「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようという意志を意志することはできない。」とウィトゲンシュタインは言ったが、これほど深い洞察の言葉もあまりないのではないかと思う。
立ちたいときに立ち、座りたいときに座る。束縛されていなければ、思うままに体を動かすことができる。それが「自由」という言葉の意味だろう。それで、主観的な観点からすると、無制限の「自由」とは何でも自分の意志によって決定することだと思いがちである。
しかし、よくよく反省すれば、私が手を上げようとしたときは、すでに「手を上げよう」という意志は生まれてしまっている。問題はその意志を誰が起こしたのかということである。その意志を「私」が起こしたと言えるなら、究極の主体は「私」であると言えるだろう。しかし、どこを探しても意志を引き起こす「私」というものは見つからない、私が手を上げようとしたときは既にその「意志」は生まれてしまっているのだから。意志の生じる過程を「私」が承知しているはずはない。
果して、どこから意志が生まれるのか? 究極の主体はなにかと問われたら、趙州従諗和尚なら「無」と答えるのではないかと思う。
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京都・錦市場にて (本文とは関係ありません)