北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<22>

2008-03-08 22:27:17 | Weblog

PCの故障で連載を中断していました。2日分づつ書いていきます

1972・9・7(木) 曇りのち晴れ デモイン

(アイオワ州)

午前8:00起床。簡単な食事のあと、卓球で体ならし。9:30からプリマスプレイス(老人ホーム)見学。円形の12階建ての近代的な建物で、要するに老人専用のアパートメントハウスだ。建設費195万ドル(6億円)で、州からのローンのようなものを借りている。

緑も多く各階からの眺望も素晴らしい。198室あり、シングルルーム、ダブルルームがある。1か月最低が78ドル、最高が120ドル。68歳以上なら入居できる。男性40人、女性158人が入居している。毎週、曜日を決めて、読書会、お花、裁縫など勉強や趣味の会を行っている。ビリヤードなどもできる。部屋には管理室と話ができるようにインターフォンがあり、緊急用のもある。日本でも、このようなものを建ててみてはどうだろう。

お昼は、Mrs.Bakerの家に招待される。ビール、パン、サラダ、キュウリの酢の物などが旨い。久しぶりに食事らしい食事だ。家はゆったりとして大変広い。ご主人はIBMのシステム・プログラマーで社長。日本にも大変興味があるらしく、こけし、銚子、お雛様などが飾ってあった。

その後、市役所へ。ここでは、リンカーンやワシントンが今に生きている。リンカーンの「-and that government of the people ,by the people,for the people,shall not perish from the earth.」(-そして、人民の、人民による、人民のための政治は、地上から決して滅びない)という言葉や、議会の正面にはリンカーンやワシントンの写真が飾られている。また、壁面を上手に利用して図書館に活用していて、本がギッシリと詰まっている。日本にもあるかもしれないが、なかなかいいアイデアだ。

フリータイムはデパートへ。カメラのフラッシュが調子悪く、カメラショップを探したがない。酒屋を、やっと1軒見つけて、男6人でpassport(5ドル35セント)を買った。夕食は、中国料理店でチャーシューメン(1ドル65セント)。ライスはオムレツみたいだ。夜は酒盛り。ここでの3日間も、大変お世話になった。日記を書いて11:30就寝。  

       ☆       ☆              

          終の棲家

今や日本は世界一の長寿大国であり、2001年の平均寿命は女性84.93歳、男性78.07歳である。今世紀半ばには少子高齢社会が更に進み、3人に1人が65歳以上になると予想されている。私たち夫婦も60代半ばになり、この先の「終の棲家」を現実のものとして考えるようになった。35年前に見たアメリカの施設は、街の中の素晴らしい環境にあり、漠然とだが「年をとったら、こんなところに住むのもいいなー」と思った。

日本では、公設の高齢者用の施設が足りず、民間の高齢者用賃貸マンションが次々に建設されている。この種のマンションは、かつては入居の際に何百万単位の保証金を必要としたため、一部の富裕層にしか手が届かなかったが、最近は札幌あたりでも僅かな保証金と月々の家賃を年金で賄える程度のマンションが増えている。

私の知人も、100戸の賃貸マンションを2棟建てたが、いずれも即満杯になった。その秘密の一つは、病院が経営しているということだ。病院が近くにあるので、入居者に対してキメ細かな健康管理ができる体制になっていることが、大きな魅力になっている。各種の趣味を楽しめるように多彩なプログラムも用意され、お年寄りたちの明るい笑顔が広がっている。人気が高いことから、今後も、引き続き建設していく予定だという。

私たち夫婦も、将来的には、そうした生活を志向していきたいと考えている。新潟県中越沖地震では、亡くなった11人のうち、10人が70歳代~80歳代の高齢者で、一人暮らしのお年寄りもいた。これからは、一軒家や持ち家ということに拘らず、年代や家族構成に合わせて住み替えるということを考えてもいいのではないか。

    ☆          ☆       
      
1972・9・8(金) デモイン→オマハ
(ネブラスカ州)

午前7:00起床。K君に起こされる。昨夜のうちに荷物を整理したので何も用意しなくてよい。朝食は、ミルク(15セント)だけで済ませる。タクシーでバスターミナルへ。途中、バス・デモで、第二分団の仲間たちと思いもよらぬ再会。3時間半でオマハ(ネブラスカ州)に到着。

ホストファミリーは、Mr.Arnold Jonson宅。ここでは一人で泊まる。ご主人はエンジニア。3人の子どもさんがいるが、みんな結婚している。大学生でも、結婚している。つい、2か月ほど前に結婚したという。軽い昼食の後、「ボーイズタウン」へ。

ボーイズタウンは、恵まれない子どもたちのために1917年に建てられたもの。今では、広大な敷地に3,000人の子どもたちが教育を受けている。日本にも是非、このような施設があったらいいと思う。広い土地がある北海道であれば、このようなプランを実現することができる。ぜひ、提案してみたい。

その後、アメリカで8番目に大きいというショッピングタウンに寄って帰宅。夕食はご主人と一緒に屋外で食べる。ビールを飲む。大統領選挙では、ニクソン支持者で、ケネディよりも良いという。ケネディは失敗したが、ニクソンには失敗がなく、内政面では人気があるということらしい。ケネディは外国で人気がある。選挙事務所が見たいといったら、一生懸命探してくれて、明日、リンカーンの市役所と、ニクソン陣営の作戦本部に連れて行ってくれることになった。ここは、度胸だ、どこへでも行ってみることだ。どんな収穫があるか分からないから。

昼食後、近くの公園を散歩する。近くにミズリー川が流れていて、実に美しい眺め。車で移動中、オマハの歴史について語ってくれた。ミシシッピー川に橋を架けたのはオマハが最初だった。従って、鉄道も一番初めだった。人口の10%は黒人だ。ホームスティ先に帰ってきて、ワインを飲みながら、テレビでオリンピック観戦。日本がバレーボールの準決勝でポーランドに勝つ。シャワーを浴びて、寝る。ここのご夫婦もなかなか楽しい。明日から、どんな体験が出来るか楽しみだ。

    ☆            ☆            

  第35代アメリカ大統領 ジョン・F・ケネディ

ケネディほど、世界に影響を与えたリーダーはいないかもしれない。1961年、43歳という若さで大統領に就任し、その就任演説は時代を変えたと言われるほどの名演説として語り継がれている。

「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」(アメリカ国民諸君、諸君の国が諸君のために何をなしてくれるかではなく。諸君が諸君の国のために、何をなしうるのかを問おうではないか)。いわゆる、「アクティブ・シチズン」ということだ。そして、こう続けている。

「My fellow citizens of the world. . .ask not what America will do for you, but what together we can do for the Freedom of Man.」(わが友である世界の市民諸君、アメリカが諸君のために何をなしてくれるかではなく、われわれが共に何をなしうるのかを問おうではないか!)

ケネディで思い起こすことの一つは、東西冷戦時代に西ドイツと東ドイツをめぐる第二次大戦の戦後処理をめぐる問題で、ソ連のフルシチョフ書記長兼首相と対立したことだ。ケネディが「西ベルリンを守り抜く」と決意表明すれば、フルシチョフは「ベルリンの壁」を建設して対抗した。冷戦時代のシンボル「ベルリンの壁」は、28年後の1989年に、ようやく破壊された。

キューバ危機は、世界を震撼させた出来事だった。1962年10月、アメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソ連がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影したことに端を発した。ケネディは海上封鎖を決断し実施に踏み切ったが、ソ連船が引き返したり、停船したりしたため攻撃をせず、危機一髪のところで回避した。

ベトナム戦争に関しては、正規軍派遣は国際的な反発を恐れ、軍事顧問団として就任時に4,000人を派遣、2年後には15,000人に増やしていた。一方では、撤退を模索していたとも言われる。ケネディの平和戦略と言われる基本的な考え方は次のメッセージによく表れている。アメリカン大学の卒業式において行った「平和のための戦略」という演説の一部である。

「私の言う平和とは何か?我々が求める平和とは何か?それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制される『パックス・アメリカーナ』ではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略)ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。

(中略)我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。

(中略)我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」

ケネディの政策や強いリーダーシップに対し、世界中でケネディ人気が高まった。日本においても、多くの政治家が尊敬する人物に挙げたし、当時、選挙の際に「○○のケネディ」というキャッチフレーズを掲げて戦った候補者が随分いた。あの中川一郎代議士(北海道5区)もその一人だった。

1963年、中川代議士は「道東のケネディ」というキャッチフレーズを謳い文句に初挑戦し、見事に奇跡といわれる当選を果たした。確かに、中川氏の風貌がケネディばりたったことや、38歳という若さだったこともあり、イメージが重なる部分があった。 

実は、中川代議士が当選したのは11月21日だったが、何と、その翌日、初めてのアメリカからの衛生中継の映像が「ケネディ暗殺」の大ニュースだったのだ。実に衝撃的だった。私が東京の大学を1年間休学し、郷里(中川代議士の選挙区にあった)で親父が経営する事業を手伝いながら学習塾を開いていたころで、今でも鮮明に思い出す。

1983年1月8日、最後の舞台となった札幌での「新年交礼会」の終了後、中川代議士から「ありがとう」と声を掛けられ、握手していただいた。北海のヒグマと親しまれ、温かい人柄の政治家だった。「北海道から初の総理・総裁を!」という夢は叶わず、誠に残念だったが、今、中川代議士の薫陶を受けた多くの政治家が日本の中枢で、そして地方政治の場で活躍しており、その政治的遺産は非常に大きなものがある。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)