1972・9・19(火) 晴れ
サンフランシスコ→ホノルル
午前7:00起床。いよいよ、サンフランシスコともお別れだ。女性リーダーのS先生、Kさんと一緒に朝食。土産店の江戸屋で、コインホルダーを再度買う。(ケネディのコイン35枚、アイゼンハワーのコイン20枚)、結局、日本円にして20,000円近くをお土産用に確保。
10:00集合。荷物をバスに積み込み、空港へ。トンプソン女史の見送りを受け、ジャンボジェット機内へ。Wさんと同席。さすが、ジャンボだ、400人は乗れるという。映画、音楽(ステレオ)、落語などを自由に聴くことができる。ただし、ホノルル-東京、香港-東京間は、協定によって、800円(2時間)を支払う。映画は邦画(家族)、洋画(野生のエルザ)の2本立て。約5時間でホノルル空港に到着。(時差3時間)
空からはダイヤモンドヘッド、マウイ島がクッキリと見える。きれいだ。ここには2時間だけの立ち寄り。女性にレイをかけてもらう。パインを食べ、絵葉書を買う。4:35離陸、いよいよJAPANへ。(日付変更線通過、時差5時間)午後7時到着予定。機内では、ほとんど寝られなかったので眠いこと。ジャンボは予定通り、東京へ。
1972・9・20(水) 晴れ ハワイ→東京
午後7:30到着。久しぶりに見る東京の灯だ。無事旅を終えて帰ってきたことは、実に素晴らしい青春の記念碑であると思う。「百聞は一見に如かず」、一度は見ておくべきところだ。
東京は、9月だというのに、まだ暑い。税関を通って出てきたのは8:30。実家に帰っていた妻が迎えに来てくれていた。久しぶりだったせいか、キレイに見えた。 5分ほど会って別れる。バスで、代々木のオリンピック青少年総合センターへ。9:30着。荷物は重いし、さすがに疲れた。風呂に入って寝る。明日は、いよいよわが家だ。
☆ ☆
飛行機での出来事
飛行機には、これまで幾度となく乗ったが、怖い思いをしたことが三度ある。一度目は、1987年5月、友人3人と、「おじさんたちの探検ごっこ」と称して、インド・タイ・ネパールへ行っての帰り。深夜の1時頃、デリーからバンコクへ向けて離陸しようとしたとき、突然、雷鳴が轟き、猛烈な雨が降り出した。いわゆるスコールというやつだ。
これは、しばらく飛び立てないなと思っていたら、多少遅れたが離陸した。すると、機体がガタガタと音を立てて揺れ、風がビュービューと吹き込む。窓の外を覗いても視界はほとんど利かない。30分ぐらい激しく揺れながらの飛行だったように思う。緊張して、ぐったりしたのを覚えている。
二度目は、やはり同じ年の1987年10月、友人と二人だけでソ連を旅したときのこと。ハバロフスクからイルクーツクへ向う飛行機に乗ったのだが、この機内が何ともオンボロなのだ。
カーペットは、ところどころ破れているし、座席のリクライニングは壊れていて、一度倒したら、なかなか起こすことができない。離陸したと思ったら、あちらこちらから風がヒューヒューと音を立てて入りこんでくる。こりゃ、大丈夫かなとヒヤヒヤしたものだ。
機内サービスも酷いもので、缶ジュースが配られたのだが、そのフタの部分は錆びついている。缶きりはどうするのかなと思っていたら、しばらくたって、前の方から1個の缶きりが回ってきて、使ったら手渡しで後ろへ回してくれという。全く驚いた。当時、ソ連では、同じ機種が多く飛んでおり、墜落事故が起こるたびに、「あの時、よく何でもなかったなー」と胸をなでおろしたものだ。
もう一度は、1993年1月、カンボジアPKO視察団に同行した帰り、香港から新千歳空港へ向っていたノースウエスト航空機でのこと。後部座席で寝ていたら、アナウンスがあって、起こされた。何かと思ったら、機内に油のような匂いが広がっていた。聞けば、どうも燃料漏れを起こしているらしいという。
全員前のほうへ移動するようにとの指示が出た。香港へ引き返すという。窓の外を見ると、どうやら沖縄上空辺りらしかった。さすがに、この時は家族のことや、色んなことが頭を駆け巡ったが、カンボジアには1,000万個の地雷が埋まっていると言われた中で、無事帰ってこられたのだ。こんなところで死んでたまるか!と思った。
香港に着くまでの時間が、長く感じたこと。幸い何事もなく無事着陸したのだが、空港には消防車や救急車が何台も待機していて物々しい光景だった。別便で帰ってきたが、実に疲れた旅だった。あのとき以来、もう飛行機には乗りたくないと真剣に思ったが、実際には、そうもいかず、結構海外などへも行っている。
(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
サンフランシスコ→ホノルル
午前7:00起床。いよいよ、サンフランシスコともお別れだ。女性リーダーのS先生、Kさんと一緒に朝食。土産店の江戸屋で、コインホルダーを再度買う。(ケネディのコイン35枚、アイゼンハワーのコイン20枚)、結局、日本円にして20,000円近くをお土産用に確保。
10:00集合。荷物をバスに積み込み、空港へ。トンプソン女史の見送りを受け、ジャンボジェット機内へ。Wさんと同席。さすが、ジャンボだ、400人は乗れるという。映画、音楽(ステレオ)、落語などを自由に聴くことができる。ただし、ホノルル-東京、香港-東京間は、協定によって、800円(2時間)を支払う。映画は邦画(家族)、洋画(野生のエルザ)の2本立て。約5時間でホノルル空港に到着。(時差3時間)
空からはダイヤモンドヘッド、マウイ島がクッキリと見える。きれいだ。ここには2時間だけの立ち寄り。女性にレイをかけてもらう。パインを食べ、絵葉書を買う。4:35離陸、いよいよJAPANへ。(日付変更線通過、時差5時間)午後7時到着予定。機内では、ほとんど寝られなかったので眠いこと。ジャンボは予定通り、東京へ。
1972・9・20(水) 晴れ ハワイ→東京
午後7:30到着。久しぶりに見る東京の灯だ。無事旅を終えて帰ってきたことは、実に素晴らしい青春の記念碑であると思う。「百聞は一見に如かず」、一度は見ておくべきところだ。
東京は、9月だというのに、まだ暑い。税関を通って出てきたのは8:30。実家に帰っていた妻が迎えに来てくれていた。久しぶりだったせいか、キレイに見えた。 5分ほど会って別れる。バスで、代々木のオリンピック青少年総合センターへ。9:30着。荷物は重いし、さすがに疲れた。風呂に入って寝る。明日は、いよいよわが家だ。
☆ ☆
飛行機での出来事
飛行機には、これまで幾度となく乗ったが、怖い思いをしたことが三度ある。一度目は、1987年5月、友人3人と、「おじさんたちの探検ごっこ」と称して、インド・タイ・ネパールへ行っての帰り。深夜の1時頃、デリーからバンコクへ向けて離陸しようとしたとき、突然、雷鳴が轟き、猛烈な雨が降り出した。いわゆるスコールというやつだ。
これは、しばらく飛び立てないなと思っていたら、多少遅れたが離陸した。すると、機体がガタガタと音を立てて揺れ、風がビュービューと吹き込む。窓の外を覗いても視界はほとんど利かない。30分ぐらい激しく揺れながらの飛行だったように思う。緊張して、ぐったりしたのを覚えている。
二度目は、やはり同じ年の1987年10月、友人と二人だけでソ連を旅したときのこと。ハバロフスクからイルクーツクへ向う飛行機に乗ったのだが、この機内が何ともオンボロなのだ。
カーペットは、ところどころ破れているし、座席のリクライニングは壊れていて、一度倒したら、なかなか起こすことができない。離陸したと思ったら、あちらこちらから風がヒューヒューと音を立てて入りこんでくる。こりゃ、大丈夫かなとヒヤヒヤしたものだ。
機内サービスも酷いもので、缶ジュースが配られたのだが、そのフタの部分は錆びついている。缶きりはどうするのかなと思っていたら、しばらくたって、前の方から1個の缶きりが回ってきて、使ったら手渡しで後ろへ回してくれという。全く驚いた。当時、ソ連では、同じ機種が多く飛んでおり、墜落事故が起こるたびに、「あの時、よく何でもなかったなー」と胸をなでおろしたものだ。
もう一度は、1993年1月、カンボジアPKO視察団に同行した帰り、香港から新千歳空港へ向っていたノースウエスト航空機でのこと。後部座席で寝ていたら、アナウンスがあって、起こされた。何かと思ったら、機内に油のような匂いが広がっていた。聞けば、どうも燃料漏れを起こしているらしいという。
全員前のほうへ移動するようにとの指示が出た。香港へ引き返すという。窓の外を見ると、どうやら沖縄上空辺りらしかった。さすがに、この時は家族のことや、色んなことが頭を駆け巡ったが、カンボジアには1,000万個の地雷が埋まっていると言われた中で、無事帰ってこられたのだ。こんなところで死んでたまるか!と思った。
香港に着くまでの時間が、長く感じたこと。幸い何事もなく無事着陸したのだが、空港には消防車や救急車が何台も待機していて物々しい光景だった。別便で帰ってきたが、実に疲れた旅だった。あのとき以来、もう飛行機には乗りたくないと真剣に思ったが、実際には、そうもいかず、結構海外などへも行っている。
(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)