。 これはパルスであって、 刺激の強さが大きければその数がふえるだけで、電圧が大きくなるわけではない。おなじよう に、皮膚になにかが触れれば、皮膚にある受容器が圧力を感じ、その圧力に応ずる数のパルスを 神経に送りこむ 次頁の上図は、このような受容器のいくつかの例である。
さて、このようにして受容器にあたえられた
I
れる。脳はその働きによって、それがなんであるかを知ることになる。これを「知覚」したとい う。つまり、赤い花の場合には、視神経をつたわって脳の後頭葉にある視覚野に達したパルス は、そこではじめて「赤い花」ということを知覚するわけである。 「聞く」という場合は、ひと つの空気振動があって、それが、鼓膜ふきんの受容器からのパルスとなって脳に達し、側頭葉の つけ根のあたりの聴覚と名づけられる部分によって、「音」としての知覚を持つということに なるのである。現在までにわかっていることは、受容器からのパルスは、それ以後の神経伝達機 構においては受容器の種類にはぜんぜん関係がなく、純粋に、パルスだけの問題になってしま う。つまり、パルスがいくつ出ているか、または出ていないか、というだけによるので、もし も、なんらかの方法で、聴覚神経と視神経とを結びかえてしまうと、われわれは光を聞き、音を 見ることができるということになるわけである。 さて、 そこで、この「知覚」されたものが、わ れわれにとって、ひとつの「情報」ということになる。
刺激(経験)→知覚→情報
と、つまり、ここまですすんできたわけである。
こういうことになる。
ところが、ここでひとつたいへん重要なことがおきる。
それは、その知覚が「意識」されない場合もある、ということである。 受容器がパルスを送り 出してそれが届いて知覚されてもそれが必ずしも、かならず意識されるとはかぎらないという とである。「見れども見えず、聞けど いったがあん、しない。 つまり、知覚しても意識していないということである。
では、そういう意識されない信号は、情報にはならないのか?
刺激 経験ということばは、意識がともなう必要があるように思われる。つまり、意識されな 刺激は経験にならないのではないかということである。 どうであろうか。しかし考えてみると われわれは日常の行動において、 それがありふれた動作の場合、意識をはたらかせることは非常 にすくない。手なれた動作や作業の場合、ほとんど無意識でおこなっている。たとえば「道を歩 「く」というようなごくありふれた動作をする場合に、われわれはほとんど意識せずに歩くという 動作をおこなっている。いちいち足のウラの感覚器官からの情報を意識していたら、たまったも のではない。しかし、足がなにかにつまずくというような、異常な状態が起きると、間髪をいれ ず意識がはたらきだす。 ということは、それまでわれわれは異常なしという情報をうけとりつづ けていたのであるが、意識はそれに注意をはらわずにおり、異常が起きた瞬間、ただちにそちら へ意識を向け直したということであろう。
そこで考えられることは、われわれがうけとる情報は、常に一時にひとつということでなく、 いつも多数の情報が同時にかさなって入ってくるので、われわれの意識はそのなかでももっとも 大きな、ということはもっとも注意をひく情報に向けられているということであろう。 電子計算 機の父といわれる故ノイマン博士の計算によれば、人間が一秒間に受けとる情報の量は一四〇〇ビットぐらいだといわれる。一ピッドというのは、イエスかノーかという情報単位であるが、 これは、われわれが知っているもっとも大きな電子計算機の記憶一〇〇万ビッドの十四万倍と いう大量のものである。これだけ大量の情報をいちいち意識することはとうてい不可能であり、 そこでわれわれの意識は、そのなかから注意を要する情報にだけ意識を向けているというわけで ある。だから、意識されなくても情報はつねに入っており、意識されない情報もあるということ になる。
そこでいままでのところをとりまとめると、こういうことになる。
1意識されない情報
2刺激経験知覚情報 2意識された情報
さて、つぎに、これらの情報が「記憶」になるわけだが、われわれは、たとえ知覚したり、感 じたりすることができても、これが記憶に残らなかったら、 「情報」として活用することはでき ない。つまり、ほんとうの情報にはなり得ないということである。 そこで問題になるのは、意識 された情報は論外として、意識されない情報はどうなのか、それも記憶になるものかということ である。しかし、これも考えてみると、スキーや水泳のように、いちいち意識しない動作でも、 練習による繰り返しを肉体がおぼえていて、これの積み重なりが熟練になるわけだから、つまり は、意識されない情報も、記憶のなかにくりこまれるということになる。そこでもっとも簡単な いい方をすれば、見たり、聞いたり、さらにそのほかのあらゆるかわ
によって感知され、これらを
新しい事態が発生すると、われわれの感覚器官は、その事によってひきされた
送り、脳はこれらの信号を感知することによって情報を得る。 これは、いうなれば「外部情報」 というべきだろう。
つぎに、脳は、以前から持っていた記憶を「内部情報」としてひきだし、外部情報と照らしあ わせることによって、はじめてこの事態を判断することになる。だから、もし、われわれが 生まれてからこのかた、ずっと感覚器官のはたらきが不完全であったら、われわれの脳のなかに ある記憶は非常に貧弱なものとなり、したがってわれわれの判断は正確を欠くことになる。だか ら、感覚器官の錬磨洗練ということは非常に大切なことであり、このことはあとになって関連す ることが出てくるから、よく記憶しておいてほしい。
さて、そこで、今までのところを総括すると、こういうことになる。
刺激(経験) 知覚情報
意識されない情報」 意識された情報
記憶
前世の記憶
では、記憶は脳のどこにたくわえられるのであろうか?
それは、大脳の側頭葉と、海馬を中心とした領域でなされるようである。
そこで、
実際に、海馬や側頭葉がこわされると、いろいろな型の記憶障害がおこることが、動物や人間 についてたしかめられている。また、側頭葉の電気刺激で過去の体験を再現することに成功した ペンフィールド博士の実験(旧)や、ネズミの海馬をこわすと判別能力がわるくなるという 条件行動の実験も、側頭葉や海馬が記憶やそれにもとづく判断のはたらきに直接関係しているこ とを示している。ただし、それは、側頭葉と海馬だけが記憶の貯蔵所という意味ではなく、記憶 はある程度、脳全体に分布しており、側頭葉と海馬は、その中心としてはたらく機能を持ってい る場所であるというように考えられている。
側頭葉は記憶の機能に密接な関連をもつ。記憶に、海馬を中心とした辺縁系が重要であること は前にものべたが、それを含む側頭葉切除では、古くたくわえられた記憶は失われないが、新し い情報を記憶に組みこみ、早期にそれを固定し、必要に応じてそれを引き出して用いるはたらき <記銘と回想)に重要な障害をきたすことが、脳外科的手術の経験の増すとともに確かめられた。 前頭葉の破壊によって古い記憶障害されにくいところをみると、記憶は広く全脳にたくわえら れるものであって、側頭葉はその出し入れと照合(解釈)に主役を演ずるものらしい』(脳のはた らき・島崎敏樹 宮坂松術著) そしてそれは海馬もおなじようなはたらきをするものと考えられる。 『記憶は多分、視床の連合や、大脳皮質では第二次運動野、第二次知覚野および連合野でたく わえられる。 触覚性の行動の 身体の部分に対応した 、
また、側頭葉表面の刺激で、短期記憶がさまたげられることや、見れているものが自覚的 初めて見るごとく感じ(未体験)、または反対に、これまでに見たことのないものが、以前に 見たごとく感じる(既視体験など、側頭葉と記憶との密接な関係はよく知られているところで あるが、刺激によって長期記憶を再生するのも側頭葉であるが、それは多分、側頭葉深部の 海馬が刺激されて、記憶貯蔵所を興奮させ、記憶されたときと同様な型の興奮を生じ、記憶が再 生されるのである。海馬を中心とする大脳辺縁系のニューロンは、知覚系、 運動系、覚醒系、動 制御系その他の機能系を連合して記憶と結合する道であり、記憶をたくわえ、または再 生する有力な道である』(脳のはたらき・吉井直三郎著)
記憶の所在は、粗大な分類にしたがえば、大脳皮質と間脳との間の広汎な領域にある。 その領 城の神経連鎖にニューロンの活動の型が記憶として残されるのであろうが、これを細胞レベルで 考えると、運動系、知覚系、覚醒系、睡眠系、動因系、制御系のいずれにあっても、その主回路 他にあると考えられる多数の副回路のなかに反射化された学習回路が残されるのであろう。 そ 故、大脳にひろく記憶が保持されているといえるであろう』(脳のはたらき 吉井直三郎著) 以上の専門学者の説明を参照した上で、私の求聞持法の体験をあわせ判断すると、記憶の場 半球内側面で間をかこむ部分、つまり「帯状回」のあたりであると私は思う。
私は、海馬それ自体の奥ふかくに、ごく古い記憶(深層記憶がたくわえられているものと信ず る。 それは、動物実験で、人間におこなわれた側頭葉表面の刺激(ペンフィールド博士の実験)と おなじ効果が得られることから、 それは、間違いないものと思われるのである。
すなわち、電極針を動物の頭のなかに入れて、海馬を刺激したとき、注意を集中する注意 集中反応 なにかを探索する探求反応が顕著にあらわれる。
これは何物かの記憶がよび起こされ、 "幻覚が起こったのだともいわれる」(脳のはたらき・島 敏樹宮松術著)のである。それはちょうど、 ペンフィールド博士の実験で側頭葉の表面に電 針をあてられた被験者が、なん年ものまえの出来事をそのまま想起してびっくりしている状態 そのものである。 そこで、この実験を動物ではなく、 なんらかの方法で生きている人間の海馬の 中心を刺激すれば、彼の前世、前々世の記憶がよみがえるのではないか?(教は特殊な方法で それをやるのである)
第一信号系と第二信号系
さてそこで、話は前にもどるのであるが、記憶のもとになる 「情報」に、二種類あることをさ きに述べた。
すなわち、意識された情報と、意識されない情報である。 これから、意識されない情報を第一情報"意識された情報を第二情報" とよぶことにする。 第一情報も第二情報も、ともに記憶 の で、この二つが記憶になるわけである。
ただし、第一情報と第二情報とでは、その記憶の場所がちがうのである。
第一情報は古い皮質の海馬の表面あたりに記憶される。これはどうしてかというと、海馬には 大脳辺縁系の中心で、本能行動、情動行動を支配する。 本龍行動というのはほとんど意識されな 行動である自律的なはたらきの領分であって、痛みや痒みなどの感覚にたいして、パッと無 意識のうちになされる動作のたぐいである。だから、情報も、無意識の情報はここに集まって、 それに対する反応も無意識のうちに対応されるように準備されるのだと考えればよい。
これに対して、第二情報は新しい皮質の側頭葉にたくわえられる。
脳の「解釈上の錯覚」について実験をくりかえしたウィリアム博士の実験により、側頭葉の全 領域が、ものの解釈をする部分であることがわかった。 この領域を刺激することにより現実のも の事の解釈のまちがいが生じ、この領域以外ではそういうことが見られぬことがあきらかになっ た。脳は、その一連の情報をまとめながら、過去の経験の記憶をひき出して適切な照合を行な 現在の経験を解釈して、状況に応じた適切な行動をおこさねばならない。この、記憶をひき 出し、現実を解釈する機能に側頭葉がもっとも重要な役わりをはたすわけで、ペンフィールド博 「解釈する質」とよんでいる。
一種の解釈であるのだ。 そこで第二情報は解釈する皮質である頭にされ、そこでに、多くくりかえされた記憶は旧古皮質の奥の海馬のほうに移っていってそこにたくわえられる ようである。ペンフィールド博士の実験でも、電気刺激をあたえた側頭葉表面の皮質を削除して も、そういう記憶はなくならなかったという報告があるから、上部(表面)の新皮質のほうに入 った記憶も次第に辺縁系のほうにしまいこまれてゆくのであろう。 それは、たとえば、タイプラ イターの練習などでもよくわかる。タイプの練習に際して、「上手になろうと思ったら、 キーボ ートは見ないほうがよい」といわれる。 最初、それにしたがって、「Aの字は? あれは下から 二段目の、一番左の端だったな。 小指で打つこと」などとアタマで考えながら打とうとす る。アタマというのは「新しい皮質」であるから意志的である。そして運動の皮質がはたらいて 小指を動かす。目は印字をよみ、その形を見て「たしかにAの字だ」 と判断する。 こういうこと
ん回もくりかえして練習していると、そのうちに、いちいちこんなことを考えなくても打 てるようになる。このことは、つまり、「新しい皮質」にたん回もん回もくり返して入れ たことは、だんだん「古い皮質」に入りこんでゆく。 そして 「本能的」にできるようになる、と いうことだ。自動車の運転などもそのよい例のひとつである。
この第一情報、第二情報を、脳の重要なはたらきである「条件反射」の理論に基づき、脳の第 一信号系、第二信号系として発表したのが、ロシアの有名な生理学者I・P・パブロフである。 つまり、第一信号系とは、第一情報のことで、意識されない情報を主にした、感覚器官からの そのままの情報である。だから、これは動物でも人間でもおなじである。
それがそのままのかたちで記憶されてゆく感覚そのままの旅の情報で、
れるものもあるが、多くは意識されないまま送りこまれる。 それに対する反応もまた無意識のま 反射的に送り出されることが多い。まぶしいという感覚にただちにクシャミが反応するという などその典型的なものである。 そしてそのとき、まぶしくてクシャミをしたという経験(情報) は、そのまま記憶になる。
これに対し、第二信号系は、人間にしかない。なぜかというと、この信号系はコトバによって 成り立つものだからである。 第二信号系は、感覚器官からの情報をいったん意識を通してコトバ でひとつのかたちにまとめた情報である。ナマの情報ではない。そういうかたちにして記憶領域 におくりこんだり、論理的判断、思考をする機能である。
人間の知的進歩は、コトバの発見によるこの第二信号系の発達によるもので、 これあるがため に、人間は、外部のあらゆる雑然たる情報を、自分の内部で、論理的、系列的、抽象的におきか えたり、積み重ねたり、他にそれをつたえたりすることができるようになったわけである。
しかし、もちろん、こういったからといって、この二つのものは、おのおのべつべつに動いて いるのではなく、この両者がそれぞれ独立しているというのは、相対的な意味においてであっ で、第二信号系はコトバ、第一信号系は感覚として、両者は結局第二信号系にみちびかれる完全 にひとつのものとして一緒に活動しているのである。そこで今までのところを総括すると、こう
いうことになる。
刺激(経験)―知覚情報 1意識されない情報第一信号系旧古皮質の大脳辺縁系 意識された情報第二信号系新皮質の側頭葉
海馬(記憶)
密教は第三の信号系を持つ
さて、今までは、もっぱら、「大」の面を考えてきたわけであるが、今度は入ったものをも とにしておこなわれる「出る」のほうを考えてみなければならない。
われわれがひとつの出来事に直面して、 それに対し、判断したり、計画を立てたり、行動をお こしたりするのがアウトプットであるが、それはどのようにしておこなわれるか?
今までにうけ入れてあるすべての情報、できるだけして、それをもとに、判 断 決定 行動の材料にするわけである。だから、このいちばん重要なことは、その材料が豊 富であることである。判断はそれが貧弱なほどあやまりをおかしやすいし、豊富なほど正しい判 断をする率が高い。ちょうど、むずかしい局面に直面した棋士が、過去に記憶(経験したすべ
定石や変化を思い浮かべて、それをもとに、もっとも有利で正確な手を打とうとするのと同 じことで、そういう場合、力の弱い者ほど経験(記憶)が少ないということである。この場合、 経験というのは、長年たくさん数を打っているというだけのことではなく、どれだけ定石やそ の変化が頭に入っていて、必要に応じてそれがきれるかということである。
いせつなことは、できるだけくのをき
信号系の記憶を可能なかぎりひき出す、 つまり思い出すという作業である。 ところがこの作 の難点は、第一信号系の再生である。 第二信号系のコトバによる記憶は比較的 (比較的であ 容易であるが、第一信号系の記憶は非常にひき出しにくい。というのは、第二信号系の記憶 は、一応、コトバによって整理されたり統合されたりしているから、それに対するテーマが決定 すれば、それに関連して系統的に、論理的に出してくる可能性がつよい。 中山正和教授によれ ば、それは「線の記憶」 カンの構造・中山正和)であって、連絡しているからである。 これに対 し、第一信号系の記憶は点の記憶で、脈絡なしに断続的に入ってきたものであるから、つながり がない。 しかし、情報源としては第一信号系の方が圧倒的に多いし、また、昼だけではなく、質 的にも非常に役に立つ場合が少なくないのである。
ことに、なにか新しい事物を創造するという場合にそのことがいえる。 創造には飛躍が必要で あるが、飛躍とは論理や論理的思考の積み重ねだけでは得られないもので、論理や説明をはなれ たところから生ずることが多い。ただし、論理をはなれたといっても全くはなれてしまうのでは なく、ひとつの主要目的はたえず追いつづけながら、一方でそれに関連するなにかのすべてを模 してゆくということであり、それがどこかで交接触した刹那、ひらめきが飛んで、それがつ まり、ひとつの創造か、創造の種子が芽生えたということなのだ。これは、記憶再生の場におき かえていうと、第二信号系が絶えず第一信号系の記憶をまさぐりつつ、からみ合いつつ創造を目ざして進んでゆくすがただということである。
よく、直感とかインスピレーションとかいうけれども、それはよくしらべてみると、第一信号 系の情報記憶とむすびついて生じたことが多いのである。 第一信号系は、脈絡がなく、意識され ていないから気がつかないだけのことなのだ。もっとも、このことは、あえて創造に関すること だけにかぎらず、すべての発想に際してあてはめられることといわねばならない。
ところで、この発想の作業は、考えてみると、すべての記憶を思い出そうという意志が、第二 信号系とむすんで、第一信号系の記憶、ならびに全脳にわたる記憶の領域を、その表面から深部 にいたるまで掘りおこそうというのである。それは新皮質である側頭葉の表面から次第に内部 におよんで間脳、帯状回の中間皮質から、 旧古皮質の中心、海馬にいたるまでの全領域にわたっ ての作業ではないか。まことに気の遠くなるようなこの作業が、 それではいったい通常どのよう にしてなされているのかというと、それはまったくその人の脳の自動的な機能にまかせておくよ りほかないのである。
ということは、それがうまくゆくかどうかの決定は、そのときそのときの運次第か、または、 そういう作業が先天的にすぐれているか、おとっているかという、つまり「素質」の問題になっ てしまい、最後はその人間の頭がよいか悪いかというところに帰着してしまうということではな いか。おそらくは最終的には運と素質だということになるのだろうが、しかし、まるでツルギの わたりのようなこ とができて、第一を自由自在にコントロール
第二信号系がコトバを使って第一信号系を自由に構築するごとく、ある力をつかって、一 号系、第二信号系の記憶を、海のふかい奥から発掘してきて、自由に構築することができた としたら、その力に属するあたらしい系は、いったいなんと呼ばれるべきであろうか? それは まさしく「第三の信号系」と呼ばれるべきものではなかろうか?
だが、ひとは、そんなことは不可能だというであろう。
が、宗教はそれをやるのである。それをやる”ある力を持っているのである。すなわち、密 教は「第三の信号系」を持つ。
頭のよいことが、 ぜったいに「素質」だけによるもので、ほかになんのなすべき方法がな いというのであったら、求聞持法の出る幕はない。しかし密教は求聞持法を持つ。頭のよいのは 「質」だけではなく、この技法によって訓練すれば、それは得られるということである。
その技法の原理を知るためには、もうひとつの記憶のメカニズムを知ることが必要である。 そ れを説こう。
I believe
物理学の天才博士よ、 おなじく丁博士、また、すばらしい感覚の十二行詩を書く詩人A君、 おなじくつぎのノーベル賞作品を書くであろうといわれているH氏よ、さてまた華麗なるコンチ フェルトを得意とする作曲家のG君、企業の天才Z氏、その他すべてのエリート諸君、私は諸君に 警告する。諸君は、知識欲旺盛な若ものたちに頭から食べられてしまわぬよう、至急ガードマン の手配をせよ!
諸君は、現実に近い未来において、モリモリと頭から喰われてしまう恐れが多分にあるので す!
実際に、この私だって、いつなんどき、あなた方のなかのある人をふと食べてしまおうかと思 い立たぬともかぎらないのだ!
おそろしい世のなかになったものである。だれかの脳髄を食べてしまうことによってその人の 頭のなかにある記憶をそっくりこちらにいただいてしまうことができる可能性が発見されつつあ る。人なみすぐれた脳を持つ者は、いつなんどき誘拐されて、その脳を抜きとられてしまうか知 れぬ恐怖に、うかうか町も歩けぬことになる。アイデアにゆきづまったり、試験に落ちてばかり いることから抜け出すために人の脳をねらう殺人者で地球はおおわれてしまうかも知れない。 まくやって世界的なを手に入れしかしまた。 そんな血なまぐさい事件は警察にしっかりたのんでおいて、たのしいレジャーに 応用することもできる。 百獣の王ライオンになってジャングルをさまよい歩いたり、巨大な畑へ どになって、熱帯の樹の上で居ねむりする感覚や記憶をたのしむこともできる。
さて、本題にもどろう。
いや、これは決して空想小説ではない。脳の記憶の構造をしらべているうちに、じっさい 科学者たちはそれが実現する可能性につきあたってびっくりしたのである。
われわれの日々の体験、いいかえれば情報"だが、これは脳の一部に痕跡として残り、痕跡 は反復によって強められる。これを「記銘」といい、記銘されたものは必要に応じて再現も、想 起することもできる。 この生体の仕組みを「記憶」といい、反復によって記銘を強めることを 「学習」するという。 以上が、記憶というものの一連の作業のすがたである。 では、記銘はどの ようにしてなされるか?
大脳皮質頁の図の太線で示された「新しい皮質」と、斜線で示された「古い皮質」の、厚 ミリメートルの表面には、約一四〇億の神経細胞(ニューロン)がぎっしりとならんでい る。 次頁の上図はひとつのニューロンであるが、これらは、 模式的に書くと下図のように、おた がいがからみ合っている。 その仕組みは、最初のニューロンの樹枝状突起(デンドライト)に、受
容器または他のニューロンにつながる神経線維からひとつの情報パルスが入ると(頁参照)、それによって細胞体の電位がわずかに変化する。 細胞にはたくさんのデンドライトがあり、ひと つのデンドライトにはたくさんの神経線維がつながっているので(このつながりのところがシナブスである) (頁参照)、この細胞体にあたえられるパルス電圧はプラスであることもマイナス であることもあるけれども、とにかく合計してある電圧にまで高まると、はじめてこの細胞体は 輪に一発のパルスを送り出し、これが、つぎのニューロンのデンドライトにつたえられる。こ のようにして情報はつぎつぎと のに亡くなった偉大な神経生理学者、シェリントンにとって、脳はとてつもない配電盤であった。 彼と彼の後継者たちは、脳を電気的な面からだけ理解しようと努力した。記憶の保持は、モール 信号のように情報をつたえるパルスの行列が、複雑な神経細胞の連鎖がつくる回路のなかを無 に廻っている状態だと考えられた。そうして、想起とはそれが必要に応じてとり出されること だと考えた。しかし、現在は、きまったパターンの回路を、パルスがいつでもすぐに廻りうるよ うになっている状態だと考えられている。
そのためには、回路を組立てている神経細胞連鎖のシナプスが、ほかのシナプスよりも、パル スをより伝達しやすいようになっていなければならない。 つまり、シナプス抵抗の減少である。 この仕組みについて、いくつかの考えが出されている。
まず第一は、あるシナプスをパルスがたびたび通ると、そこに構造的な変化がおこるだろうと いうのである。ちょうど、筋肉をきたえると、筋肉細胞が肥大するように、シナプスを形成して いる神経線維の末端の終末ボタンが大きくなったり、数がふえたりして、その結果、シナプス抵 抗が減少するというのである。この考えを支持する事実として、近年、ヘップ (D.O. Hebb) た ちが、刺激によってニューロン終末ボタンの数がふえたり、大きくなったりする現象を報告して いる。
第二は、シナプス伝達の実体であるアセチルコリンのような伝達物質が、よりたくさん分泌さ
れるようになるのだろうという考えである。 最近、シナプスに、電気刺激によってパルスをたく さん送りこむと、シナプス前部膜にある伝達物質をふくんだシナプス小胞が、膜の表面に移動し てくることが観察されている。 また、その逆に、ウサギの網膜で、双極細胞と錐状体、杆状体(光
容器との間のシナプスにあるシナプス小胞が、数日間完全な暗闇におくことによって減少 するという。脳のはなし・時実利彦著) つまり、 シナプスをたびたびパルスが通ると、より多くの 伝達物質が分泌されるようになるから、シナプス伝達の抵抗は減少することになるわけである。 こうして全く電気器機だと考えられていた脳は、次第に化学の面から見直されるようになって
ことに、分子生物学の進歩によって、遺伝情報が分子の長い鎖状高分子にきざみこまれている ことが明らかにされた結果、記憶もまた分子のなかにたくわえられているのではないかという考 え方が出てきて、それがひろくとり上げられるようになった。
RNA (リボ核酸、リポースを含む核酸で、タンパク質と結合して細胞質中のリポゾームの重 要成分をなし、タンパク質の合成に関係がある) がその問題の分子であるという考えを、スウェ ーデンのホルガー・ヒデン教授が発表した。
教授は、いろいろな行動を学習したネズミの脳をとって分析したところ、学習したネズミはし ないネズミにくらべて、神経細胞中のRNA量が増加し、核RNAのアデニンとウラシルとの比 増加していることを発見した。
る。さらに別の実験では、迷路を刺激された神経細胞はRNAおよびタンパクが増加し チトクローム酸化酵素の活性も増加するが、神経細胞に接して存在するニューログリア細胞では 反対の傾向がみとめられた。 それゆえ、もしこの変化が記憶痕跡をつくるのに関係するものであ れば、神経細胞とニューログリヤ細胞は一体となって、記憶をつくるのに参加していることにな
冷却、ショック、薬品、その他多くの手段をつかって、脳の電気的活動を一時的に停止させた のちも、記憶がさまたげられないで残っているということが実験でたしかめられた。このことは 記憶の究極の本質が、電気的なものではなくて、化学的なものであるという考えをつよく支持す 基礎になっている。けれども、電話のダイヤルをまわすときに電話番号をちょっとおぼえるの に使うような短い記憶は、本来、電気的なものであろうと考えられている。この種の記憶は、た いてい、すぐ消えてしまう。(ただし無くなってしまったのではない)もしそうでなかったら、 われわれは、どうでもいいようなこまごました記憶の大群のなかで、にっちもさっちもゆかなく なり、必要な情報など見つけ出すことができなくなってしまう。
動物について行なわれている多くの実験は、"記憶" が長期的な記憶にプリントされるに は数時間かかることを示している。 学習がおこなわれても、脳の神経細胞ですぐに長期的な記憶 がつくられるのではない。記憶ができるためには一定の時間が必要であって、もしこの間に脳の
神経細胞に混乱を生じるような活動をおこすと、記憶は固定されないで消えてしまう。 記憶の固 定時間が必要であるということは、記憶痕跡をつくるのに物理化学的なメカニズムがはたらい ているということである。学習直後は、学習に参加した神経回路のなかを、まだパルスが循環し ていると考えられ、それが短期記憶である。 固定に必要な時間が経過したのちに短期記憶が長期 記憶にかわるのであるが、もしこの間に脳に電気を通して学習回路の興奮がみたされると、 学習 効果が残らないで、長期記憶ができない。要するに、記憶の跡”は、最初は電気的な形で維持 されるが、最後には、永久の記憶として、化学物質のかたちで貯蔵されるということである。
たしかに、分子レベルで記憶が貯蔵されるという考えかたによって、はじめて、人間の知識や 事実を記憶する莫大な能力を説明することができる。 コンピューターがひとりの人間の記憶に対 抗するだけの記憶をもつためには、地球の全表面にひとしい面積の磁気テープを必要とすると推 定されている。
「分子神経学」という、まだあまりなじみのない名称が、MITのフランシス・シュミット によって、この新しく生まれた分野に名づけられた。
記憶に対する化学的なアプローチがつぎつぎとはじまった。
そのなかで、まず、テキサス大学のロバート・トムソンと、ジェムス・V・マッコーネルがあ たらしい道をひらいた。
脳とよべるたぐいのものを持つ最も単純な生物である。だが、分割して分かるような生 のなかでは、最も複雑な生物である。 一匹を二つに切ると、頭の方に新しい尾が生ずるばかり か、尾の方にも新しい頭が生じてくるという生物である。
トムソンとマッコーネルは、光または音と電気ショックを使って防御条件反射をつくった。 プ ラナリアは光をあてただけで縮むようになった。 光は、"あとからショックがくるぞという意 味であることを、プラナリアが学習したことはあきらかになった。次いで、学習した経験を れるようにしたあとで、前より少ない訓練でふたたび覚えるようになることを確認した。
そこで、この訓練したプラナリアを二つに切り、その両方を再生させた。その結果、頭の方の 半分から再生されたプラナリアが、以前より少ない訓練でふたたび習得したばかりか、尾の方の 半分から再生したものも同じように習得した! 脳を持っていないほうに、どうして記憶が残っ ていたのであろうか?
さきに述べた通り、DNAのなかに遺伝の情報がたくわえられるとおなじように、RNA分子 のなかに記憶がたくわえられるのではないかという考えかたが、すでに、ホルガー・ヒデンによ って発展させられていた。
そこで、 ロチェスター大学のコーニングとジョーンは、訓練されたプラナリアを二つに切り、 RNAを分解する酵素 リボヌクレアーゼの溶液中で再生させてみた。すると、頭のほうから再
生させたプラナリアには記憶が残っていたが、尾の方から再生したプラナリアには記憶がぜんぜ ん残っていなかった!
それでプラナリアの尾部に残っていた記憶物質は多分リポ酸(RNA) であって、これが尾部 から頭が再生するときに記憶物質が頭へ移らないで、分解酵素によって破壊され、記憶を失った のであろうと考えられるのである。 しかしまた反対意見がないでもない。このことがただちに、 RNAが記憶をたくわえている証明にはならないというのである。RNAは刺激としてはたらく に過ぎないといっている。
けれども、これらの実験によって、記憶に関連して、RNA問題が非常に興味ぶかくなってき たのはたしかである。
その後、これらのチームは様々な実験をしたが、もっともセンセーショナルな結果は、学習し プラナリアをすりつぶして、学習していないプラナリアにたべさせると、学習していない動物 に記憶をつたえることができたという報告である。 食べたほうは、食べられたほうの記憶を実際 獲得したのであろうか?
G・R・ティラーは、この例を報告したとき、こういうユーモアをとばしている。
「心理学の先生たちは、なかばまじめに、クラスの生徒たちが教師を食べて、必要な学を学ぶ 日を心にえがいた」
おなじように、KN A
て皿に近づき、餌をとるが、第二群のネズミは光に反応して近づくようにして 群のネズミの脳からRNAをとり出し、学習していないネズミにあたえた。第一群のネズミの脳 のRNAを腹腔内に注射されたネズミは音に対してつよい反応を示したが、光にはそうではな く、また、第二群のネズミの脳のRNAを注射されたネズミは光に対して特に反応したが、音に たいしては注意をはらわなかった。
また、ガンの薬(8アザグアニン)をあたえると、これがRNAにとりいれられて、RNA 生物活性を失い、その結果は、動物は新しい学習ができないという報告もある。 この場合、古 記憶は残っている。
ヒトにおいては、つぎのような報告がある。 なにかの原因で脳がきずつけられると、それが原 因となって、てんかんがおきることがある。 このはてんかん焦点とよばれるが、その部分を切 とっても、てんかんはなおらない。その理由は大脳半球の一側にある焦点から常にパルスを送 っていると、対側の半球の対称の点にもてんかん焦点ができるからであって、これを焦点と いう。この さて、この焦点はその周囲 点もいっしょにとり除くとてんかんはなおる。
の組織にくらべていちじるしくRNAが増加しているのである。この現象は、いいかえると、い つもパルスをうけて、てんかんの鏡像点がつくられるということは学習の単純化されたモデル とも考えられるのであり、そこにRNAが増加するということは、学習とRNAとの関係を示す
しょうこがヒトでも得られたということになる。また、記憶障害のある脳の病気の患者にRNA
イーストの形であたえて、記憶がよくなったという報告もある。
またジャコブソンは、学習させたハムスターのRNAをネズミに注射したら、ネズミの学習行 動は改善されたと新しい報告をしている。
すると、記憶は種を越えて移ることができるのだろうか? 記憶はあらゆる生物を通じて同一 の符号でつづられているのだろうか? タンパク質合成の際の遺伝暗号は、動物界を通じて本質 的に同一と見られるが、記憶もまた、おなじように普遍的なものなのであろうか? そうだとす ると、ライオンの記憶を持ちたいときにはライオンの脳を食べればよいが、同時に、 子豚の脳を 食べることはあまり賢明なことではないということになる。
もっとも、記憶に関係する分子が、消化作用をのがれてそのままで残るということはプラナリ アでは可能かも知れないが、もっと高等な生物ではできそうもない。
しかし、いずれにせよ、結論は、記憶をつかさどる物質が存在することを示している。ただ、 それがRNAであるかどうかはまだはっきりしていない。実際のところ、いまの段階では、 記憶 はある特異的なタンパク質にきざみこまれている、と考えるのが真実のようである。神経細胞 が、他の細胞よりもずっとはやくタンパク質をつくり出すことは以前からよく知られていること だ。ある学者は、記憶をのこす物質は、小さな可溶性タンパクまたはペプチッドであり、分子 五千程度であるから、NAではないだろう
おけるリが記憶物質であろうとしている。
記憶物質がなんであるか、まだ明らかではないけれども、それは次の性質を持った物質で
ればならないと、大阪大学の吉井直三郎教授は指摘する。
1、記憶体験によって分子の状態が変わることができるものである。
2、記憶が証明されるかぎり、その物質は証明される。
3 これが破壊されると記憶が失われる。
私は思うのだ。
以上の条件をみたさなければ記憶物質とはいえないのであるが、そのような物質はまだ知られ
科学が、脳のはたらきについて脳それ自体にのみ目を向けているあいだは、いくらしらべても おそらくそれを知ることはできないであろう、と。
脳は非常に複雑なはたらきをする化学装置である。 最近ようやく知れわたってきたことである が、脳の各部はそれをひたしている液体中の物質の影響に敏感に反応する。 脳をひたしている 体中のなかには、特殊な化学物質、 ガングリオンド、セレブロンド、スヒンゴミエリンその他ま だよく成分のわからない物質がいくつもふくまれており、それらのはたらきはまだほとんどわか っていないのだ。脳はこういう未知の成分をたくさんふくんだ液体につつまれているのである。 そうしてその液体の持つさまざまな成分に敏感に反応する。それだけではない。脳はその反応によって、脳自身さまざまな神経液を分泌する。 それらの成分の化合や反応については全く知られ,
私は思う。脳の実質やそのなかでおこなわれている変化だけをいくらしらべても、脳の本当の はたらきを知ることはできぬ。脳をつつんでいるこれらの液体の成分の作用、脳の特殊な部分か 分される分泌液に着眼せよ。そこに脳の秘密がある。 げんに、ある著名な研究グループは、 ある脳細胞が脳のべつの部分を刺激したり、 鎮静したりする制物質や、あるいは神経液を分泌 することについて報告している。 ここにひとつの神秘を解くカギがある。
脳の専門家でもない者がなぜそんなことをいえるのだ、とあなたはいうのか?
教がそれをやっているのである。
密教はそういう物質がどういう化学成分で成り立っているのかということをあきらかにする技 は持っていない。 しかし、その物質を脳のなかにつくり出して、それを利用する技術は持って いるのだ。その特殊な脳の開発技術こそ、求聞持法にはじまる密教の一連の秘密技術なのだ。 では、その密教の秘密技術とはどんな技術か?
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