美しい日本語を、ある、ない、とたずねているが、はたしてその意味は何だろう。思いやりのある言葉を3人に2人があげているのは、ほかの、挨拶の言葉、季節の移り変わりを表す言葉、という選択肢の選びようがあるからだろう。 控え目で謙虚な言葉を、3人にひとりがあげている。短歌俳句の言葉となると、普通に、美的観念のものとなるが、詞による芸術の美をどうとらえていると、限定される。季節の言葉となると、その語を連想して、まとめ作成に上がった美しい日本語のように、語とそのイメージを挙げることになる。そこには、故郷の言葉もあるし、漢語に求めるのは記憶する漢籍漢詩文の故事となる思いに、あるいは唱歌の思いに込められた言葉の数々は成長期の思いにもある。美しい言葉とはどのようなものかと聞けば、記憶にある言葉のイメージに情緒がともなう語句である。その原点にもなりそうな、素朴ながら話し手の人柄がにじみ出た言葉、故郷の言葉であるが、その思いが言葉の美しさをもってよみがえらない時代になったとでもいうのだろうか。 . . . 本文を読む
日本人が特殊であるかどうか、特殊に対する、何をもって普遍または普通とするかによるところ、日本文化論で特殊性を議論するものがある。そこには相対的、絶対的と視点を持った。絶対特殊性の認識をイデオロギーに、歴史的事実としたものである。その特殊性は日本を形成した、国家論あったはずであるが、近代が現代にいたる過程で変化し、相対的な特殊性を論じて日本人そのものの捉え方となる。日本の復興を驚異とする、あるいは脅威にも思わせる日本人の特殊性とは何であるかを解明しようとした議論である。その特殊性の論は1980年代の世界に起こったパラダイムシフトによる民族主義にあって情勢変化に吞み込まれてしまう形で日本人が特殊ではなく、経済大国、先進国、技術革新の先駆に位置するようになる。 . . . 本文を読む
神無月、朔。陰暦、10月の呼称は、異名になる。かみあり、かみなしの語源は有無を対比させた日本語らしい表現である。在りと表記すれば、もともと存在する。神の月と神が在る月との対比である。醸成を、かみなし、かみなん、と発音したものだろうか。自然変化をあらわす、植物のようすに季語が見える。 . . . 本文を読む