日本語を哲学する
哲学は希哲の学また希賢の学であったと、すると愛知の学また愛智の学であったわけである。それは翻訳のゆえであるから、その説明 . . . 本文を読む
雪のないスキー場、雪のない雪まつり、雪が降る所になくて、今日のような日には降雪を知らせる回りあわせ、天のなせるわざであるから、深刻な様相にもおてんとうさま限り、神頼みである、か。この異変は一方でまた、南半球のニュースによれば火災、森林火事に地球温暖化の禍を引き起こしているという。地表のことか大気の流れか13億もの小動物などのいのちがその森林で奪われていると伝える。これでは海洋の変化には台風シーズンの到来が危惧される。あと数か月、東京5輪騒ぎのころには、心配の種である。気候の推移は確かに自然を動かしている。 . . . 本文を読む
日本語哲学、哲学日本語、このふたつはどう違うか。同じだという人もいるかもしれない。日本語で哲学、日本語を哲学、といった語構成を捉えて、漢語の語順を意識することができるし、そうすると、哲学を動詞に読むことになって、哲学する、という読み方になるが、これもまた、哲で学ぶ、哲が・・・と、結局は学術、専門語ということで、定義を言ってしまえば、この論議は無用になる。何を言おうとするか、日本の哲学はすでに、哲学ありき、ということを前提としているから、その哲学なるもので、そこで行われる議論にするかどうかで決まっていることがある。 . . . 本文を読む