前回記事の最後で、私は次のように述べた。
「未来は既に決定している。」と言葉では簡単に言えるが、私達はその言葉がどういう場合に真実であるかを知らないのである。つまり、その言葉の意味を理解しているとは言えないのである。端的に言ってその言葉は空疎である。
たぶん、私の言葉に少々違和感を持たれた人もいるのではなかろうか、と推察している。言葉は理解しているから言えるのであって、理解していないことを言えるはずがない、と漠然と思っている人が多いのではないだろうか。今回は、私達が自分が何を言っているか分からないまま、言葉を発していることがあるのではないかということについて述べてみたい。
言葉の意味とは何かということはとても難しい。それについて専門家が論じている内容はとても難しくて、私のようなアマチュア哲学者にはとても理解できない。それで、とりあえず「平叙文の意味を理解している」ということに焦点を当てて論じてみたい。平叙文と言うのは、命令文でも疑問文でもない、いわゆる普通の文のことである。意味がなんであるかということは難しいが、その文がどういう場合に本当であり、どういう場合に本当ではない、ということが分かっているなら「文の意味を理解している」と言っても不都合はないのではないだろうか。
例えば、「雪は白い」という文は、実際に雪が白ければ本当(真)であり、もし白くなければ本当ではない(偽である)、ということが分かっていれば、「雪は白い」という文を理解していると言っても差し支えないように思う。「御坊哲は日本人である」という文はどうか。実際に御坊哲という人物を知らなくとも、このブログを書いている人間が日本のパスポートを持っていれば、この文が本当のことだと理解していれば、この文の意味を知っていると言って良いだろう。
それでは、「神さまは存在する。」という文についてはどうか? どういう状態が「神さまがいる」と言える事態なのだろうか? なかなかイメージすることが難しい。この時、発言者が神さまは世界の創造主であるという認識しかないのであれば、「神さまは存在する。」は「世界がある」と言うのとは同じことに過ぎない。しかし、それでは発言者は納得しまい。自分はもう少しそれ以上のことを言っているつもりになっているはずである。それは言葉にはいわゆる言霊があるからである。「神さま」と言葉にした以上、その言葉に対するなにか対象が存在すると感じてしまうからである。しかし、その対象がなんであるかあいまいなまま発言しているのなら、発言者は自分でなにを言っているのかが分からないまま、「神さまは存在する。」と言っているのである。
「世界には始まりがある。」と言うのはどうか? あらゆるものがそこにある場所を「世界」と呼んでいるのならば、私達は「世界の始まり」がなんであるかということを知ることができない。「ビッグバンが世界の始まりである。」という人もいるだろうが、それはいつ?、それはどこで始まったの?と問いたくなる。「空間も時間もない状態」というものが言葉では言えるが想像することができない以上、なにもない状態からなにかが生まれる様子を思い浮かべることができないはずである。なにかが始まるとしても、それは世界の中で始まるのであって、「世界そのものの始まり」という言葉はわれわれの手に余るものに違いない。
このように考えていくと、われわれは自分では何を言っているか分からないまま、言葉を発していることが多々あるのではないかと思う。
鎌倉風景 本文記事とは関係ありません。