鼻が高いこと、修験・山伏のような服装、羽うちわなどの天狗の特徴のように思われていることは、近い昔に定着したもので、鼻の高くない白髪の老爺だと伝えられている地区もあると民俗学辞典にあります。鞍馬山の僧正坊(そうじょうぼう)、愛宕山の太郎坊、比叡山の次郎坊、飯縄山の三郎、大山の伯耆坊(ほうきぼう)等々、各地に大天狗がいて、讃岐・金比羅宮では神の使いとされていると、大言海にあります。
猿田彦の面(吉田神社仮御殿 本町2-3)
猿田彦は、天孫降臨のとき、天つ神(あまつかみ)である天照大神(あまてらすおおみかみ)が遣わした瓊瓊杵命(ににぎのみこと)を道案内した、国津神(くにつかみ 土着の神)だそうです。日本書紀によると、猿田彦は、「鼻の長さ七咫(あた)」「背(そびら)の長さ七尺余り」「口尻(くちわき)明(あか)り耀(て)れり」「眼(め)は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち 赤ホウズキ)に似れり」といった、天狗の相だったそうです。この姿などが、中国から来た「天狗(天の犬の意味で、流星(火球)のこと)」という言葉と結びついていったのでしょう。水戸では祭礼の先導役にたったようです。写真は吉田神社の秋季例大祭で本町の仮御殿前に置かれた猿田彦の面です。東照宮の行列でも先導する猿田彦が見られました。
天狗党志士之墓(全隈町(またぐまちょう))
水戸の幕末、明治初めを悲しいものにした、天狗党と諸生党の争乱があったそうです。改革派の、「成り上がり者がいばって天狗になっているという蔑称」をつけられた天狗党と、保守で門閥派の、弘道館の書生が多かったので言われたという諸生派が、たぶん互いに理のためなのでしょう、戦いの歴史を作ってしまったようです。写真は、全隈町の道路脇にある、争乱で倒れた天狗党志士を慰霊するために、昭和47年に全隈共有林所有者34人が建てた墓のようです。
天狗納豆(柳町1-13-13)
天狗党にちなんで名づけられたという水戸納豆です。看板の天狗面は道路を通る人の目をひいているようです。
そば吉(萱場町503-1)
これも天狗の面を看板として掲げた、萱場町にあるそば店です。
富貴蘭(ふうきらん 水戸市植物公園 小吹町504)
紅天狗という名前の品種だそうで、富貴蘭の紅花中でもっとも色が濃い品種だそうです。天狗の赤い顔ということなのでしょうか。水戸市植物公園植物館で7月に行われていた富貴蘭展で見ました。
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