和語は倭語であった。日本国語大辞典に、>外国語に対して、日本の国語である日本語。その語彙には漢語などの外来の要素も含まれる。
*霊異記〔810〜824〕上・二八「吾が聖朝の人、道照法師〈略〉新羅に至り、其の山中に有りて法花経を講ず。時に虎衆の中に人有り、倭語を以て問を挙げたり」 と見える。その語の表記に、和を充てるのは、>名語記〔1275〕五「問、三十一字に旨趣をいひのへたるをうたとなつく、如何。答、うたは哥也。〈略〉漢朝には五言七言の詩頌をうたと申せる歟。たたおもふ事をいひのふるはみなうたなるへし。我国には、和語なれは卅一字、若は長哥といふものある歟」 とあるが、和歌のことを指す。その和語の表れると見える、ロドリゲス日本大文典〔1604〜08〕「Vago (ワゴ)、セワ、ヤマト コトバ、ヤワラゲ、カナノ コトバ」 として、和語の意味に、やわらげを言う。これは翻訳に相当する。それはまた、仮名文字であらわす言葉をさしていて、その見方は日本のやわらか詞に連なる。表記を倭語としたその時点で大和の言葉であったかどうか、和語とする書き換えはまた、それがロドリゲスが注するように、ヤマト コトバ であるわけであるから、和語の名称そのものは、漢字漢語に対するもの、ポルトガル語または伝来の語について、やわらげる、そして、それは仮名文字であらわされる語を指していた。 . . . 本文を読む
創造性はものごとを作り出すこと、その創造性が日本人にあるか、ないか。真似をする模倣性を日本人お代名詞とするような風潮があった。創造と独創のかかわりである。新奇で独自かつ生産的な発想を考え出すこと、またはその能力とする、以上の定義は、ニッポニカによる、この議論は、創造性についてはさまざまな研究が行われているが、いまだにその本態について明快な結論は得られていない、という解説となる。同上 日本人の創造性は認識されるまでに、創造そのものの議論があるようである。1979年、昭和54年に創立去れた日本創造学会があり、時代の趨勢に経済成長期後の動きがみられる。 . . . 本文を読む
語彙を定義して、説明すると、>単語の集まり。一言語の有する単語の総体、ある人の有する単語の総体、ある作品に用いられた単語の総体、ある領域で、またはある観点から類集された単語の総体など。単語を集合として見たもの。 日本国語大辞典 というふうになる。語の複数を捉えて、集合とした。その考え方が語彙論として展開する。語の集合には、体系をもって集合する場合がある。その体系を意味の分類によるとすれば、それは古来行われてきた語の分類体辞書がある。類義を集める類語の集合とする捉え方もできる。その語の集まりに対して、語のまとまりということができる。何をもって集まるか、何をもってまとまりとしうるか、それが議論となり、その結果が語彙の論としてある。 . . . 本文を読む